13. ジェフール
大使館に戻る道で、イリアが小声で言った。帝国標準語だった。
「伯父上」
「なんだ」
「リアフォード殿下は、自分の幼馴染を売ることに、躊躇いがあったように見えました」
「あった」俺は言った。「ただし、それは弱さではない」
「強さですか」
「人間としての普通の感覚だ」俺は言った。「幼馴染を売れる人間と、売れない人間がいる。売れない人間が悪いわけではない。ただ、リアフォード殿下は、最終的には書くことを選んだ。それが、彼の覚悟だ」
イリアはしばらく黙っていた。
「私だったら、書けるだろうかと、考えていました」
俺は少し笑った。
「お前は書けるさ」
「なぜ、わかるのですか」
「お前は、自分の感情と、するべきことを分けて考えられる。冒険者をしていた頃に、それを身につけたんだろう」
イリアは少し顔を伏せた。
「冒険者の頃、仲間を一人、置いていったことがあります」
俺は少しイリアを見た。
「話したいなら、聞く」
「いえ」イリアは小さく首を振った。「いつか、お話しすることもあるかもしれません。今は、まだ」
俺は頷いた。
無理に聞き出すことはしない。それは、判事として、また伯父として、長く守ってきた習慣だった。
大使館の正門が、夕暮れの中に見えてきた。
ベルトが正門に立っていた。
その表情で、何かが起きたとわかった。
「ザック」ベルトは言った。「副大使室で、ミクストンが──」
俺は足を速めた。
副大使室の扉は開いていた。
ベルトが先に入った。俺もすぐ後を追った。
ミクストンは椅子に座っていた。卓に上半身を伏せるような姿勢で、動かなかった。
俺は近づいた。手を首筋に当てた。
脈はあった。弱いが、確かにあった。
「医者を呼べ」俺はベルトに言った。「館の医療班でいい。急がせろ」
ベルトが部屋を出ていった。
俺はミクストンの体をそっと起こした。卓の上に、小さな硝子瓶が転がっていた。蓋が開いている。中身は空だった。
毒だ、と俺は判断した。即効性ではない、ゆっくり効く類のもの。覚悟していた者の選び方だ。
「副大使」俺は声をかけた。「聞こえますか」
ミクストンの瞼が、わずかに動いた。それから、ゆっくり開いた。目の焦点は、定まっていなかった。
「アモス殿……」
声は、消え入るように小さかった。
「無理に話さなくていい。医者が来ます」
「いえ……話します」ミクストンは少し首を動かした。「もう、間に合いません。私には、わかります」
俺は黙って聞いた。
「コーレン家の中に……ヴァルク以外にも、動いている者がいます。私が知らない者です。母から……話を聞いたとき、母は……名前を一つ、言い残しました」
「誰ですか」
ミクストンは少し、目を閉じた。息を整えているようだった。
「ジェフール……」
「ジェフール、何ですか」
「家名は、知りません……母も、知らないと……ただ、名前だけ。それが、コーレン家の本当の頭脳だと……」
俺はその名を、頭の中に書き留めた。
「他に、伝えたいことはありますか」
ミクストンは少し笑ったように見えた。穏やかな笑い方だった。
「アモス殿……判事として、お仕事を続けてください。あなたのような方が、いるなら……帝国は、まだ大丈夫です」
「副大使」
「私は……もう、コーレン家の者ではありません。最後に……それを、自分で証明したかった」
ミクストンは目を閉じた。
扉の方で、足音が聞こえた。医療班だった。しかし、それより少し早く、ミクストンの呼吸が止まった。
俺は立ち上がった。
医療班が部屋に入り、ミクストンの容態を確認した。一人がゆっくり首を振った。
俺は窓の外を見た。
夕陽が落ちかけていた。空は赤く、雲が動いていた。ありふれた夕暮れだった。
扉の方から、デルノフ卿が入ってきた。ベルトが知らせたのだろう。デルノフ卿はミクストンを見て、しばらく何も言わなかった。
「アモス殿」やがて言った。「彼は……自ら、ですか」
「そう見えます」俺は言った。「コーレン家から離れる、最後の手段として」
デルノフ卿は深く息を吐いた。
