16. 旧魔王領への出立の準備
大使館に戻ったとき、ベルトが書記官室で待っていた。卓の上に、一枚の紙が置かれていた。
「魔法通信石が、夕方に光った」ベルトは言った。「スロック殿下からだ」
俺は紙を手に取った。イリアが受信した内容を書き取ったものだった。短い文だった。
──報告、確認しました。サーキニアの整理は王太子殿下に委ね、ジェフールの線にお力添えを願います。必要な人員と物資は、最寄りのリードスゴート監視塔から手配いたします。ご判断は、ザック殿にお任せします。
俺は紙を読み返した。
二回読んだ。三回読んだ。
「ザック」ベルトが言った。「皇太子殿下は、お前をリードスゴートに向かわせたいらしいな」
「ああ」
「王太子殿下とサーキニアの整理は、お前の手から離す、ということだ」
「そうだな」
俺は紙を卓に置いた。
スロックの判断は、明快だった。サーキニアの内政問題は王太子と国王の手に委ねる。ジェフールの線は、コーレン家の長期戦略の頭であり、皇族の魔力を必要とする魔王の遺産に関わる以上、皇族の問題として扱う。だから、ザックロードに動いてほしい。
ただし、命令ではなかった。「ご判断にお任せします」という言葉が、最初に置かれていた。
俺が断ることもできる、ということだ。
「どうする」ベルトが聞いた。
「行く」俺は答えた。
「即決か」
「迷う必要がない」
ベルトは少し笑った。
「お前らしいな」
俺は通信文を畳み、卓に置いた。
「ベルト」俺は言った。「俺が動く以上、戦団内の引継ぎが要る」
「ああ。戦務幕僚と、槍剣指南役と、戦団内判事の三役分だな」
「戦務幕僚は、副官に引き継げる。槍剣指南役は、しばらく休講にしてもいい。問題は判事だ」
ベルトは少し顎を撫でた。
「判事の代わりが、駐屯地にはいないな」
「そうだ。だから、戦団長を通して、本国に正式な要請を出す。臨時の判事を派遣してもらうか、あるいは、俺が戻るまでの期間、案件を保留にする扱いにするか。どちらにせよ、戦団長の判断と本国の承認が要る」
「皇太子殿下からの通信があったとはいえ、お前は個人契約の傭兵だ。要請は要請、命令ではない。引継ぎを飛ばすわけにはいかない」
「その通りだ」
俺はそう言って、紙に手を伸ばした。
「明日のうちに、戦団長宛ての書面を作る。引継ぎの段取りと、不在の期間の見込み、戻るまでの判事業務の扱いを書く。それを、明日の朝、駐屯地に送る」
「俺が運ぼう」ベルトは言った。「ついでに、駐屯地の方の状況も確認してくる。サーキニアの首都が混乱している以上、駐屯地への問い合わせも増えているはずだ」
「頼む」
扉が叩かれた。
「どうぞ」
イリアが入ってきた。彼女もすでに通信の内容を読んでいるようだった。表情が、少し硬かった。
「伯父上」
「なんだ」
「私もご一緒します」
俺はイリアを見た。
「お前は、書記官として大使館に残る方が」
「いえ」イリアの声は、丁寧だが毅然としていた。「八年前にジェフールから依頼を受けたのは、私です。あの時に回収した書物が、今回の事件に繋がっている。私には、線を最後まで辿る責任があります」
俺はしばらく、イリアを見ていた。
責任、という言葉を、彼女は使った。義務でも、好奇心でもなく、責任。それは、判事の言葉だった。
「公職は、どうする」俺は言った。「書記官の任務がある」
「デルノフ卿に、休職をお願いします。今回の件の延長線上にある任務だと、ご説明します」
「許可が下りるかは、わからない」
「下りなければ、辞職して同行します」
俺は少し、笑った。
「それは、お前の人生の話だ。俺が止める理由はない」
イリアも、少し微笑んだ。
ベルトが、少し肩をすくめた。
「決まりだな」ベルトは言った。「俺は大使館の方を続ける。傭兵団としての対応は、こちらで処理しておく。お前らは、リードスゴートに向かえ」
「頼む」
「ザック」ベルトは少し、声を落とした。「気をつけろ。今回の相手は、これまでとは違う」
「わかってる」
ベルトは頷き、書記官室を出ていった。
残された俺とイリアは、しばらく卓を挟んで座っていた。
窓の外で、夜の闇が王都を覆いはじめていた。
「明日、出立しますか」イリアが聞いた。
「いや、明後日だ」俺は答えた。「明日は、必要な準備に充てる。スロックが手配する物資の連絡を待つ必要もある」
「準備、というのは」
「装備、地図、紹介状、それから──」俺は少し考えた。「これまでの調査の整理だ。サーキニアでの線を、頭の中で一度、きれいにしておきたい」
イリアは頷いた。
「私も、八年前の記録を整理します」
「頼む」
イリアは立ち上がった。扉に向かいかけて、足を止めた。
「伯父上」
「なんだ」
「八年前の依頼を受けたとき、私は、書物の中身を見ませんでした。それが、冒険者として、正しい判断だったのか、今、迷っています」
俺は少し考えた。
「依頼書には、書物の中身を確認するな、と書かれていたか」
「明確には、書かれていませんでした。ただ、書物には封がしてあり、開ければ依頼の信頼を損なう、という慣習がありました」
「では、お前は慣習に従っただけだ」俺は言った。「責めるべきところは、ない」
「ですが、もし中を確認していれば、コーレン家の動きに、もっと早く気づけたかもしれません」
