第43話:調律のズレと最初の警告
灰鐘の森の最深部。
木々のざわめきが完全に途絶え、濃密な灰色の霧の向こうに、巨大な古代遺構がその圧倒的な威容を現していた。
未踏古代迷宮『天鐘の回廊』。
数百年の風雪に耐えた蒼白い神殿石の回廊は、いまや内部から噴き出す古代魔力によって激しく空間そのものが歪み、大気が真夏の陽炎のようにねじれ狂っていた。壁に刻まれた古の神聖文字が波打ち、空間の断層が鏡の破片のように光を乱反射させている。
――ゴォン……。
回廊の奥底から、鈍く重い鐘の音が響く。
耳で聞く音ではない。骨を、そして肉体の奥底を流れる魔力循環そのものを直接揺さぶり、呼吸を狂わせる不吉な波長だった。
「アルトさん、前方の空間密度が急上昇しています! 足元の魔力脈が逆流しかけていますから、気をつけてください!」
「……問題ない。お前こそ俺の後ろから離れるな」
エルシアの鋭い警告に、アルトは短く応じる。
二人が回廊の大扉へと足を踏み入れたのとほぼ同時に、別の側道から白銀の閃光が差し込んだ。
豪奢な神聖衣を纏ったセレスティアと、身の丈ほどの大盾を構えた護衛騎士カインの一行だった。
「あら、元受付嬢さん。そんな頼りない声で叫ばなくとも、私の大結界なら一息で平坦にできますわよ」
セレスティアは長杖の魔光石を青白く輝かせ、嘲笑を浮かべてみせた。
「神域の魔力を前に足が竦んでいるなら、今すぐ引き返すことですわ。小手先の小細工しか持たない者が足を踏み入れれば、空間の裂け目に呑まれて命を落とします」
「……用がないなら先に行け。視界の邪魔だ」
アルトはセレスティアを一瞥もせず、冷淡に切り捨てて回廊の奥へと歩を進めた。
「なっ……! 後で泣きついても助けてあげませんからね!」
セレスティアの憤慨する声が背後に遠ざかる。
だが、エルシアの胸の奥底には、セレスティアの言葉が冷たい棘となって深く突き刺さっていた。
小手先の小細工。才能の足枷。
その毒のような響きを振り払うように、エルシアは腰の調律具を強く握り直した。指先が白く強張り、呼吸の底に冷たいざらつきが残る。
回廊を進むにつれ、空間のねじれは一段と凶悪さを増していった。
平坦なはずの石畳が波打ち、視覚と平行感覚が狂わされる。大気中を走る不協和音に対し、エルシアは《調律治癒》の微細な光条をアルトの足元に先回りして走らせたが、気負いのせいか、光の波形にはわずかな乱れが生じていた。
その時だった。
ギギギッ、と頭上の梁から乾いた金属音が擦れ合った。
「敵だ」
アルトの鋭い呟きと同時に、歪んだ空間の裂け目から三体の人影が滑り落ちてきた。
白銀の装甲と胸部の蒼玉で稼働する神域の自律人形――『天鐘の聖銀騎士』。
手にしたミスリルの光刃が青白い弧を描き、容赦なくアルトの頭上へと振り下ろされる。
「来ます! 頭上、三時の方向から三体! 右肩の送魔管に負荷の偏り!」
エルシアの戦況指示が飛ぶ。
いつもなら、ここから先は思考の介在しない神速の世界だった。
エルシアの観察眼を信じ切り、アルトは一切の躊躇なく最短の攻撃軌道――思考負荷ゼロの超深層の踏み込みで敵の懐へと滑り込み、蒼玉主核を一撃で両断しているはずだった。
「……下がれ!」
アルトが短く叫び、踏み込んだ。
だが――ズザッ、と乾いた靴底が石畳を激しく削り、不自然な摩擦音が回廊に響いた。
アルトの踏み込みが、ほんの一瞬――わずかコンマ零五秒、遅れた。
それだけではない。
アルトは敵の懐へと最短で直線的に突っ込むのではなく、わずかに右斜め前へと重心を強引にスライドさせたのだ。
それは攻撃のための踏み込みではなかった。
聖銀騎士の振り下ろす光刃の射線から、背後に立つエルシアを完全に遮り、自らの肉体を肉壁として滑り込ませる――守りの重心移動だった。
「アルトさん、危ない――っ!」
ガギィィィィンッ!