「彼の家族には、どう伝えれば」
「家族のことは、本国の判断に従ってください」俺は言った。「ただし、彼が最後に話した内容は、報告書に残します」
「内容、というのは」
「コーレン家の中に、もう一人、動いている者がいます。ジェフールという名の人物です」
デルノフ卿の眉が、わずかに動いた。
「ジェフール……」
「ご存知の名前ですか」
「いえ、初めて聞きます」
俺は頷いた。それから、医療班の方を見た。
「彼の遺体は、丁重に扱ってください。後で、改めて手順を考えます」
俺は副大使室を出た。
廊下を歩きながら、頭の中で線を整理した。
ヴァルク・コーレンは、リアフォードの財務を取り仕切っていた表向きの存在だ。アルラ・ベディスは、リアフォードの幼馴染で、コーレン家との繋がりを持っていた。ミクストンは、コーレン家の血を引く帝国人で、情報の中継役を担っていた。リオンは、ミクストンの指示で動いていた現地採用の事務員。
そして、ジェフール。
名前しか知られていない、コーレン家の本当の頭脳。
ミクストンの母が、死の床で息子に伝えた名前。それが、本当の標的だった。
書記官室に戻ると、イリアが筆を持ったまま、立ち上がっていた。ベルトから話を聞いていたのだろう。
「ミクストンが」イリアが小声で言った。
「自害した」俺は答えた。「ただし、最後に、もう一つの名前を残した」
イリアは黙って俺を見た。
「ジェフール」俺は言った。「家名は不明。コーレン家の中の、本当の頭脳だ」
イリアの顔が、少し固くなった。
「伯父上」
「なんだ」
「その名前、私はどこかで聞いたことがあります」
俺はイリアを見た。
「どこでだ」
イリアはしばらく考えた。それから、書庫に向かった。
俺は黙って、彼女が戻るのを待った。
窓の外で、夕陽が完全に沈もうとしていた。
イリアは長く戻ってこなかった。
俺は書記官室で、卓に向かい、報告書の下書きを始めた。今日の出来事を、時系列で整理した。リアフォードからの口述、ミクストンの告白、副大使の自害、そして「ジェフール」という名前。
筆を進めながら、俺は何度か、自分の判断を振り返った。
ミクストンを副大使室に戻したとき、拘束しなかった。それは、彼の覚悟を信じたからだった。判事として、相手の言葉に嘘がないことを確認した上での判断だった。しかし、彼が自害するという可能性を、俺は十分に考慮していたか。
考慮していなかったわけではない。
ただ、考慮した上で、それでも拘束しないことを選んだ。
彼が自害を選ぶなら、それは彼の覚悟の最後の形だ。それを止めることは、彼の人生の最後の一手を奪うことになる。判事として、それは越えていい線ではないと、俺は思った。
しかし、結果として、彼は死んだ。
俺はその結果を、自分の中で整理する必要があった。後悔ではない。納得を得るための整理だ。
筆が止まった。
扉が叩かれた。
「どうぞ」
イリアが入ってきた。古い帳簿を一冊と、別の薄い冊子を一冊、抱えていた。顔が少し蒼ざめていた。
「お見せしたいものがあります」
イリアは卓に冊子を置いた。古い冒険者ギルドの記録だった。
「冒険者をしていた頃、私はリードスゴートのダンジョン探索に関わったことがあります。八年ほど前のことです。その時のパーティの依頼主の名前が、ジェフールでした」
「ジェフールという名は、よくある名前ではないだろう」
「そう思います。それで、覚えていました」
俺は冊子を開いた。確かに、依頼主の欄にジェフールという名が記されていた。家名はなかった。
「依頼の内容は」
「リードスゴートの中層ダンジョンから、ある書物を回収すること、でした」
「書物の内容は」
「私たちは、依頼主が指定した書物を回収しただけです。中身は読んでいません。ただ、表紙には、ある紋様が刻まれていました」
イリアはもう一冊の帳簿を開いた。
「これは、当時私が個人的に書き留めていた記録です。書物の表紙の紋様を、記憶を頼りに描き写しました」
俺はその頁を見た。
円の中に、三本の線が交差している紋様だった。
