第42話:芽生えた気負いと「過保護」
東の森の巡回を終えてギルドへ戻る道すがら、エルシアの足取りには微かな乱れが生じていた。
普段であれば、隣を歩くアルトの正確無比な歩幅と、寸分の狂いもなく波長が重なり合っているはずだった。
だが、石畳を踏みしめるエルシアの靴底は、わずかに引っかかるようにリズムを崩す。腰に下げた調律具の銀筒が、不揃いな周期でカチ、カチと衣擦れの音を立てていた。
脳裏にこびりついて離れないのは、今朝セレスティアから冷徹に投げつけられた言葉だった。
『姑息な小細工に過ぎません』
『あなたの貧相な小細工では、彼の真の速度を支えきれない。才能の足枷にしかならないのです』
――才能の足枷。
自分は元受付嬢だ。王都の神童セレスティアのような莫大な魔力量も、城壁を丸ごと覆うような巨大結界も持たない。
できるのは、アルトの筋肉の微細な軋みを見抜き、呼吸を通し、魔力循環のミリ秒の乱れを先回りして整えることだけ。
昨夜、星空の焚き火の前で打ち明けてくれた、アルトの長年の孤独。
誰からも神速を理解されず、置き去りにされ、自分の剣を呪いと思い詰めていたあの凍りついた横顔。
調律具を握るエルシアの指先に、ぎゅっと過剰な力が籠もる。爪が白くなるほどに握りしめられ、無意識のうちに肩が小さく強張っていた。
「……おい」
ふと、低く乾いた声が降ってきた。アルトが足を止め、灰色の瞳でエルシアの足元を見下ろしていた。
「あ、アルトさん、どうしましたか?」
「……足音が乱れている。呼吸も浅い。疲労か」
「えっ……い、いえ! 全然平気です! 次の補給ルートを考えていただけですから!」
慌てて笑顔を作り、呼吸を深く吸い直してみせる。
だが、作られた笑顔の口元には、普段の柔らかな余裕が欠けていた。
アルトは無言のまま、エルシアの強張った指先と、ぎこちない立ち姿をじっと凝視した。
「……そうか」
短く呟くと、アルトは再び歩き出した。
だが、その位置取りはいつもと明らかに違っていた。
エルシアの半歩斜め前――擦れ違う荷馬車や行き交う冒険者たちから、エルシアの全身をすっぽりと隠すように、黒い外套の影で遮って進む。まるで、周囲のあらゆる雑踏を敵と見なし、相棒を物理的に隔離する肉の盾のようだった。
「あ、アルトさん? 少し歩きにくくないですか?」
「……問題ない。人混みが多い。俺の背中から離れるな」
低く告げるアルトの右手は、無意識のうちに長剣の鯉口に掛かっていた。黒革の手袋がギリ、と軋む音を立てる。
すれ違う見知らぬ通行人へ向けられる灰色の視線には、かつてないほど刺々しい警戒の光が宿っていた。
世界で唯一、己の剣を認めてくれた相棒。絶対に誰にも触れさせない、傷一つ負わせないという過剰な防衛本能。
互いを深く思いやる二人の心が、完璧だった阿吽の呼吸の間に、目に見えない不協和音の楔を打ち込み始めていた。
***
昼下がりのギルド《白梟の止まり木》に足を踏み入れた瞬間、異様な空気が二人を迎えた。
冒険者たちが青ざめた顔で掲示板の前に集まり、ざわめいている。
「おい、今の揺れ……灰鐘の森の方角だぞ」
「不吉な鐘の音が、地響きと一緒に何十回も鳴り響いてやがった……!」
カウンター奥で、ギルドマスターのドノヴァンが険しい顔で地図を広げていた。
「マスター、何かあったんですか?」
「……エルシア、アルトか。ちょうどいいところに来てくれた」
ドノヴァンは太い指先で地図の深奥を叩いた。
「灰鐘の森の深奥に眠る古代迷宮『天鐘の回廊』で、空間魔力の異常決壊が発生した」
「『天鐘の回廊』……数百年間、誰も最深部に届いていない古代遺構ですね」
「ああ。古代の空間結界が内側から吹き飛び、高密度の魔力津波が空間を歪めながら拡大している。放置すれば半日で森全域が呑まれ、やがてラディスにまで空間崩壊が及ぶ特級事態だ」
ドノヴァンは二人をまっすぐに見据えた。
「回廊内は空間が複雑にねじ曲がっている。大軍を突入させれば全滅が関の山だ。神速の機動力で罠を抜け、異常魔力を調律できる……お前たち二人に、迷宮内部の緊急調査と元凶の特定を頼みたい」
「分かりました、引き受けます!」
エルシアは即座に頷いた。恐怖よりも「街を守らなきゃ」「アルトさんの力にならなきゃ」という気負いが背中を押す。