耳を劈く凄まじい金属衝突音が回廊に木霊した。
アルトの長剣が、聖銀騎士の光刃を受け止める。
いつもの「当たる前に両断する太刀筋」ではない。無理な体勢で刃を受け止めたため、アルトの長剣の鍔元が「ギチギチッ……!」と悲鳴のような不穏な軋み音を立て、鍔ぜり合いの接点から不自然に白熱した激しい火花がバチバチと飛び散った。
右腕の筋繊維に強烈な逆負荷がかかり、踏ん張った足元の石畳がバキリと音を立てて砕け散る。
「……ッ!」
アルトは即座に刃を滑らせて核を両断し、残る二体も神速の連撃で粉砕した。聖銀騎士は光の粒子となって霧散する。
戦闘時間はわずか三秒。傍目には完璧な無双に見えたはずだった。
だが、背後で調律の光を構えていたエルシアの耳と目は、決して誤魔化せなかった。
アルトの右肩から前腕にかけての筋膜に生じた、過剰な防御による微細な強張りと魔力の軋み。
そして何より――エルシアの耳に飛び込んできた、アルトの呼気音だった。
普段のアルトの呼吸は、静かな凪の海のように規則正しく、澄んだ一定の波を描いていた。
だが今、アルトの喉から漏れた呼吸は、不自然に喉元で詰まり、荒く引っかかる「不規則なノイズ」となってエルシアの鼓膜を打ったのだ。
エルシアの胸がキュッと締め付けられる。
アルトが、自分を守るために剣を歪ませた。その物理的な痕跡が、火花と軋み音となって突きつけられていた。
「アルトさん……! 腕、大丈夫ですか……!?」
「……怪我はない。それよりお前だ。下がれと言ったはずだ。もっと俺の後ろに寄れ」
「は、はい……すみません、私の指示が遅くて……」
「お前のせいではない。……俺が全て斬る。お前は何も心配するな」
アルトの言葉はどこまでも真摯だった。だがそれは、さらに頑なに一人で背負い込もうとする過保護の証明だった。
その時、回廊の合流地点から冷ややかな拍手が響いた。
「あらあら……随分と無様な立ち回りでしたわね」
セレスティアだった。カインが大盾を構える横で、侮蔑を浮かべて歩み寄ってくる。
「王国最速の神速剣士が、あんな大振りの光刃をわざわざ正面から受け止めるなんて。連携が酷くギクシャクしているじゃありませんか。……無理に背後の元受付嬢を庇い合っている証拠ですわよ」
「……消えろ」
「図星を突かれて悔しいかしら? 足枷を連れている限り、あなたの至高の剣は鈍る一方ですわ。……まあいいでしょう。先に最深部へ向かわせていただきます」
セレスティアは長杖を翻し、カインを引き連れて先行していった。
エルシアは奥歯を強く噛み締めた。セレスティアの指摘が寸分の狂いもなく的を射ていたことへの、底知れない恐怖だった。
アルトの背中から漏れる、微かに詰まった呼気音。
普段であれば、静かな波のように自然に重なり合っていたはずの呼吸が、耳障りな不協和音となってエルシアの耳奥をかき乱す。
合わせなければ、自分がもっと先回りしなければ――そう焦れば焦るほど、エルシア自身の心拍が早鐘を打ち、体内の魔力循環がチグハグに波立っていく。
その瞬間――ピキリッ、と空間そのものに亀裂が入った。
――ゴォォォォン……!
先ほどとは比較にならないほど凶悪な重低音が回廊を揺るがす。
大気がねじ曲がり、石畳が紙細工のように裂けた。
紫紺の燐光を纏い、輪郭がブレて多重に重なり合う異形の影が、空間の裂け目から音もなく滲み出てくる。
超音速の刃と化した四本の爪。古代変異種――『虚鐘の幻獣』。
「……グルルルァァァッ!」
幻獣が咆哮した瞬間、その姿が視界から完全に消え去った。空間を跳躍しながらの超神速。
「空間の裂け目から……何か、とんでもないものが来ます!」
「――エルシア、下がれッ!」
アルトが叫び、剣を抜き放って跳んだ。
だがその踏み込みの瞬間にも、背後のエルシアを気遣うわずかな重心のブレが、靴底の不穏な擦過音となって鳴り響く。
そしてエルシアの震える掌の中では、呼吸の同期を失った調律の光が、焦燥に駆られて早すぎる火花を散らし始めていた。
互いを守りたいと願うあまりに狂い始めた二人の歯車。
その小さなズレが、決定的な破綻へと向かって滑り落ちようとしていた。
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