17. 皇帝エルザ
その日の午後、俺は王城に向かった。リアフォードに、最後の挨拶をするためだった。
南棟の応接室で、リアフォードは待っていた。記録の束は、すでに整理され、王太子の手元に渡されていた。
「アモス殿」リアフォードは立ち上がった。「お時間を、ありがとうございます」
「明後日、サーキニアを発ちます」俺は言った。「殿下に、お礼を申し上げに来ました」
「礼を言うのは、こちらの方です」
リアフォードは少し、頭を下げた。
「殿下は、これからどうされますか」
「私は、王太子殿下と国王陛下のご判断を待ちます」リアフォードは静かに言った。「死罪か、それに準ずる刑か。どのような結論であっても、受け入れます」
「ご家族は」
「妻と娘がいます。すでに、こちらの混乱から距離を取れる場所に、避難させております。私の処遇が決まり次第、彼女たちの今後についても、王太子殿下と話し合うことになると思います」
俺はリアフォードを見た。
この男は、自分の終わりを、冷静に組み立てている。後悔はあるだろうが、それを口にしない。最後まで、自分の責任を、自分で引き受けようとしている。
「殿下」俺は言った。「一つだけ、申し上げます」
「どうぞ」
「あなたの信念──帝国からの真の独立を求める信念──は、私には完全には理解できません。私は帝国の人間です。しかし、信念そのものを、否定はしません。手段が誤っただけだと、私は思っています」
リアフォードはしばらく、俺を見ていた。
「アモス殿。それは、私にとって、慰めになる言葉です」
「慰めるつもりは、ありません」俺は言った。「ただ、私が見たものを、お伝えしただけです」
「それが、判事のお仕事ですね」
俺は少し笑った。
「経験則です」
リアフォードも笑った。それから、手を差し出した。
俺はその手を握った。リアフォードの手は、リアフォードらしく、しっかりしていた。
「ご無事で」リアフォードは言った。
「殿下も」
俺は応接室を出た。
扉を閉めるとき、振り返ると、リアフォードは窓際に立って、外を見ていた。その背中に、俺はもう一度、敬意を払った。
声には出さなかった。
ただ、心の中で。
帝国首都に着いたのは、サーキニアを発ってから十数日後の昼前のことだった。
俺とイリアは大公国を経由し、副都を通らずに直接首都へ向かう街道を選んだ。副都に立ち寄れば、皇太子の手前、儀礼的な手続きが要る。今はそのような時間を割く余裕はなかった。スロックも、それを承知の上で、首都直行の便宜を取り計らってくれていた。
首都の門をくぐった瞬間、空気が変わった。
サーキニア王都の活気とも、副都の整然さとも違う、独特の張り詰めた空気だった。北に旧魔王領を抱えるこの都市は、平時にあっても、どこかで緊張を保っている。城壁の上では、帝国軍の兵士が一定の間隔で配置され、街道の入口には、冒険者らしき者たちが何組か、出立の準備をしていた。
帝都の北側には、既に旧魔王領の影が差していた。地平線の先に、荒野の気配が見える。緑の終わりの向こうに、石と砂の世界が広がっている。
俺はそれを、久しぶりに見た。
第一軍司令官だった頃、この風景は日常だった。あれから、五年は経つ。風景は変わっていなかったが、見ている俺の方が、変わっていた。
「伯父上」イリアが小声で言った。「どこに、まず向かわれますか」
「皇宮だ」俺は答えた。「エルザ陛下にお目通りを願う必要がある」
イリアは少し、表情を引き締めた。
皇族として、皇帝に拝謁するというのは、軽い行為ではなかった。皇族の印を所持していなければ、面会の申し込みすらできない。俺たちは、そのために印を持参していた。
「伯父上は、エルザ陛下と、面識がおありですか」
「ある」俺は短く答えた。
イリアは、それ以上聞かなかった。俺の声の質で、何かを察したのだろう。
俺は皇宮への道を歩きながら、頭の中で気を整えた。
エルザ陛下に会うのは、皇太子レースが終わってから初めてだった。あの時から、五年が経っている。陛下の側からすれば、敗者の一人が、ようやく顔を出した、という程度の感覚かもしれなかった。
ただし、陛下はそういう小さな感慨に頓着する人ではなかった。
あの方の前では、こちらの整えた言葉も、組み立てた論理も、しばしば意味を失う。直感で物事の核心を掴み、こちらの想定の外から手を伸ばしてくる。剣を構えたときの間合いの読み方と、人と話すときの話の捉え方が、同じ性質を持っている。
俺はそれを、苦手としていた。
言葉にすれば、そういうことだった。
皇宮の門で、皇族の印を示した。門番は短く確認し、奥に伝令を走らせた。十数えるほどの間も置かず、戻ってきた伝令の答えは、俺の予想を超えていた。
「陛下が、すぐにお会いになる、とのことです」
俺は少し、眉を寄せた。
通常、皇族の面会申し込みは、日を改めての対応になる。皇帝の予定の都合があるからだ。それが、即時の応答というのは、陛下が俺の到着を予期していたことを示している。スロックから連絡が入っていたのだろう。
俺とイリアは案内に従って、皇宮の奥へ進んだ。
長い回廊を抜け、内庭を渡り、本殿の一室に通された。広い部屋だった。装飾は意外に少なく、正面の窓から北の景色が見えるように設えられていた。窓の外には、旧魔王領の輪郭が、薄く見えていた。
部屋の中央に、女性が一人、立っていた。
