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第46話:アルトの逆・全肯定――「俺の命はお前のものだ」

 ドサッ、と鈍い音が隣室の床から響いた。

 続いて、荒く激しい呼吸と、石畳を引きずるような微かな足音。


「アルトさん……!?」


 エルシアは床から跳ね起きるように立ち上がり、寝室の扉へと駆け寄った。

 セレスティアもまた眉をひそめ、冷然と振り返る。


 開け放たれた扉の向こう――暗がりから現れたのは、息を呑むほど痛々しいアルトの姿だった。


「アルト様……!?」


 セレスティアが息を呑む。

 アルトは壁に肩を預け、激痛に顔を歪めながら、一歩、また一歩と足を引きずって前へ進んでいた。

 胸から肩にかけて巻かれた厚い包帯からは、無理に動いたことでピキピキと傷口が裂け、鮮血が生々しく滲み出して純白の布地を赤黒く染め変えている。

 顔面は蒼白で、額には脂汗がびっしりと浮き、唇からは苦悶の吐息が漏れていた。

 何事もなかったかのように立ち上がったのではない。

 大量の失血と筋膜の断裂、そして空間歪曲の痛みに苛まれ、立っていることすら奇跡のような、限界を遥かに超えた満身創痍の姿だった。


「……ッ!」


 アルトの膝がガクンと折れ、身体が前へと傾いた。


「アルトさんッ!」


 エルシアはなりふり構わず飛び込み、崩れ落ちそうになるアルトの大きな身体を、両腕で必死に受け止めた。

 重い。

 鍛え抜かれた剣士の体重が、エルシアの華奢な肩へと一気にのしかかる。

 だがエルシアは、涙で濡れた顔を歪めながら、奥歯を噛み締めてアルトの腰と腕を抱きしめ、必死に踏ん張った。

 アルトもまた、震える左手をエルシアの肩に回し、その細い身体に体重を預ける。


 ――ボロボロになりながら、エルシアがアルトを支え、アルトがエルシアに寄り添って、二人が並び立つ。

 一人では立つことすらできない二人が、互いを支え合うことで、初めてそこに一本の強固な柱のように立っていた。


「な、何をしているのですかアルト様!?」


 セレスティアが青ざめて叫んだ。


「そんな重傷で立ち上がるなど狂気の沙汰です! その受付嬢から離れなさい! 私の至高の神聖魔術で――」


「……消えろ」


 地の底から軋み出るような、低く掠れた声だった。

 セレスティアの言葉が、ピタリと喉元で凍りつく。


 アルトはエルシアの華奢な肩に全体重を預け、震える左手でその肩布を強く握りしめることでしか、身体を支えられていなかった。

 胸の包帯からピキピキと音を立てて鮮血が滲み出し、唇の端から一筋の血が顎を伝って滴り落ちる。

 荒く、細く、喘ぐような呼気。

 だが、その激痛の限界の中からゆっくりと持ち上げられた灰色の瞳には、触れた者を凍結させるような絶対零度の殺気が宿っていた。


「ヒッ……!?」


 セレスティアの喉から、息を呑む乾いた悲鳴が漏れた。

 背後の護衛騎士カインが大盾を構えようとするが、アルトの放つ剥き出しの気迫に縫い止められ、指一本動かすことができない。


「二度と……俺の相棒を……侮辱するな」


 アルトは血の味のする息を吐き出しながら、途切れ途切れに、だがナイフのように鋭い言葉を刻みつけた。


「お前の……重くて遅い魔法など……一ミリ秒たりとも、俺の身体には馴染まない。……俺の速度を支えられるのは……世界中で、エルシアだけだ」


「な……っ……!?」


「用がないなら……消えろ。……二度と、俺たちの前に顔を見せるな」


 氷点下の宣告。

 息絶え絶えの限界でありながら、その瞳には一切の揺らぎがなかった。

 セレスティアは唇を激しく震わせ、屈辱と底知れない恐怖に顔を青ざめさせると、耐えきれなくなったように悲鳴を上げて部屋を飛び出した。


「お、覚えていらっしゃい……! 後悔しても知りませんわよ……!」


 カインが慌てて後を追い、廊下に響く足音が遠ざかっていく。

 重苦しい静寂が、再び部屋に戻ってきた。


 ***


 バタン、と大扉が閉まった瞬間――アルトの膝から完全に力が抜けた。


「アルトさんッ!」


 エルシアは崩れ落ちるアルトの大きな身体を必死に抱き留め、共に床の上へと膝をついた。


「アルトさん……! どうして起き上がったりしたんですか……! 傷が……血がこんなに……!」


 エルシアの瞳から、大粒の涙がとめどなく溢れ出し、アルトの胸の包帯の上へと落ちていく。


「ごめんなさい……! 全部、私のせいです……! 私が後ろで調律を焦ったせいで、アルトさんに重傷を負わせて……! 私なんかが隣にいたせいで……!」


 エルシアは床に額を擦りつけるようにして、激しい自責に押し潰されて号泣した。


「私、調子に乗ってました……! アルトさんを守らなきゃなんて思い上がって、私が一番アルトさんの足を引っ張ってた……! 私には、アルトさんの隣に立つ資格なんて……!」


