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第41話:王都からの筆頭聖女

 秋の爽やかな風が、石畳の街並みを吹き抜けていく。

 ラディスの冒険者ギルド《白梟の止まり木》は、朝一番から活気ある喧騒に包まれていた。


「おい、エルシアちゃん! 今日もいい顔してるな!」

「おはようございます、ハンスさん。昨日の討伐、お疲れ様でした。右腕の魔力循環が少し滞っていますから、無理な連撃は控えてくださいね」

「見抜かれてらぁ! エルシアちゃんの一言はどんな上級ポーションより効くぜ!」


 カウンター越しに笑顔を交わすエルシアの手元には、手際よく書類と温かい薬草茶が用意されていた。

 かつてアルトを追放した元パーティ《漆黒の牙》を迷宮深層で救出し、過去の因縁を清算してから数日。

 ギルド内での二人の評価は、もはや絶対的なものとなっていた。

 アルトを「欠陥剣士」と呼ぶ者は一人もおらず、エルシアを「ただの元受付嬢」と侮る者も皆無だ。

 神速の剣士アルトと、その思考負荷を一身に引き受け、魔力循環の崩れをミリ秒で整える白魔導士エルシア。二人のパーティ《ルミナ・ヴァレイン》は、ラディスの誇る「特級バディ」として称賛を集めていた。


「……エルシア」


 酒場の隅の席から、低く短い声が届く。

 灰色の髪を揺らし、黒の外套を纏ったアルトが長剣の手入れを終えたところだった。その瞳には、かつてのような頑なな拒絶の色はない。


「はい、アルトさん! 今朝のブレンドです」


 エルシアが湯気の立つ陶器のカップを差し出すと、アルトは無言で受け取り、一口含む。わずかに眉間の強張りが解けた。


「……悪くない」


「良かったです。東の香草を多めにして、神経の疲労をほぐすように調律しておきましたから。アルトさんの神速は微細な神経網や魔力回路にどうしても摩擦熱が溜まりやすいので、内側の魔力衝突を穏やかにいなす調律魔力をしっかり馴染ませてあるんです」


 エルシアが微笑むと、アルトは微かに視線を逸らし、耳の先端をほんのり赤く染めた。

 喉を鳴らして温かい茶を飲み干す。胸の奥深くまで、静かに波打つ調律の温もりがじんわりと染み渡っていく。

 言葉は極めて少ない。だが、交わす視線には何物にも揺るがない信頼が満ちていた。

 カウンター奥で髭を撫でていたギルドマスターのドノヴァンが、豪快に笑う。


「やれやれ、すっかり熟年夫婦の空気だな。若造どもが当てられっぱなしだぞ」


「も、もう、マスターったら! 私たちは対等の相棒ですから!」


 エルシアが赤面して手を振る横で、アルトは静かに空になったカップを置いた。

 穏やかで満ち足りた朝。その平穏は、唐突に破られた。


 ――ガタッ。


 ギルドの大扉が開き、規則正しく重い足音が響いた。

 酒場の喧騒がふっと止まる。

 現れたのは、二人組の男女だった。


 先頭を行くのは、純白と銀の甲冑に身を包み、身の丈ほどの大盾を背負った巨漢の重装騎士。無駄のない歩法から、歴戦のAランク騎士と知れる。

 だが、全員の息を呑ませたのは、その背後に立つ十七歳ほどの少女だった。


 眩い波打つ金髪と、サファイアのような碧眼。

 何より異彩を放っていたのは、純白の高級神聖絹に銀糸で緻密な魔導陣が刺繍された豪奢な神聖衣だ。手にした長杖の魔光石が青白い燐光を放ち、一歩歩くごとに大気中の魔力が澄んだ鐘の音のように共鳴していた。


「王都の紋章……神殿魔道院の筆頭聖女候補か……?」


 冒険者たちがざわめき道を開ける。

 少女は周囲を一瞥もせず、迷いのない足取りでカウンターの前――エルシアの正面へ歩み寄った。


「あなたが、エルシアね」


 凛とした、だが氷のように冷淡な声だった。

 碧眼がエルシアの質素なローブと調律具を冷たく見下ろす。


「はい、エルシアですが……王都からのお客様でしょうか?」


「名乗っておきましょう。私はセレスティア・フォン・ローゼンバーグ。王都神殿魔道院を首席で卒業し、大聖堂より筆頭聖女の推挙を受けている者です」


 ローゼンバーグ家――名門貴族にして歴代の最高位神聖術士を輩出する名家。ドノヴァンが鋭い眼差しを向けたが、セレスティアは意に介さず冷然と言い放った。


「単刀直入に言います。この街で元受付嬢が白魔導士を名乗り、神聖術の真似事で英雄気取りでいると聞き及んで参りました。……実に嘆かわしいことです」


「……え?」


「神聖魔術とは、神より賜りし莫大な魔力量と、完成された定型術式によってのみ顕現する天上の奇跡。それを……循環を整えるだの呼吸を拾うだの。あなたの『調律』とやらは、魔力量が足りない平民の悪あがき――姑息な小細工に過ぎません」


