第50話:変わらない朝
昨夜の狂乱のような嵐が嘘のように、ラディスの街にはどこまでも澄み渡る青空が広がっていた。
未踏古代迷宮『天鐘の回廊』――その奥底で鳴り響いていた不吉な鐘の音は完全に途絶え、街を覆っていた魔力雲は一掃されていた。
朝露に濡れた石畳を、爽やかな風が吹き抜けていく。
宿屋《跳ね馬亭》の前の広場には、王都へと戻る大型魔導馬車が静かに停車していた。
馬車の脇には、旅装を整えたセレスティアと、包帯を巻きながらも背筋を伸ばした護衛騎士カインが立っている。
見送りに訪れたのは、アルトとエルシアの二人だった。
「アルト殿、エルシア殿」
カインが一歩前に進み出て、二人に深々と頭を下げた。
「昨夜は命を救っていただき、まことにありがとうございました。五体満足で立っていられるのは、ひとえにエルシア殿の調律治癒のおかげです。王都の騎士として、生涯この御恩を忘れません」
「いえいえ、カインさん! 怪我が塞がって本当によかったです。無理せず休んでくださいね」
エルシアが笑顔で応えると、カインは恐縮したように微笑んだ。
そして、その背後から、白銀の旅装を纏ったセレスティアがツカツカと歩み寄ってきた。
昨夜の涙に濡れた姿とは打って変わり、いつもの誇り高き美少女聖女の佇まいを取り戻している。だが、その瞳に以前のような見下す冷たさは微塵もなかった。
「ふん……見送りなど、頼んだ覚えはありませんでしたのに」
セレスティアはそっぽを向きながら、わざとらしい溜め息をついた。その白い頬は微かに桜色に染まっている。
「セレスティア様、お身体の調子はいかがですか?」
「だ、大聖堂の神童と呼ばれた私が、いつまでも不調を引きずるわけがありませんわ! ……あのね、エルシア」
セレスティアは真剣な瞳でエルシアを見つめた。
「勘違いしないでくださる? 私、昨夜の敗北を認めたからといって、あなたの『調律』に完全に屈したわけではありませんのよ」
「え……?」
「私は王都へ戻り、神殿魔道院で調律の構造を徹底的に理論化してみせますわ。定型詠唱の美しさを保ちながら、戦場の歪みを瞬時に逆位相で相殺する――あなたの調律を凌駕する新たな神聖魔術を構築してみせます! 次に会う時は王都ですわ。その時は腰を抜かさないことですことね!」
それはかつての傲慢な見下しではない。
自らの限界を知り、ライバルを認めた上で高みを目指す、一人の若き魔術師としての誇り高き挑戦状だった。
エルシアは嬉しそうにパッと表情を輝かせた。
「はいっ! セレスティア様の新しい神聖魔術、楽しみにしていますね!」
「む……っ、相変わらず手応えのない人ですわね……」
セレスティアは肩をすくめ、ちらりとアルトへと視線を向けた。
「アルト様。……あなたを王都へスカウトすることは、一旦諦めてあげますわ。ですが……もしそこの元受付嬢があなたを粗末に扱ったり泣かせたりしたら、私がいつでも王都から奪い去りに来ますからね!」
ぷいっと横を向いて言い放つセレスティアに、アルトは眉ひとつ動かさず短く息を吐いた。
「……粗末に扱う気も、泣かせる気もない。王都で勝手にやっていろ」
「〜〜〜っ! 相変わらず一言多いお方ですわね……!」
セレスティアは顔を真っ赤にして馬車のステップへ足をかけた。そして窓から顔を出し、エルシアへと叫んだ。
「エルシア! もし王都へ来たら……お茶くらい付き合ってあげてもよくってよ! 一番高いサロンを予約しておきますからね!」
「ふふっ、はい! 必ず行きますね!」
エルシアが手を振ると、セレスティアは満足そうにカーテンを引いた。魔導馬車が朝日の射す街道を王都へ向けて走り去っていく。
「……元気な奴だな」
「ふふ、とっても素敵な方でしたね。アルトさんのこと、本当に尊敬していたんだと思いますよ?」
「……知るか」
アルトは少しだけ耳の端を赤くして視線を逸らし、踵を返した。エルシアはくすくすと笑って後に続いた。