 震える小さな肩。

 その涙で濡れたエルシアの頬に、不意に、温かく大きな手のひらが触れた。

 無骨で、血と汗の匂いの染みついた、不器用な手。

 アルトの手だった。


「……っ」


 アルトの指先が、エルシアのこぼれる涙を、震えながらそっと拭い去っていく。


「……馬鹿者」


 掠れて途切れそうな、だがどこまでも柔らかな声だった。

 エルシアが涙で滲む視界を上げると、アルトは激痛に顔を歪めながらも、穏やかにエルシアを見つめていた。


「……傲慢だったのは……俺の方だ」


「え……?」


「お前を……信じるのではなく……守ろうと、驕った……。お前が狙われることを恐れ……無意識に構えを崩し……守りの足を踏み込んで……俺自身の剣を、鈍らせた……」


 アルトは自嘲するように目を伏せ、苦しげに息を吐いた。


「……お前の調律が走ったのは……俺が守りの構えを取って、過剰な不安を背負わせたからだ。……失敗の責任は、二人にある。……お前一人のせいではない」


「アルトさん……」


「……それに、今だってそうだ」


 アルトは胸を押さえ、苦悶に眉間を引き攣らせながら、エルシアの瞳を真っ直ぐに見据えた。


「……胸の奥が、まだ……繋がっている。……お前が今朝、淹れてくれた茶の……微細な調律魔力が……体内の魔力衝突を……心臓の前で、ギリギリで散らしてくれていた……」


「……あ……!」


「……お前の日頃の調律がなければ……俺は、意識を保つことすら……起き上がることすら……できなかった。……俺を生かしているのは、エルシア……お前の支えだ」


 単なる気合いや精神論ではない。

 エルシアが日常の中で注ぎ続けてくれた細やかな気遣いと調律の魔力が、アルトの命を確かに繋ぎ止めていたのだ。

 アルトの震える手が、エルシアの小さな手を力強く握り締めた。


「……俺を、あの暗闇の孤独から……救い出してくれたのは、誰だ?」


「……っ」


「誰も合わせられないと言われた俺の剣を……世界で一番かっこいいと……肯定してくれたのは、誰だ……」


 血の滲む唇から、魂を絞り出すように紡がれる言葉。


「……お前がいなければ……俺は、剣を振る意味すらない。……俺の命は……お前のものだ」


 アルトはかすかに口元を緩め、エルシアを見つめた。


「失敗したなら……二人で取り戻す。……もう一度、俺に背中を預けてくれ」


 ――逆・全肯定。

 かつてエルシアがアルトに捧げた無条件の全肯定が、いま、アルトの口からエルシアへと完全に返されたのだ。


 胸の奥底で渦巻いていた暗い恐怖が、温かい光となって溶け去っていく。

 足枷なんかじゃない。

 アルトは、守られるだけの存在として自分を求めているのではない。

 背中を預け合い、共に立ち上がる対等の相棒として、自分を信じてくれているのだ。


「う……うぅ……っ!」


 エルシアの瞳から、今度は嬉しさと温かさに満ちた涙が溢れ出した。

 エルシアは袖で乱暴に涙を拭うと、顔を上げた。

 その瞳には、迷いの消え去った、凛とした光が宿っていた。


「……はいっ!」


 エルシアは深く息を吸い込んだ。

 呼吸が整う。

 肺に澄んだ空気が満ち、体内の魔力循環が、寸分の狂いもなく清らかに巡り始める。

 指先の震えは、完全に止まっていた。


「アルトさん……目を閉じて、息を合わせてください」


 エルシアは両手を重ね、アルトの胸の血まみれの包帯の上へと、そっと置いた。


「私の全部で……アルトさんの命を調律します!」


 エルシアの掌から、黄金と淡い青が溶け合う、澄み渡るような《調律治癒》の光が溢れ出した。

 傷口を力任せに塞ぐ大魔法ではない。

 古代の爪痕に残された「空間の歪み」を、逆位相の波長で優しく解きほぐし、断裂していた魔力脈を一本一本繋ぎ合わせ、滞っていた血流と呼吸の通り道を開いていく。


 スゥッ……と、アルトの呼吸が深く、滑らかに通った。


「あ……」


 アルトの眉間から苦悶の色が消え去る。

 胸の包帯の下で、肉体と魔力が急速に再生し、激痛が引いていく。

 奇跡の調律。

 王都の筆頭聖女の大魔法すら拒絶した致命傷が、エルシアの手の中で、見る見るうちに癒やされていく。


 光が収まった時、アルトはゆっくりと息を吐き、自らの右手を握り締めた。

 筋肉の軋みも、魔力脈の引っ掛かりも、完全に消え去っていた。


「……完璧だ」


 アルトが呟き、エルシアを見つめた。

 その口元には、出会って以来、最も深く穏やかな笑みが浮かんでいた。


「行くぞ、エルシア。……天鐘の回廊へ」


「はいっ!」


 エルシアは満面の笑顔で頷いた。

 挫折と痛みを乗り越え、二人の絆は、かつてない真なる高みへと到達していた。


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