第38話:過去の清算
静寂を取り戻した古代迷宮『黒曜の深淵』の最深部。
エルシアは倒れていた《漆黒の牙》の魔術士と大盾役の青年に駆け寄り、胸元に手をかざして《調律治癒》を注ぎ込んだ。
破裂しかけていた魔力脈が穏やかにほどけ、砕けた骨と裂けた皮膚が、柔らかな光に包まれて本来の位置へと整えられていく。数分前まで死線を彷徨っていた二人は、苦痛の表情を和らげ、規則正しい寝息を立て始めた。
「……命に別状はありません。地上へ連れて帰れば、完全に回復します」
エルシアが立ち上がり、汗の浮かんだ額を拭った。
その隣で、床に力なくへたり込んだままのゼクスが、震える両手を見つめていた。
「どうして……どうして俺たちを助けた……? 見殺しにすればよかっただろうが……! 俺はお前を裏切り、陥れ、昨夜だってお前の相棒を小娘と侮辱したんだぞ……ッ!」
絞り出すようなゼクスの問いに、アルトは一瞥すらしなかった。
ただ、意識を失った大盾役の背負い紐を片手で軽々と掴み上げると、冷淡に言った。
「……立て。置いていくぞ」
「アルトッ……!」
「お前たちのために助けたわけではない」
アルトは静かに振り返り、黒曜石の天井の先――地上の空を見つめるように視線を上げた。
「……行くぞ、エルシア」
「はいっ!」
***
地上へと続く黒曜石の階段を抜け、二人は負傷した《漆黒の牙》の面々を連れて、迷宮の入口へと帰還した。
外は、眩いばかりの夕暮れの陽光に包まれていた。
「――おい! 出てきたぞ!」
「誰かが帰ってきた!」
迷宮の入口付近に野営陣地を敷いていた冒険者たちが、一斉にどよめき、駆け寄ってきた。
ドノヴァンを筆頭に、ヴァルス、カイル、マリーナ、そしてギルドの救護班の面々が、武器を取り落とす勢いで目を丸くしている。
「おいおい……嘘だろ……!?」
カイルが声を上ずらせた。
そこにいたのは、傷一つ負っていないアルトとエルシア。そして――二人に担がれ、あるいは肩を借りてよろよろと歩く、ボロボロになった《漆黒の牙》の姿だった。
「ゼクスたちだ……! 全員……全員生きてるぞ……ッ!」
「あの古代結界を破って、深層ボスを殲滅して、本当に全員連れ戻してきやがった……!」
割れんばかりの歓声が、岩山一帯に響き渡った。
救護班が即座に駆け寄り、昏倒していた仲間たちを担架へと移していく。
そんな中――ゼクスは救護班の手を振り払い、ふらつく足取りでアルトの前へと歩み出た。
周囲の冒険者たちが、息を呑んで見守る。
「……アルト」
ゼクスの口から、掠れた声が漏れた。
その巨躯が、ぐらりと揺れた。
次の瞬間――ドサリ、と重い音を立てて、ゼクスは泥だらけの地面に両膝をついた。
「ゼクス……!?」
ドノヴァンが隻眼を見開く。
あの傲慢で、王都の威光を傘に着て誰をも見下していたSランクの剛剣士が、かつて見捨てたはずの男の前で、地面に額を擦り付けていたのだ。
「すまなかった……ッ!」
震える怒号のような謝罪が、夕暮れの荒野に響き渡った。
「俺たちが……俺が全部間違っていた……! お前の剣を『欠陥』と罵り、ギルドから追い出したのは……お前の才能が怖かったからだ! お前の速度に追いつけない自分たちの無能さを認めるのが……怖かったからだッ!」
ゼクスの両目から、大粒の涙が泥の上にぼたぼたと零れ落ちる。
「深層でお前を殿に置き去りにしたのも、全部俺の保身だ……! お前の神速があれば、一人で生き残れると知っていながら……お前にすべての罪を着せて逃げ出した……! 俺はお前を……お前の誇りを踏みにじったんだ……ッ! 頼む、殴ってくれ……! 殺したって構わねえ……ッ!」
血を吐くような告白。
かつての理不尽な追放の全貌が、集まった数十人の冒険者たちの前で、白日の下に晒された。
誰もが拳を握りしめ、アルトを見つめた。
殴り倒してもいい。剣を抜いて首を撥ねたとしても、誰一人アルトを責めはしないだろう。
だが――。
「……顔を上げろ」
アルトの声は、どこまでも平坦だった。
怒りも、復讐の快感も、嘲笑すらも、そこには微塵も混ざっていなかった。
アルトはただ、地面に額を擦り付けるゼクスを、道端の小石でも見るかのように冷ややかに見下ろしていた。
「……殴りもしないのか? 俺を……憎くないのかよ……!?」
顔を上げたゼクスが、縋るようにアルトを見上げる。
アルトは静かに長剣の柄から手を離し、吐息のように呟いた。
「……もう、どうでもいい」
「え……?」
「かつてお前たちに裏切られた時、俺はお前たちを憎んだ。……だが、それも遠い昔の話だ」
アルトの視線は、ゼクスを通り越し、夕暮れの空へと抜けていた。
「俺の剣の価値を決めるのは、お前たちではない。……お前たちの罵倒も、嫉妬も、今の俺には爪の先ほども届かない」
淡々とした、だが絶対的な拒絶。
復讐すら与えられないほどの、完全な無関心。
アルトにとって、ゼクスたち《漆黒の牙》は、もはや魂を縛る鎖ですらなくなっていたのだ。
アルトは踵を返した。
そして、傍らに立つエルシアへと視線を落とした。
その瞳の奥に宿っていたのは、先ほどまでの冷たい無関心とはまるで違う――微かに揺れる、穏やかで柔らかな光だった。
「……帰るぞ、エルシア」
「――はいっ!」
エルシアは満面の笑顔で頷いた。
夕日に照らされたアルトの横顔から、長年その魂に張り付いていた冷たい影が、綺麗に剥がれ落ちていくのを、エルシアは確かに見た。
二人は並んで歩き出す。
背後で、地面に突っ伏したまま号泣するゼクスの泣き声と、二人を見送る冒険者たちの温かい沈黙が、夕暮れの荒野に静かに溶けていった。
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