「それは、結果から見た判断だ」俺は言った。「八年前のお前は、その時点で得られる情報の中で、最善の判断をした。それでいい。後から振り返って、もっと良い選択肢があったと言うのは、簡単だが、酷な話だ」
イリアは少し、目を伏せた。
「伯父上は、どうしてそんなに、言葉が優しいのですか」
俺は少し、笑った。
「優しいかどうかは、わからない。ただ、長く判事をしていれば、自分自身の過去の判断を、何度も振り返ることになる。そのたびに、自分を責めていたら、続かない。だから、自分にも、他人にも、過去の判断を、その時点の最善として受け入れる癖がついた」
「それを、今、私に教えてくださっているのですね」
「教えているわけではない」俺は言った。「ただ、お前が必要としていそうなことを、話しただけだ」
イリアはしばらく、黙って俺を見ていた。
それから、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
彼女は部屋を出ていった。
俺は窓の外を見た。
星が、出はじめていた。
明後日、旧魔王領へ向かう。
線は、まだ続いている。判事の仕事も、続いている。
俺は卓の上の通信文を、もう一度、見た。
スロックの言葉の最後に、こう書かれていた。
──ご判断は、ザック殿にお任せします。
弟は、こう言っているわけだ。
行くも、行かないも、お前次第だ、と。
しかし、俺はもう、決めていた。
俺は紙を畳み、引き出しに仕舞った。
次の朝が、来ようとしていた。
翌朝、俺は早くから動いた。
まず、戦団長宛ての書面を仕上げた。サーキニア駐屯地での三役の引継ぎ要請、不在期間の見込み、戻るまでの判事業務の扱い。簡潔に、しかし必要な要素は全て盛り込んだ。書面の最後には、皇室傭兵団員としての誓約に従い、戦団の判断を仰ぐ旨を明記した。
ベルトが書面を持って出立したのは、夜明け前のことだった。駐屯地までの道のりを考えれば、戻るのは明日の昼過ぎだろう。
俺は書記官室で、二日間の準備期間を整理しはじめた。
装備の見直し。槍と剣、防具の状態の確認。旧魔王領は荒野とダンジョンの混じる地域だ。サーキニアの王都とは、必要なものが違う。
地図の確認。スロックが手配する旧魔王領監視塔の位置と、そこから中層ダンジョンへの経路。
紹介状の準備。皇室傭兵団員としての身分証と、皇族としての身分証の両方を、念のため用意しておく必要があった。後者は普段、傭兵団員として動く以上、使う機会はない。しかし、旧魔王領の監視塔に入る際には、皇族としての身分が必要になる。
俺は引き出しから、長く触れていなかった皇族の印を取り出した。
六王家の紋章、レイフ家のものだ。
手のひらに乗る大きさの、銀の印章だった。表面に細かい彫刻が施されている。皇太子レースに敗れた後、俺はこれを使う機会がほとんどなくなった。傭兵団員として活動する際には不要だったし、ザックロード・アモスとして名乗っているときには、これを示すこと自体が立場の混乱を招く。
しかし、これから向かう旧魔王領では、これが必要になる。
俺はその印を、しばらく見ていた。
久しぶりに見ると、少し重く感じた。物理的な重さではない。立場の重さだった。
扉が叩かれた。
「どうぞ」
イリアが入ってきた。彼女もまた、皇族の印を手にしていた。オットー家の紋章。彼女のものだ。
「準備は、進んでおられますか」
「ああ」俺は印を卓に置いた。「お前も、それを持ち出したか」
「監視塔に入るには、必要かと」
イリアは俺の向かいに座り、自分の印を卓に置いた。レイフ家とオットー家、二つの紋章が並んだ。
「お前の母親は、元気か」俺は唐突に聞いた。
イリアは少し驚いた顔をした。
「はい。先日の便りで、変わりないと聞いています」
「お前が今回、リードスゴートに向かうことを、知らせないとな」
「はい。出立する前に、書面で伝えるつもりでした」
俺は少し考えた。
「出立前に手紙で伝えた方がいいだろう。母親というのは、後から知ると心配が長引く」
イリアは少し、目を伏せた。
「伯父上」
「なんだ」
「母は、伯父上のことを、よく話していました」
俺は黙って、イリアを見た。
「私が幼い頃、母は、自分の兄が偉大な冒険者で、優れた軍人で、外交官でもあった、と話してくれました。皇太子レースに敗れたときも、母は、兄は負けていない、最善を尽くしただけだ、と」
俺は少し、笑った。
「妹は、昔から俺を過大評価する癖があった」
「過大評価ではありません」イリアは静かに言った。「私が冒険者になったのも、外交の道に進んだのも、母から聞いた伯父上の話があったからです」
俺は何も言わなかった。
言うべき言葉が、見つからなかった。
妹が、俺をそのように話していたとは、知らなかった。レイフ家からオットー家に養子に出てから、距離ができたと、俺は思っていた。手紙のやり取りはあったが、深い話をする機会は減っていた。
しかし、妹は、俺を娘に語っていた。それは、俺と妹の繋がりが、別の形で続いていたということだった。
「ありがとう」俺は短く言った。「教えてくれて」
イリアは少し、首を傾げた。
「礼を言われるとは、思いませんでした」
「俺も、思わなかった」
俺たちは少し、笑った。
卓の上で、二つの紋章が、午前の光を受けて静かに光っていた。




