第45話:涙の夜――「全部うまくいくと思ってた」
ラディスの宿屋の二階の一室。
部屋の中には、重苦しい沈黙と、立ち込める強い血の臭いが充満していた。
外はすでに深い夜の帳が下りていたが、ランプの薄暗い灯りに照らされたベッドの上で、アルトは浅く苦しげな呼吸を繰り返していた。
「アルトさん……」
濡れた布でアルトの額の汗を拭うエルシアの手は、小刻みに震えていた。
肩から胸にかけて何重にも巻かれた純白の包帯には、すでに赤黒い血がじわりと滲み出し、痛々しい染みを作っている。
古代変異種『虚鐘の幻獣』の爪痕は、肉体を切り裂いただけでなく、空間の歪みによって体内の魔力脈を無残にねじ切っていた。
大量の失血による重度の貧血と脱力。呼吸するたびに胸郭の筋繊維が軋み、激痛に眉間が引き攣れる。
街の熟練医師ですら「傷口の魔力が異常に反発して、これ以上の縫合も薬草も受け付けない。今無理に動かせば傷口が開き、失血死する」と匙を投げ、最低限の止血帯を巻くのが精一杯だった。
「私が……調律できれば……」
エルシアは調律具の魔力針を指先に挟み、アルトの胸の傷へ光を通そうと試みた。
だが――。
ピリ、と指先から漏れた魔力光が、不揃いに震えて霧散した。
「っ……!」
息が詰まり、激しい動悸が胸を突き上げる。
指先が言うことを聞かない。
調律とは、対象の微細な呼吸と循環に自らの波長をミリ単位で同期させる極限の技術だ。
しかし今のエルシアの胸の中には、「また失敗したら」「私のせいでアルトさんが死んでしまう」という恐怖と激しい自責の嵐が吹き荒れていた。
心が乱れ、呼吸が浅くなっている状態では、調律の波長など合わせられるはずがなかった。
「……う、ぐ……」
ベッドの上のアルトが、苦悶の唸り声を漏らす。
その胸の包帯の赤黒い染みが、わずかに広がった。
「ごめんなさい……ごめんなさい、アルトさん……!」
エルシアはアルトの冷たい左手を両手で包み込み、額を押し当てて震えることしかできなかった。
かつてアルトは「俺の速度を支えられるのは、世界中でお前だけだ」と言ってくれた。
それなのに、肝心な時に何もできない。
自分の早すぎた調律がアルトを傷つけ、そして今、目の前で苦しむ相棒を救うことすらできないのだ。
コンコン、と控えめなノックの音が響いた。
ギルド職員のミレナが、薬湯の入った盆を持って部屋に入ってきた。
「エルシアちゃん……ドノヴァンさんから預かってきた特製の滋養薬よ。……アルトさんの様子は?」
「熱が下がらなくて……血も、止まらなくて……」
かすれたエルシアの声に、ミレナは痛ましげに眉をひそめた。
「エルシアちゃん、あなたも少し休まないと倒れちゃうわ。森から戻ってから、一睡もしていないでしょう?」
「休めません……! 私が後ろにいたせいで、アルトさんがこんな目に遭ったんです……! 私が休むなんて、許されるはずがありません……!」
泣き叫ぶようなエルシアの言葉に、ミレナは何も言えず、ただ薬湯を卓上に置いて静かに部屋を出て行った。
***
深夜。隣の控え室の洗面台。
ポタ、ポタと蛇口から落ちる冷たい水で、エルシアは何度も、何度も両手を擦り合わせていた。
石鹸を泡立て、指の節々が赤く剥けそうになるまで擦っても、爪の隙間にこびりついたアルトの乾いた血の跡と、鼻腔にまとわりつく重い鉄の匂いが消えてくれない。
「消えない……取れないよ……」
ジャ、と蛇口を強めに捻り、凍るような地下水に両手を浸す。
だが、冷たさで指先の感覚が麻痺しても、胸の奥で渦巻く焼けつくような自責は一向に冷えなかった。
やがてエルシアの膝から力が抜け、濡れた手のまま、冷たい石の床の上へとへたり込んだ。
湿った壁に背中を預け、震える両膝を抱え込む。
