第44話:歯車の破綻――初めての敗北
大気が悲鳴を上げていた。
姿を消した『虚鐘の幻獣』が、ねじ曲がった空間の裂け目を不規則に跳躍し、全方位から音もなく迫り来る。
目に見える敵ではない。空間そのものが歪み、紫紺の残光だけが回廊を不吉に駆け巡っていた。
「エルシア、絶対に俺の背から離れるな! 奴の狙いはお前だ!」
「は、はいっ! アルトさん、空間の歪みが左側から急接近しています! 波長が読めません、気をつけてください!」
「……俺が前に立つ。お前は一切前に出るな!」
アルトが叫び、腰の長剣を抜き放つ。
だが、その鋭利な灰色の瞳は、いつもの敵の急所を一点に射抜く静かな眼差しではなかった。
視線は敵の虚影と、背後に立つエルシアの足元とを激しく往復している。長剣の切っ先はわずかに下がり、エルシアの全身を己の肉体の影へ隠すような歪な軌道を描いていた。
――キィィィィィン!
耳を劈く高周波とともに、回廊の左壁が弾けた。
空間の裂け目から、紫紺の燐光を纏った幻獣が突如として実体化する。
狙いは――アルトの死角、エルシアの立っている位置だった。
「グルルァァッ!」
「チッ……させるかッ! エルシアッ!」
本来のアルトであれば、敵の攻撃軌道をミリ単位で見切り、紙一重で身を躱しながら最短の反撃で敵の首を切り飛ばしていたはずだった。
だがアルトは、回避ではなく、自らの身体を無理やりエルシアの前に割り込ませる「壁」となる選択を取った。
右足を無理な角度で石畳にねじ込み、身体を強引に捻る。靴底がギャリッと激しい音を立てて石畳を削り、切っ先が過剰な防御の力みで微かに軋んだ。
そしてその瞬間――背後のエルシアの耳奥で、アルトの荒い呼気が、耳障りな雑音となって突き刺さった。
波長が掴めない。
いつもなら波のうねりのように透き通って聞こえていたアルトの呼吸が、激しい不協和音となってエルシアの鼓膜を乱打する。
焦燥が指先の魔力弁を麻痺させ、冷静な戦況計算を吹き飛ばした。
「危ない、アルトさん! 《調律治癒》――ッ!」
放たれた調律の光条は――アルトの筋膜が踏み込みの衝撃を受け止めるタイミングより、わずかコンマ二秒、早すぎた。
急激な荷重に耐えるべきアルトの右足首の腱が、先走った調律によって強制的に弛緩させられる。
「しまっ……足が――ッ!?」
ズッ、とアルトの靴底が虚空を滑った。
守るための無理な重心移動と、早すぎた調律の弛緩が、真正面から衝突したのだ。
摩擦ゼロで走るはずだった神速の軌道が完全に崩れ、放たれた白銀の一閃が虚空を薙ぎ払った。
最短の太刀筋が、幻獣の頭部をわずかに逸れて空を切る。
無防備に晒されたアルトの胸元。
幻獣の紫紺の瞳が、冷酷に細められた。
空間を歪ませる四本の鋭利な爪が、超音速で振り下ろされる。
ザシュッ――!
肉と骨を深く断ち切る、生々しく鈍い音が回廊に木霊した。
「……ガ、ッ……!?」
アルトの喉から、苦悶の呻きが漏れた。
幻獣の爪がアルトの右肩から胸板にかけて斜めに深々と突き刺さり、肉と血管を無残に切り裂いて引き抜かれたのだ。
ドッ、と大量の鮮血が噴き出す。
白銀の刃が手から零れ落ち、石畳に甲高い音を立てて転がった。
舞い散る血飛沫が、冷たい回廊の石畳を赤黒く染め上げていく。
「嫌ぁぁぁぁっ! アルトさんッ!?」
エルシアの絶叫が木霊した。
膝から崩れ落ちるアルト。
幻獣は血に濡れた爪を掲げ、追撃の牙を剥いてアルトの喉元へと跳躍した。
「カイン、結界を! 奴の爪が来ます!」
「ハッ! 《神聖剛殻》ッ!」
ズドォォォォンッ!