倉庫の扉に刻まれていた紋様と、同じだった。
コーレン商会の紋様と、同じだった。
俺は少し、息を吐いた。
「八年前、お前はジェフールに依頼されて、古い書物をリードスゴートのダンジョンから回収した、ということだな」
「はい」
「依頼の支払いは、どうだった」
「相場の三倍でした。書物一冊の回収にしては、破格の額でした」
俺は卓に手をつき、考えを整理した。
八年前。それは、ヴァルク・コーレンがリアフォードの財務に入った年だ。同じ年に、ジェフールがコーレン家の紋様の書物を、旧魔王領のダンジョンから回収させていた。
偶然ではない、と俺は判断した。
書物の内容は不明だが、それが何らかの形で、その後のコーレン家の活動の基礎になった可能性がある。あるいは、その書物の存在自体が、コーレン家の歴史を裏付けるものだったのかもしれない。
「ジェフールについて、その時の印象を聞かせてくれ」
イリアは少し考えた。
「直接会ったわけではありません。依頼書のやり取りだけでした。ただ、ギルドの仲介者の話では、四十代から五十代の男性で、商人風の格好をしていた、とのことでした」
「依頼を出した場所は」
「リードスゴートの冒険者ギルドの、辺境支部です。ただ、その依頼者は、サーキニアの方から来た者だ、とギルドの者が話していました。サーキニア訛りがあった、と」
俺はイリアを見た。
八年前、サーキニアからわざわざ旧魔王領の辺境ギルドまで足を運び、相場の三倍を払って、コーレン家の紋様の書物を回収させた人物。コーレン家にとって、それだけの価値がある書物が、旧魔王領のダンジョンに眠っていたということだ。
線が、また一つ繋がった。
コーレン家は、サーキニア国内だけでなく、旧魔王領にも何らかの関わりを持っていた。それも、八年前から動いていた。今もその繋がりが続いているなら、ジェフールは旧魔王領にいる可能性もある。あるいは、サーキニアと旧魔王領を行き来している可能性もある。
「明日」俺は言った。「サーキニア王都の南区を、もう一度調べる。リオンが向かった倉庫の周辺だ。ジェフールが今もこの王都にいるなら、その線から辿れるはずだ」
「私もご一緒します」
「ああ。お前の記憶が、必要になるかもしれない」
イリアは頷いた。
俺は窓の外を見た。夜の闇が、王都を覆いはじめていた。
ミクストンの自害から、まだ半日も経っていない。しかし、線はすでに動きはじめている。
判事の仕事は、止まらない。
止めてはいけない。
俺は再び、筆を取った。
翌朝、俺とイリアは旅装束に着替え、大使館の裏口から出た。
ヴェラ・ドルスが路地で待っていた。彼女もまた、目立たない格好をしていた。サーキニアの市場に溶け込む姿だった。
ベルトは大使館に残った。ミクストンの遺体の処理と、リオンの拘束、そして今日も続くリアフォードの口述記録への対応。やることは多かった。
「南区の倉庫から始めますか」ヴェラが小声で聞いた。
「いや、別の場所からだ」俺は言った。「八年前、ジェフールが書物を回収させた経緯から考えれば、彼はコーレン家の中で、特に古い記録や知識を扱う立場にいる可能性がある。であれば、まず文書の保管場所を見たい」
「文書の保管場所、というのは」
「コーレン家が表向きに使っている店舗の中で、最も古いものだ」
イリアが言った。
「大使館の記録に、コーレン家の関係する商会の所在地一覧があります。昨夜、確認しました。最も古い記録に残るのは、南区の隣の中央区にある古書店です。三十年前から営業を続けているとのことです」
「古書店か」俺は少し笑った。「それは、まさに記録を扱う場所だ」
俺たちは中央区に向かった。
午前の市場は、平時の様子に戻りつつあった。露店が並び、買い物に来た人々が行き交う。クーデター直後の緊張は、表面的には和らいでいた。ただし、よく見れば、武装した者の姿が以前より目立っていた。王太子側の兵士たちが、王都の治安維持に動きはじめている。
古書店は、中央区の路地の奥にあった。看板は古く、文字が薄れていた。ただし、扉は丁寧に手入れされていて、塗料が新しかった。表向きの古さと、実際の維持の手間とが、不釣り合いだった。