二人が向かったのは、朝の賑わいが始まった冒険者ギルド《白梟の止まり木》だった。
カランコロン――。扉を開けた瞬間。
「うおおおおおおおおっ!!」
「英雄たちの帰還だぁぁぁっ!!」
割れんばかりの大歓声と拍手が酒場を揺るがした。
カウンターの奥から、支部長ドノヴァンが仁王立ちで豪快に笑った。
「ガハハハハ! よくぞ無事に戻ったな、アルト、エルシア! 古代巨神をぶちのめして迷宮を完全踏破したって話は、王都の騎士団からも届いてるぞ!」
ドノヴァンがカウンターの上に羊皮紙と青銀のメダルを置いた。
「ギルド本部より、お前さんたち公式パーティ《ルミナ・ヴァレイン》に対する『特級冒険者』の認定証だ! 王都の中央ギルドや近衛騎士団からの推薦状も届いてるが……どうする、アルト?」
ギルド中が息を呑んで静まり返る。だがアルトは視線すら落とさなかった。
「……必要ない。王都の政治に付き合う趣味はない」
ドノヴァンがニヤリと笑い、エルシアを見た。
「エルシア、お前さんはどうだ? 王都の大治癒院に行けば、筆頭治癒師のポストだって夢じゃないぞ」
エルシアは胸に手を当てて誇らしげに微笑んだ。
「お断りします、支部長! ここは私を育ててくれた大切な場所ですから。それに――何者でもなかった私を信じてくれたアルトさんと一緒に冒険を続けるのが、私の世界で一番の幸せですから!」
公然の全肯定とラディス残留宣言。酒場が歓喜で爆発した。
「うおおおおっ! 残ってくれるぞおおおっ!!」
「さすがアルトだ! 男前すぎるぜええっ!!」
だが、平和な空気に戻った途端――おなじみの光景が幕を開けた。
「エルシアちゃん! 残ってくれるなら、今日こそ俺たち《赤銅の小隊》と迷宮に行ってくれ!」
「俺たち《銀の盾》が先だ! 一日だけでいいから俺たちの後ろに立ってくれ!」
「頼む、エルシアさんの神がかった調律をもう一度受けさせてくれぇぇぇっ!!」
前衛過多の冒険者たちが、我先にとエルシアの周囲へと殺到した。
特級冒険者になろうと、この街における「奇跡の白魔導士・エルシア」への熱烈なスカウト争奪戦は、何一つ変わっていなかった。
「あ、あのっ、皆さん落ち着いてください! 私、専属の相棒がいますから!」
エルシアが困り顔を浮かべる輪から離れ、アルトが無造作に掲示板から一枚の依頼票を剥ぎ取った。
――依頼内容:『灰鐘の森』における薬草採取および変異種の間引き。
――難易度:E〜Cランク相当。
世界を救った英雄が受けるには、あまりにも慎ましい依頼。
だが、それこそが――二人が初めて言葉を交わし、手を取り合った、すべての始まりの場所だった。
アルトは依頼票をポケットに押し込み、騒ぎの中心へと静かに歩み寄った。
冒険者たちがスッと左右に割れる。アルトはエルシアを見下ろし、いつもよりほんの少しだけ柔らかく口元を緩めた。
「エルシア。……行くぞ」
簡潔で無駄のない、いつもの声。
だがその言葉には、世界中のどんな言葉よりも深く、重い信頼が宿っていた。
エルシアの胸に、かつてカウンター越しに見つめていた日々が蘇る。
後ろで回復だけしていればいいと言われ、存在意義を見失っていた元受付嬢。
あの日々はもう遠い過去だった。
今のエルシアには、信じ抜くべき最高の相棒がいて、命を預け合える特等席がある。
「はいっ!」
エルシアは満面の笑みを咲かせ、アルトの真後ろ――半歩下がった唯一無二の場所へと駆け寄った。
「どこまでもご一緒します! ――100万人組んでくれる人がいたって、私はあなたを選びますから!」
からりと澄み渡る朝の陽光の中。
二人は並んで、懐かしい森へ向けて軽やかに歩み出した。
二人が紡ぐ愛され伝説の序章はここに終わり、新たな旅路の幕が静かに開かれようとしていた。
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