アルトも剣柄に親指を掛け、低く告げた。
「……俺たちの街だ。壊させはしない」
「――お待ちいただきましょうか」
静寂を切り裂き、尊大な声が入口から響いた。
白銀の神聖衣を翻し現れたのは、セレスティア・フォン・ローゼンバーグと護衛騎士カインだった。
「セレスティア様……」
「ギルドマスター。その任務、王都神殿魔道院の筆頭聖女候補である私が、王命に基づき正式に受領いたします」
セレスティアは長杖を掲げ、誇らしげに胸を張った。
「古代の魔力異常など、大聖堂の最高位神聖結界――《神聖剛殻》を以てすれば一時間足らずで調伏・浄化可能です。……地方の野良冒険者などに任せるべきではありません」
侮蔑の眼差しがエルシアを射抜く。
「小細工しか扱えない元受付嬢など、古代の魔力圧に呑まれて即死するだけです。無駄死には止めませんが、アルト様を道連れにすることだけは許しません」
「セレスティア様、口が過ぎますよ!」
ドノヴァンが立ち上がったが、アルトがそれを手で制した。セレスティアを一瞥もせず、ドノヴァンへ平然と言い放つ。
「……時間の無駄だ。俺たちは行く」
「なっ……! また無視するのですか!?」
セレスティアが屈辱に叫ぶが、アルトは耳を貸さない。ドノヴァンは深く息を吐き、双方を見据えた。
「回廊は広大だ。神殿魔道院を止める権限はないが、街の命運を王都だけに預ける気もない。……互いに干渉せず、各自の最善を尽くせ」
「……ふん、結構です。どちらが真に事態を収拾できるか、実戦で思い知らせてあげますわ」
セレスティアは踵を返し、立ち去った。
***
出撃前の装備点検。
ギルドの裏庭で、エルシアは調律具の銀筒を開き、極細の魔力針を確かめていた。
だが、針先を合わせる指先が、微かに小刻みに震えている。
チ、チ、と銀針が筒の縁を擦る乾いた金属音が、静かな裏庭に小さく響いた。
息を吸い込んでも、胸の奥深くまで空気が落ちてこない。喉の奥が狭まり、視野の端がわずかに白く霞む。
アルトが踏み込む前に、あらゆる危険を先回りして消さなければならないという強烈な強迫観念が、後衛として最も大切な「冷徹な静けさ」を蝕んでいた。
「……エルシア」
背後から、低く硬い足音が近づいてきた。
アルトが黒革の手袋の手首部分をぐっと力任せに締め直しながら、静かに歩み寄ってくる。
「準備はできたか」
「はいっ……! どんな魔力津波が来ても、全部先回りして調律してみせます!」
努めて明るく張りのある声を返したエルシアを、アルトの灰色の瞳が見つめた。
アルトの大きな手が、エルシアの頭上へと伸ばされる。
いつものように、無言で優しく頭を撫でようとした――その指先が、空中でピタリと止まった。
一秒の躊躇いののち、アルトは指を固く握り込み、拳のまま腕を引き戻した。
「……無理はするな。お前が前に出る必要はない」
「え……?」
「俺の後ろにいればいい。……どんな敵が現れようと、俺がお前の前に立ち、全てを斬る。お前には、指一本触れさせない」
低く、どこまでも真摯で、だが刃のように尖った声。
それはかつての合理的な役割分担――「前衛が斬り、後衛が盤面を整える」という対等な信頼とは、決定的に異なっていた。
そこに宿っていたのは、相棒を失うことを極度に恐れるあまり、すべてを一人で抱え込もうとする過剰な「過保護」だった。
「アルトさん……」
「行くぞ。迷宮を抜ける」
アルトは大股で背を向け、歩き出した。
その背中はいつもより広く、そして痛々しいほどに張り詰めていた。
エルシアは調律具をぎゅっと胸元で抱きしめた。冷たい金属の感触が、強張った指先を通して心臓へと伝わってくる。
守ろうとするアルトの頑なな背中と、守らせまいと焦るエルシアの強張り。
互いを深く思いやる優しさが、重い鎧となってそれぞれの身体と感覚を縛り付けていた。
二人は灰鐘の森へと疾走した。
不吉な軋む鐘の音を乗せて、冷たい風が吹き荒れる。
その先に待ち受けるのが、完璧だった連携の崩壊と、初めての絶望的な敗北であるとも知らずに――。
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