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第35話:深層への神速踏破

 ラディスの北方に聳える岩山を穿つように、その漆黒の開口部は口を開けていた。


 古代迷宮――『黒曜の深淵』。

 数百年前、魔導工学が栄えた古代王国が築き上げたとされる地下要塞遺跡である。外壁から床、天井に至るまで、魔力を吸収・反射する特性を持つ硬質な黒曜石で覆われており、内部には侵入者を排除するための無数の防衛機構が今なお生き続けている。


 通常、この迷宮に挑む冒険者パーティは、罠解除の専門職(シーフ)を先頭に立て、一歩一歩打診棒で床を叩きながら、丸一日をかけて慎重に階層を下りるのが鉄則とされていた。


 だが――。


 ――ビュンッ!


 黒曜石の回廊を、二筋の疾風が駆け抜けていた。

 先頭を滑るように走る黒い影――アルト。

 その半歩斜め後ろにぴったりと追従するのは、純白の衣をはためかせるエルシアだ。


「アルトさん、三歩先の床! 魔力脈の感圧板です!」


「……了解」


 エルシアの鋭い戦況指示が飛んだ瞬間、アルトは跳躍すらしなかった。

 右足の踏み込み位置をわずか数センチだけ外側にずらし、感圧板を完全に迂回。床に仕掛けられていた毒槍の射出機構は、起動の気配すら見せずに沈黙する。


「次、曲がり角の右壁! 火炎放射の感知孔です。頭上へ低空跳躍を!」


「……飛べ、エルシア」


「はいっ!」


 アルトがエルシアの腰に軽く手を添えて跳躍の慣性を支え、二人は天井すれすれの空間を滑空するように通り抜けた。直後、真下の床を紅蓮の炎が舐めるが、二人の足元をかすりもしない。


「……信じられないな。お前には迷宮の脈動まで視えているのか」


 着地と同時に疾走を再開しながら、アルトが息を乱すこともなく低く呟いた。


「視えます! 蒼銀石の髪飾りのおかげで、壁の中の古代の魔力管までくっきりと! トラップも魔物の身体と同じです。魔力が循環しているなら、負荷が集中する急所が必ずありますから!」


「……頼もしい後衛だな」


「えへへ、アルトさんの専属ですから!」


 エルシアが満面の笑みで返した瞬間、天井の闇が激しく蠢いた。

 蝙蝠型の石像魔物――『黒曜のガーゴイル』が五体、鋭利な鉤爪を光らせて急降下してくる。


「前方に五! 核は喉元の魔石、右から順に軌道が交差します!」


「……遅い」


 アルトが腰の長剣を抜刀した。

 銀光が一閃、二閃、三閃――目にも留まらぬ神速の連撃。

 刃の走る軌道には、エルシアの放った淡い光条が先回りして急所を指し示していた。


 ギャッ――!?


 悲鳴すら途切れ、五体のガーゴイルは喉元の核を同時に両断され、空中で黒い塵となって弾け飛んだ。

 アルトの足は止まらない。斬撃の余波でコートの裾を翻しながら、トップスピードのままさらに深層へと続く螺旋階段を駆け下りていく。


「アルトさん、呼吸の乱れはありませんか?」


「……ない。お前の指示通りに刃を振るだけでいい。……これほど羽のように剣が走るのは、初めてだ」


「思考負荷ゼロ……本当に、何一つ迷いがないですね!」


「お前を信じているからな」


「――っ!」


 さらりと落ちたアルトの言葉に、エルシアの胸が大きく跳ねた。

 言葉による確認すら要らない。互いの知覚と筋繊維が、完全に一つの生命体のように同調していた。


 浅層、中層、そして深層――。

 通常の精鋭パーティが半日以上を要する難所を、二人はわずか一刻足らずで走破していた。


 そして――。


「アルトさん、止まってください!」


「……ここか」


 エルシアの声に、アルトが寸分の狂いもなく急制動をかけ、黒曜石の床に静かに滑り止まった。

 立ちふさがったのは、最深部『黒曜の回廊』を封鎖する、巨大な両開きの黒曜石門だった。


 門の表面には、禍々しい赤紫色の幾何学文様がびっしりと浮かび上がり、分厚い魔力の幕となって空間を歪ませていた。

 古代の防衛トラップによる『物理遮断魔力結界』だ。

 門の向こう側から、魔物の耳障りな啼き声と、激しい金属の衝突音、そして男たちの絶望的な怒号が微かに漏れ聞こえてくる。


「……いたな。生存者はまだいるようだ」


「はい! でも、かなり追い詰められています……!」


 アルトが長剣の切っ先を結界へ向けるが、赤紫色の魔力膜はアルトの鋭利な殺気をすら弾き返し、ブゥンと重低音を響かせて波打つ。


「物理攻撃を完全に反転・拡散させる結界だな。……強引に斬れば、反動でこちらの腕が吹き飛ぶぞ」


「大丈夫です、アルトさん。私にお任せください!」


 エルシアがアルトの隣に並び立ち、純白の木製短杖を両手で構えた。

 碧眼を細め、結界の表面を走る幾何学模様を透視するように見つめる。


「外側からの力は弾くようになっていますが……この結界、扉の奥の広間から魔力を吸い上げて維持しています。つまり、循環の基点は内側にあるんです! ……左上の第三結節、それと右下の床面との接地部に、吸気と排気の負荷が集中しています!」


「そこを突けば、解けるか」


「はい! 一瞬だけ魔力を逆流させて、循環を飽和させます!」


 エルシアの短杖の先端に、澄み渡る蒼白の光条が凝縮されていく。


「《調律治癒・透徹(ペネトレイト)》――反転短絡!」


 放たれた二筋の光条が、寸分の狂いもなく結界の二大結節点へと突き刺さった。

 結界を構成していた赤紫色の魔力循環が、外側から送り込まれた光によって一瞬で飽和し、逆流を始める。


 パキィン――ッ!


 ガラスにヒビが入るような甲高い亀裂音が響き、不可侵を誇っていた結界の表面に、縦横無尽の白い亀裂が走った。


「アルトさん! 中央の亀裂、コンマ二秒後です!」


「……任せろ」


 アルトの全身から、余分な力みがすべて消え去った。

 コンマ二秒――結界の循環が完全に短絡し、反発の力がゼロになったその一瞬を、アルトの刃は見逃さなかった。


「……断て」


 ――神速の一閃。


 ズザァンッ!!


 轟音とともに、古代の魔力結界が飴細工のように粉々に砕け散った。

 その余波で分厚い黒曜石の大扉が両断され、内側へと激しく吹き飛ぶ。


「行くぞ、エルシア!」


「はいっ!」


 もうもうと立ち込める粉塵の向こう側――地獄のような大広間の光景が、二人の眼前に開かれた。


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