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第40話:凍った心の完全救済

「救われたのは……俺の方だ、エルシア」


 静かに落ちたアルトの言葉が、エルシアの胸の最も深い場所へと染み渡っていった。

 息が詰まるほどの熱さが喉元まで込み上げてきて、エルシアの大きな碧眼の縁に、ぽろぽろと大粒の涙が滲み出す。


「……どうして、お前が泣くんだ」


 アルトが困惑したように眉を寄せ、器を置いてわずかに身体を乗り出した。

 いつもの冷徹な表情はどこにもない。そこにあるのは、大切な宝物を前にして、どう扱えばいいのか分からない不器用な少年の顔だった。


「だ、だって……っ」


 エルシアは袖口で涙を拭い、ぐすっと鼻を鳴らしながら、満面の笑顔を作ってみせた。


「アルトさんが……そんなふうに思ってくれていたなんて、嬉しくて……涙が止まらないんです」


 エルシアは躊躇うことなく、膝の上に置かれていたアルトの右手を、自らの両手でぎゅっと包み込んだ。

 剣ダコと古傷が刻まれた、無骨で逞しい手。

 冷たい手袋を外したアルトの掌は、焚き火の熱気とエルシアの体温を受けて、驚くほど温かかった。


「エルシア……」


「アルトさん。聞いてください」


 エルシアはアルトの手を包んだまま、至近距離からまっすぐにその灰色の瞳を見つめ返した。

 夜風が吹き抜け、焚き火の火の粉が二人の間を舞い上がる。


「アルトさんの剣は、誰かを傷つけるための呪いなんかじゃありません。……初陣の灰鐘の森で、狼に襲われそうになった私を守ってくれたのは、誰の剣でしたか? 採掘場の落盤で、三十四人の命を救うために巨岩を両断したのは誰の剣でしたか? 東の街道を救ったのも、王都でベヒーモスから騎士たちを守ったのも、今日の迷宮でゼクス様たちを救い出したのも……全部、アルトさんの剣です」


 エルシアは自らの胸の奥から湧き上がる光の魔力を、重なり合う手のひらを通してアルトへと送り込んだ。

 傷を癒すためではない。凍りついていたアルトの魂を、芯から抱きしめて温めるための調律の光。


「アルトさんの剣は、世界で一番速くて、世界で一番強くて……そして、誰よりも優しい剣です」


「……優しい、だと?」


 アルトが信じられないように呟いた。

 生まれて初めて言われた言葉だったのだろう。周囲からは「冷酷」「無機質」「容赦がない」としか評されてこなかった刃を、エルシアは「優しい」と言ったのだ。


「はい。無駄を極限まで削ぎ落とすのは、敵を一瞬で絶命させて苦しませないため。最短で急所を突くのは、背後の仲間を絶対に危険に晒さないため。……アルトさんが一人で戦ってきたのは、他人を傷つけたくないという、あまりにも不器用で深い優しさがあったからです」


 エルシアの声は、静かに、だが決して揺るがない絶対の響きを持っていた。


「何者でもなかった受付嬢の私を見つけて、可能性の扉を開いてくれたのはアルトさんです。アルトさんが私を信じてくれたから、私は今日、胸を張ってあなたの隣に立っています」


 エルシアはアルトの手を、さらに強く握りしめた。


「だから……私がずっと、アルトさんの隣で肯定し続けます。世界中の誰があなたの剣を否定したって、私だけは絶対に、アルトさんの剣を世界で一番かっこいいと叫び続けます。100万人組んでくれる人がいたって、私はどこまでもアルトさんを選ぶんです!」


 ――全肯定。

 言葉のすべてが、アルトの魂に張り付いていた長年の冷たい氷を、太陽のように溶かし去っていく。

 理解されず、拒絶され、呪いだと信じ込んできた暗闇の底に、眩いばかりの光が満ちていく。


「…………」


 アルトは息を呑み、エルシアの瞳を見つめたまま、微動だにできなかった。

 やがて――灰色の瞳の奥に宿っていた、刺々しい頑なな影が、ふっと消え去った。

 アルトは包まれていた右手を引き抜かなかった。

 それどころか、エルシアの柔らかな両手を、自らの大きな掌で、そっと包み返すように握り締めた。


「……お前には、敵わないな」


 掠れた、だがどこまでも穏やかな声。

 アルトの口元に、ふわりと柔らかな弧が描かれた。

 笑っていた。

 出会った頃の冷徹な鉄の仮面でも、照れ隠しの苦笑でもない。心からの安らぎと、唯一無二の相棒への深い慈愛に満ちた――本物の、穏やかな微笑みだった。


「アルトさん……笑いましたね」


「……気のせいだ」


 アルトは少しだけ耳を赤くして視線を逸らしたが、握りしめた手だけは決して離そうとしなかった。


「お前が隣にいてくれるなら……俺の剣は、もう迷わない。……俺の背中を、お前に預ける」


「はいっ! 私の特等席ですから、誰にも譲りません!」


 星空の下、焚き火の炎が二人の笑顔を温かく照らし出す。

 長い孤独の夜は、完全に明けたのだ。


 ***


 翌朝。

 東の地平線から差し込む黄金色の朝日に照らされながら、二人はラディスの街へと戻ってきた。

 東門を潜る二人の歩幅は、寸分の狂いもなく完全に揃っていた。


 アルトの横顔には、もう過去の亡霊の影など微塵もない。

 澄み渡る秋の青空の下、二人は新たな伝説への一歩を踏み出そうとしていた。


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