第36話:絶体絶命の《漆黒の牙》
血と硝煙の臭いが充満する大広間の壁際で、ゼクスは荒い息を吐きながら膝をついていた。
「はぁッ、はぁッ……くそっ……死に損ないの石人形どもが……ッ!」
かつてラディスの酒場で威張り散らしていた傲慢な面影は、見る影もなかった。
自慢の黒漆塗りの重装鎧は無数に引き裂かれ、血塗れになった肩口からは鈍い痛みが脈打っている。大人の胴回りほどもあった剛剣は刃こぼれだらけで、今は辛うじて身体を支える杖代わりに床に突き刺さっているだけだった。
「ゼクス様……もう、ダメです……」
「前衛の盾が砕かれました……魔力も底を突いて……」
周囲を見渡せば、惨状はさらに目を覆うばかりだった。
大盾役の仲間は盾を粉砕されて壁際に昏倒し、魔術士は喉を裂かれて喀血している。立ち上がって武器を構えている者は、もはやゼクス一人しか残されていなかった。
「黙れ! 諦めるな! 俺たちは王都のSランクだぞ……ッ!」
ゼクスは怒鳴り散らしたが、その声は震えていた。
彼らを包囲するのは、悪夢のような魔物の軍勢だった。
天井を埋め尽くす数百体の『黒曜のガーゴイル』。床の闇から音もなく這い出し、鋭利な影の触手を伸ばす『這い寄る影』。
そして広間の中央に君臨するのは、体長六メートルを超える黒曜石の巨像――『黒曜の巨像騎士』。古代の魔導工学が生み出した、深層の防衛大将だった。
ゴオオオオオッ……!
巨像騎士が掲げた漆黒の大剣が、紫紺の雷光を帯びて唸りを上げる。
ガーゴイルたちが嘲笑うように旋回し、一斉に急降下の体勢に入った。
「ちくしょう……ッ! 俺が……王都の頂点に立つはずのこの俺が、こんな掃き溜めのような地方の遺跡で死ぬのかよ……ッ!?」
ゼクスは唇を噛み締め、血の涙を流した。
魔力結界は閉じられたまま。救援を呼ぶために従者を外へ蹴り出したが、あんな結界を外から破れる者などいるはずがない。誰も助けになど来ないのだ。
――グアアアアッ!
頭上から、五体のガーゴイルが急降下してきた。
狙いは、無防備に転がる仲間の魔術士の喉笛。
「やめろォッ! 来るなッ!」
ゼクスは叫び、重い身体を引きずって剛剣を振り上げようとした。だが、酷使した筋肉は悲鳴を上げ、刃はわずか数センチ持ち上がっただけで床に落ちた。
間に合わない。
死ぬ。仲間も、自分も、全員ここで喰い殺される。
ゼクスが絶望に目を瞑りかけた――まさにその瞬間だった。
――ズザザァァァンッ!!
背後で、天変地異のような爆音と衝撃波が炸裂した。
物理攻撃を完全に弾き返すはずの古代魔力結界が、眩い白光とともに粉々に弾け飛ぶ。
次の瞬間、何トンもの重量を誇る分厚い黒曜石の大扉が、まるで一枚の紙のように真っ二つに両断され、瓦礫となって広間の中央へと吹き飛んだ。
「な、なんだ……!? 扉が……両断された……!?」
ゼクスが目を見開いた。
突如として広間に吹き込んできたのは、冷たい外気と――圧倒的な『神速の風』だった。
舞い散る粉塵を切り裂いて、黒い影が一筋、光となって走った。
キィ――!?
仲間の魔術士の喉笛に迫っていた五体のガーゴイルが、突如として空中で静止した。
否、静止したのではない。
その五体の首が、同時に、綺麗に水平に滑り落ちたのだ。
ドサドサドサッ!
切り落とされた石の首が床に転がり、遅れて胴体が黒い塵となって弾け飛ぶ。
その散り行く黒煙のただ中に、音もなく着地したのは――黒いロングコートを纏い、銀の長剣を冷たく提げた一人の剣士だった。
「……アル、ト……!?」
ゼクスの喉から、信じられないという掠れた悲鳴が漏れた。
幻覚かと思った。
かつて自分が「欠陥剣士」と見下し、追放した男。誰とも連携が取れない役立たずと切り捨てた男が、傷一つない姿で、死線の只中に立っていた。
「な、なぜお前が……! あの大扉の結界を、どうやって……!?」
「……騒ぐな」
アルトは振り返りもせず、氷のように冷徹な一言でゼクスを切り捨てた。
その直後――。
「ゼクス様、怪我人を動かさないで伏せてください!」
澄み渡る凛とした声が響いた。
アルトの背後から滑り込んできたのは、純白の神聖衣を纏ったエルシアだった。
エルシアは倒れ伏す《漆黒の牙》の仲間たちを一瞥するや否や、短杖を掲げて躊躇なく術式を解放した。
「《調律・小聖護》――三重展開!」
柔らかな光のドームが、昏倒する仲間たちとゼクスの頭上に瞬時に展開される。
床から這い寄ってきた『這い寄る影』の鋭利な触手が光のドームに衝突し、ジュッと音を立てて弾き飛ばされた。
「ぐっ……な、なんだ、この光は……!? 身体が……熱くねえ……痛みが消えていく……!?」
ゼクスは目を見張った。
光の膜に包まれた瞬間、全身を苛んでいた激痛がすっと和らぎ、肺に泥が詰まったように重かった呼吸が、驚くほど滑らかに通ったのだ。
「お前……昨日の受付嬢か!? こんな治癒術、王都の神殿でも見たことがねえぞ……!」
「お喋りは後です、ゼクス様。舌を噛みますから奥歯を噛み締めていてください」
エルシアは振り返りもせず、碧眼を鋭く細めて広間全体を俯瞰していた。
「アルトさん!」
「……ああ」
「敵の総数、百三十四! 這い寄る影は足元の光条で牽制します! 巨像騎士の魔力循環は胸部の古代炉から両腕へ流れています! 右腕を振り下ろす瞬間にコンマ三秒の送魔遅延――そこを突けば、ガーゴイルの掃討ルートが完全に開きます!」
「……了解だ。掃討する」
アルトの返答に、ゼクスは戦慄した。
迷いも、恐怖も、一切ない。
背後を完全に預けた絶対の信頼。
ゼクスが何年かけても築けなかった『完璧なバディ』の姿が、そこにあった。
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