俺と背丈はそう変わらない。引き締まった体つきで、長い金髪を一本にまとめている。年齢は、外見では判断できない。三十前にも見え、五十を超えているようにも見える。皇族の不老長命は、見る角度で印象が変わる。
帯剣はしていなかった。しかし、立ち姿の重心の置き方で、手練れだとわかる。剣を抜くまでもなく、空気で示している。
「ザックロード」
俺の名を、陛下は呼んだ。称号もなく、姓もなく、ただ個人名だった。
「お久しぶりでございます、エルザ陛下」
俺は深く頭を下げた。イリアもそれに倣った。
「五年ぶりか」
「左様でございます」
「久しぶりだな。変わっていないな、お前は」
陛下の声には、明るさがあった。豪快さと表現してもいい質の明るさだった。それは、お世辞でも、形式的な挨拶でもなく、本当にそう思っているから出てくる声だった。
俺はその声を、久しぶりに聞いた。そして、自分の背中が少し固くなるのを感じた。
「そちらは」陛下は視線をイリアに向けた。
「姪の、イリア・シーク・オットー・エルヴァルトでございます」イリアは深く頭を下げた。「お目通りいただき、恐悦至極にございます」
「ああ、噂は聞いている」陛下は頷いた。「冒険者としてリードスゴート(旧魔王領)に潜っていた皇族の女子だな。優秀だと聞いた」
「過分のお言葉、恐れ入ります」
陛下はイリアを少し見て、それから俺に視線を戻した。
「ザックロード、用件は聞いている。スロックから知らせが来た。サーキニアの一件と、コーレン家のジェフールという者の件、そして魔王の遺産の疑い。それで、お前はリードスゴートに向かう、と」
「左様でございます」
「で、私に何を求める」
陛下の問いは、まっすぐだった。前置きがない。世間話もない。仕事の話を、即座に始める。これも、陛下らしさだった。
「リードスゴート監視塔への入域許可と、必要な物資の手配につきまして、陛下の御名のもとに正式な書状を頂戴いたしたく」
「それだけか」
「それだけでございます」
陛下はしばらく、俺を見ていた。それから、少し笑った。
「お前は、相変わらず欲がないな」
俺は何も言わなかった。
「もっと求めてもいいのだぞ。兵の同行、専用の魔法具、護衛の冒険者の雇用費用。皇帝の許可があれば、引き出せるものは多い」
「必要があれば、現地で要請いたします」
「現地で、か」陛下はもう一度笑った。「なるほど。お前は、現地で何が要るかも、ある程度の予測がついているわけだ」
「予測の範囲では」
「その予測を、聞かせてくれ」
俺は少し、考えた。
陛下の前では、整えた言葉は意味を失う。それは知っていた。だから、考えながら、思いついた順に言うしかなかった。
「ジェフールという人物は、商人を装ってリードスゴートを出入りしていた可能性があります。冒険者ギルドの依頼でダンジョンへ入った記録、あるいは商品の運搬で各町を経由した記録、いずれかが地域監視塔に残っているはずです。まずは、その確認から始めます」
「ふむ」
「次に、八年前にイリアが回収した書物の所在も、確かめる必要があります。コーレン家がそれをまだ持っているなら、ジェフールの拠点に近いはずです」
「拠点はどこだと、お前は見ている」
「中層から深層への移行域、と申告がありました」
陛下の眉が、わずかに動いた。
「申告、というのは、誰の言葉だ」
「リアフォード殿下の財務を取り仕切っていた、コーレン家の者でございます」
「その者の言葉、信用できるか」
「嘘を見抜けない男です」俺は答えた。「正確に申せば、嘘か真か、判事の魔法具では判定できない男です」
陛下は、声を出して笑った。
「それは、お前の得意技が通じない相手だな」
「はい」
「では、どうする」
「あの男の言葉を、一つの仮説として保持します。同時に、別の線からも確認を取ります」
陛下は頷いた。
「いいだろう。書状は、今日中に発行する。物資の手配も、お前の言う通り、現地での要請に応じる形にしておく。ただし、一つだけ、私からの条件がある」
「お聞かせください」
陛下は俺を、まっすぐに見た。
「お前は、リードスゴートに入ったら、皇族としての印を、必ず持って動け。傭兵団の身分証だけでは、深層には近づけん。皇帝の名のもとに動く者として、相応の振る舞いをしろ」
俺は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
「それと」陛下は少し笑った。「困ったら、私に直接、通信を寄越せ。スロック経由でなくていい。私とお前の間の話として、対応する」
俺は、その言葉に、少し詰まった。
予想していなかった申し出だった。皇帝が、皇族の一人に対して、個人的な連絡経路を開くというのは、軽い意味ではない。
「……感謝いたします」
俺は短く答えた。それしか、言葉が出てこなかった。
陛下は、それを察したのか、それ以上は何も言わなかった。
「下がってよい。書状は、夕刻までに使いの者を寄越す」
「失礼いたします」
俺とイリアは、深く頭を下げて、部屋を出た。
扉が閉まった瞬間、俺は小さく息を吐いた。
イリアが、俺を少し見た。
「伯父上」
「なんだ」
「陛下のことが、苦手でいらっしゃるのですか」
俺は少し、笑った。
「わかるか」
「お顔は、いつも通りでした。ただ、息の整え方が、いつもと違いました」
俺は何も言わなかった。
姪は、よく見ている。