間一髪、駆けつけたカインが大盾を構えて割り込み、セレスティアの眩い光の大結界が幻獣の追撃を正面から弾き飛ばした。
結界に阻まれた幻獣は、不快そうに喉を鳴らすと、空間の歪みの中へと跳躍し回廊の奥へと姿を消した。
「カイン、あの二人を回収して即座に撤退しますわよ!」
「了解!」
敵は退いた。だが二人の前に残されたのは――初めての、完全な任務失敗と緊急撤退の現実だった。
***
迷宮の入口に設営された救護天幕。
担ぎ込まれたアルトは簡易ベッドの上に横たえられ、浅く荒い息を吐いていた。
肩から胸にかけての傷はあまりにも深く、流れる血が止まらない。顔面は蒼白で、唇は紫色に変色していた。
「アルトさん、目を開けてください……! 息を……お願いですから息を止めないで……! 血が、血が止まらない……! 私のせいで、私が早く魔法を出して足元を狂わせたせいで……!」
エルシアは涙で視界を滲ませながら、震える手でアルトの胸に触れようとした。
だが、指先が激しく痙攣して止まらない。
自分の早すぎた調律が、アルトの太刀筋を狂わせたのだ。自分が後ろにいたせいで、アルトを死の淵に追いやったのだ。恐怖と自責がエルシアの魔力循環を乱し、繊細な調律などかけられる状態ではなかった。
「どきなさい、元受付嬢! 手が震えて何もできないなら邪魔ですわ!」
天蓋を跳ね上げ、セレスティアが押し入ってきた。
「アルト様、今すぐ私が最高位の神聖治癒を施して差し上げます! 《大聖癒》ッ!」
セレスティアが長杖を掲げ、眩い黄金の神聖魔力をアルトの胸の傷口へと注ぎ込んだ。
王都神殿魔道院が誇る、肉体を強引に癒着させて塞ぐ最高峰の治癒魔術。これで傷は塞がるはずだった。
だが――。
バチチチッ――!
凄まじい魔力の反発音が響き、傷口から黒紫色の火花が弾け飛んだ。
「ぐ、アァァァッ……!?」
アルトが激痛に身体を弓なりに反らせ、口から血を吐いた。
「きゃっ……!?」
バシィンッ、とアルトの血まみれの右手が、セレスティアの手を力任せに弾き飛ばした。セレスティアは尻餅をつき、驚愕に目を見開く。
「な、なぜ……!? 私の完璧な《大聖癒》が、弾かれた……!?」
幻獣の爪痕は、古代の「空間の歪み」を色濃く残していた。
ねじ曲がった傷口に力任せの魔力を注ぎ込んだため、空間の歪みと魔力が激しく衝突し、体内で深刻な魔力ショート(拒絶反応)を引き起こしたのだ。
「触るな……ッ」
アルトは血を吐きながら、掠れた声でセレスティアを拒絶した。
「お前の……重い魔法など、俺の身体には馴染まん……ッ。触るな……立ち去れ……」
「なっ……! 私の至高の術を拒絶するなんて……!」
セレスティアの顔が屈辱とショックで歪んだ。プライドを激しく傷つけられたセレスティアは、震える指先をエルシアへと向け、怒りを爆発させた。
「あ、あなたのせいよ、元受付嬢! あなたが我流の『調律』なんて小細工で彼の身体を弄くり回したから、私の至高の神聖術を受け付けない異端の身体に変質してしまったんだわ! あなたの小細工が、彼を殺しかけているのよ!」
セレスティアは吐き捨てるように叫ぶと、天幕を飛び出していった。
「アルトさん……アルトさん……! ごめんなさい、ごめんなさい……! 私の未熟な小細工のせいで……お願い、私を置いていかないで……!」
エルシアはただ、血に染まるアルトの手を両手で握りしめ、泣き崩れることしかできなかった。
止まらない出血。浅く荒い呼吸。神聖魔術すら拒絶する、空間の歪んだ致命傷。
街の宿屋へと緊急搬送される馬車の中、ガタゴトと揺れる車輪の音だけが虚しく響いていた。
エルシアは自らの血塗られた両手を呆然と見つめていた。指先は氷のように冷たく、どれだけ祈っても震えは止まらない。
守りたかった。隣に立ちたかった。
それなのに――自分の未熟さが、世界で一番大切な人を、今まさに死の淵へと突き落としていた。
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