俺はイリアとヴェラに、店の前で軽く頷いた。
「俺が中に入る。お前たちは、外から店を見ていてくれ。誰かが出入りするか、店を見張っている者がいないかを確認してくれ」
「承知しました」イリアが言った。
俺は扉を開けた。
店の中は、薄暗かった。書棚が天井まで伸びていて、本が隙間なく詰まっていた。古い紙の匂いが、空気に重く沈んでいた。
奥の卓に、初老の男が一人いた。書物に何かを書き込んでいる。俺が入っても、すぐには顔を上げなかった。
「ご用件は」
男は手元を見たまま言った。サーキニア語だった。
「古い書物を探しています」俺もサーキニア語で答えた。「コーレン家にゆかりのある書物を」
男の手が、止まった。
ゆっくり顔を上げた。眼鏡の奥から、俺を見た。
「お名前を、伺っても」
「ザックロード・アモスと申します。傭兵団に所属しています」
男はしばらく俺を見ていた。それから、ペンを置いた。
「アモス様。私はこの店の店主、ベフ・コーレンと申します。コーレン家の遠縁になります」
俺は表情を変えなかった。
男の名乗り方は、率直だった。コーレン家の関係者であることを、隠そうともしていない。それは、店の表向きの目的が、コーレン家の歴史記録の保管と公開であることを示している。違法ではない、ということを、最初から示しているのだ。
「単刀直入にお伺いします」俺は言った。「ジェフールという名の方を、ご存知ですか」
ベフは少し、目を細めた。それから、静かに俺を見つめた。
「コーレン家の中にも、情報は流れます。アモス様が大使館でリオンや副大使を尋問なされたこと、そして、判事としての魔法具をお使いになられたことも、私の耳に入っております」
俺は表情を変えなかった。
昨日の今日で、それだけの情報がコーレン家の末端まで流れている、ということだ。ベフ自身が、その情報網の節の一つなのだろう。
「アモス様は、傭兵団員としてではなく、判事として、ここに来られたのですね」
「はい」
「コーレン家のことを、どこまでお調べに」
「五十年前の密貿易の件、現在のヴァルク殿の動き、そしてミクストン副大使の件まで」
ベフは深く息を吐いた。怒りではなかった。諦めでもなかった。
覚悟だった。
「アモス様」ベフは静かに言った。「私は、コーレン家の中で、古文書の管理を任されている者です。ジェフール様のことは、存じ上げております」
「では、お聞かせください」
「ただし、私から話せることは、限られています。私の役割は、記録を守ることであって、人を売ることではないからです」
「人を売ることを求めているわけではありません」俺は言った。「ジェフールが今、どこにいるのか。それを知りたいだけです」
ベフはしばらく黙っていた。
「ジェフール様は、サーキニアにはおりません」
「では、どこに」
ベフは俺をまっすぐ見た。
「リードスゴートです」
俺は表情を変えなかった。
予想はしていた。しかし、確証を得たのは、これが初めてだった。
「いつから、リードスゴートに」
「八年前から、断続的に。最近の三年は、ほぼ常駐されています」
「目的は」
「申し上げにくいのですが──」ベフは少し躊躇った。「コーレン家の、本来の目的のためです」
「本来の目的、というのは」
ベフは長く沈黙した。
書棚の方を一度見て、それから俺に向き直った。
「アモス様。これは、コーレン家の中でも、限られた者しか知らない話です。私が今からお話しすることが、私の家にとってどれほど重い意味を持つか、ご理解いただけますか」
「理解しています」
「では」ベフはゆっくり言った。「コーレン家の本来の目的は、密貿易ではありません。それは、裏の活動を支えるための、副次的な手段に過ぎません」
「では、本来の目的とは」
「魔王の遺産の、回収です」
俺は、その言葉を聞いた。
長く、息を整えた。
窓の外で、市場の音が聞こえていた。日常の音だった。
しかし、俺の見ている景色は、もう日常ではなかった。