 冷徹な侮蔑がエルシアを射抜く。


「小手先の小細工で白魔導士を自称するなど、神聖魔術の尊厳に対する冒涜です。身の程を弁えなさい」


 場が凍りついた。冒険者たちが立ち上がりかけた時、セレスティアは隣に座るアルトへと視線を移した。

 碧眼に、先ほどの冷笑とは一転した熱い光が灯る。


「そして――あなたが、アルト様ですね」


 セレスティアは優雅に歩み寄り、両手を差し伸べて微笑んだ。


「王国最速の神速剣士。あなたほどの英傑が、なぜこのような辺境で、元受付嬢の浅知恵に縛られているのですか? 彼女の貧相な小細工では、あなたの真の速度を支えきれず、才能の足枷にしかなりません」


 セレスティアは熱烈に言葉を重ねる。


「アルト様、私と共に王都へいらっしゃい。私の莫大な魔力と最高位神聖魔法――《大聖癒》と《神聖剛殻》の加護があれば、あなたは一切の傷を恐れず神話の英雄になれます。あなたの真の価値を理解し、隣に立つ資格があるのは……私です」


 筆頭聖女候補からの破格のスカウト。

 誰もが固唾を呑み、アルトの反応を見守った。

 エルシアは無意識に胸元を握り締めた。「才能の足枷」という言葉が、胸に重く突き刺さる。


 だが――。


 コト、と陶器の乾いた音が落ちた。

 アルトが空のカップを置いた音だった。


 アルトの首は、一ミリたりとも動かなかった。

 差し出された美しい手にも、神聖衣にも、その美貌にも――ただの一度も視線を向けない。


 完全なる、ゼロ秒の無視。


 アルトは外套の襟を引き上げ、エルシアへ平然と言った。


「……エルシア。今日の依頼の手続きは済んだか」


「えっ……? あ、はい! いつでも出られます!」


「そうか。行くぞ」


 アルトは長剣の鯉口を親指で弾き、立ち上がった。

 その所作には、セレスティアという人間が視界にすら入っていない完全な冷淡さがあった。


「なっ……!?」


 セレスティアの頬が屈辱に染まる。王都で誰もが傅いてきた自分が、一瞥すらされず無視されたのだ。


「ま、待ちなさい! 私の話を聞いていたのですか!? 私は王都筆頭聖女のセレスティアですよ!?」


 セレスティアが思わずアルトの行く手を遮るように踏み出した。


 瞬間――。


 ピキリ、と大気が凍りついた。


 アルトの灰色の瞳が、初めてセレスティアを捉えた。

 だがそこに宿っていたのは、道端の障害物を排除するような、絶対零度の殺気だった。


「ヒッ……!?」


 セレスティアの喉から短い悲鳴が漏れる。

 極限まで無駄を削ぎ落とした、最短の言葉が放たれた。


「……用がないならどけ。邪魔だ」


「ッ…………!」


 氷点下の宣告。

 セレスティアは血の気を引かせ、反射的に後退った。護衛のカインが動く暇もなく、アルトは二人を完全に置き去りにして歩き出す。


「行くぞ、エルシア」


「は、はいっ!」


 アルトは一度も振り返らず扉へ向かう。エルシアはセレスティアへ小さく一礼すると、小走りでその背中を追った。


「アルトさん、待ってください〜!」


 二人は朝の光の中へと出て行った。

 酒場に残されたセレスティアは、屈辱と怒りで震えていた。


「セレスティア様、いかがなさいますか……」


「黙りなさい、カイン!」


 セレスティアは杖を石畳に叩きつけた。


「あの方こそ私の神聖魔術を捧げるに相応しい英傑よ! あんな元受付嬢の姑息な小細工に誑かされているなんて認めないわ……! 実戦の場で、あの女がただの足枷だと証明してやるんだから……!」


 碧眼に執着の炎を宿し、セレスティアはギルドを後にした。


 ***


 市場の通りを、二人は並んで歩いていた。


「……アルトさん、本当に良かったんですか?」


 エルシアが不安げに尋ねる。


「王都の筆頭聖女様でしたよ。莫大な魔力に最高位魔法……アルトさんなら、あの方と組んだ方が高みへ行けるんじゃないかって……」


「姑息な小細工」「才能の足枷」。

 セレスティアの言葉が棘となって胸を刺していた。自分はただの元受付嬢。あんな大魔法も莫大な魔力もない。もし自分の調律が、アルトを縛っているのだとしたら――。


 不意に、無骨な指先がエルシアの頭に軽く触れた。

 置かれただけの、不器用な手のひら。


「……馬鹿を言うな」


「えっ……」


「重くて遅い大魔法など、邪魔にしかならん。……俺の速度を支えられるのは、世界中でお前だけだ」


「アルトさん……」


「余計なことを考える暇があるなら、息を整えておけ。……行くぞ」


 アルトは手を離し、早足で歩き出す。

 その耳の先端が、朝日に透けてほんのり赤くなっていた。


「――はいっ!」


 エルシアの顔に笑顔が戻る。棘の痛みは消えた……はずだった。

 だが、エルシアの胸に芽生えた「アルトさんを守らなきゃ」という無意識の気負い。

 そしてアルトの「絶対に傷つけさせない」という過保護な意思。

 深く思い合うがゆえの歪みが、やがて二人の完璧な歯車を狂わせていくことを、まだ知る由もなかった。


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