暗い室内、蛇口から落ちる水滴の音に混じって、ぽたぽたと大粒の涙が落ち、乾いた石畳を暗い染みとなって濡らしていった。
「私……調子に乗ってたんだ……」
膝に顔を埋めたエルシアの喉から、掠れた嗚咽が漏れる。
「元受付嬢の私が、アルトさんの隣にいていい気になってた……。『特級バディ』なんて呼ばれて、みんなに褒められて……対等な相棒になれた気でいた……」
すべては、傲慢な思い込みだったのだ。
アルトの凄まじい神速に、必死になってついていっていただけ。
アルトが無理をして合わせてくれていたから、うまくいっていただけだったのだ。
「全部うまくいくと思ってた……。アルトさんの孤独を知って、私が守らなきゃなんて思い上がって……。自分が一番の足枷だったのに……!」
セレスティアの冷徹な言葉が、耳の奥で嘲笑うように木霊する。
『姑息な小細工に過ぎません』
『あなたの小細工が彼を殺しかけているのよ』
「全部、あの人の言う通りだった……。私の未熟な小細工のせいで……私が後ろにいたせいで、アルトさんを死なせかけた……!」
エルシアは赤く濡れた両手で顔を覆い、しゃくり上げた。
世界で一番大切な人の血に染まった手のひらが、恐ろしくて、申し訳なくて、たまらなかった。
ギィ……と、蝶番が軋む冷たい音がした。
部屋の扉が開いていた。
そこに立っていたのは、白銀の神聖衣を纏ったセレスティアだった。
背後に護衛のカインを従え、冷徹な碧眼で、床にうずくまるエルシアを見下ろしている。
「無様な姿ですわね、元受付嬢さん」
氷のように透き通った声だった。
「セレスティア……様……」
エルシアが涙で濡れた顔を上げると、セレスティアは一歩踏み込み、冷酷に言葉を突き刺した。
「泣いて罪が消えるとでも思っていらっしゃるのかしら? あなたのその未熟な小細工のせいで、彼の身体の魔力循環は完全に狂わされ、私の至高の《大聖癒》すら受け付けない異端の身体に変質してしまったのよ。……あなたが、彼を殺しかけたのよ」
「っ…………」
言い返す言葉など、一つもなかった。
セレスティアの糾弾は、エルシアが自分自身に向けていた刃と寸分違わず同じだったからだ。
「身の程を知りなさい」
セレスティアは冷然と言い放った。
「元受付嬢のおままごとはここまでです。明朝、王都の精鋭部隊と共に、私が『天鐘の回廊』の最深部へ突入し、事態を決着させます。……アルト様には、大聖堂の秘薬を投与して無理にでも起こし、私が最高位の神聖魔法を授けて戦線に立たせます」
「そんな……! アルトさんは、まだあんなに重傷なのに……!」
「黙りなさい!」
セレスティアの鋭い一喝が、エルシアの声を遮った。
「彼をそんな身体にした張本人が、どの口で心配など口にするのですか!? あなたのような足枷がいるから、彼は怪我を負ったのよ! 私の至高の加護があれば、彼が傷つくことなど金輪際あり得ません!」
セレスティアは侮蔑を露わにして見下ろした。
「身を引きなさい、エルシア。あなたには、アルト様の隣に立つ資格なんて、初めからなかったのよ。……もう二度と、あの人の前に姿を現さないで」
冷徹な追放宣告。
セレスティアは踵を返し、踵を鳴らして去っていこうとした。
エルシアはただ、冷たい床の上に手を突いたまま、何も言えなかった。
視界が涙で滲み、暗闇の中に沈んでいく。
(私のせいだ……。私が、アルトさんの隣にいていいはずなんて……なかったんだ……)
絶望が、エルシアの心を完全に支配しようとしていた。
その時だった。
――ガタッ、と。
隣の寝室から、何かが激しく倒れる鈍い音が響いた。
それは、ベッドから何者かが這い出るように床を踏みしめた音だった。
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