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第33話:高難度迷宮「黒曜の深淵」

 ドノヴァンとミレナからアルトの過去を聞かされた後、エルシアは胸に重い熱を抱えたまま、ギルドの一階フロアへと戻っていた。


 昼下がりの《白梟の止まり木》は、いつものように依頼票を確認する冒険者たちや、軽食をつまみながら談笑する者たちで賑わっていた。

 カイルやマリーナが「エルシアちゃん、昨日は凄かったね!」「あのゼクスって奴、本当に腹が立ったわ!」と声をかけてくれる。エルシアはいつもの穏やかな笑顔で応じつつも、視線は酒場の隅、アルトがいつも静かに座っている席へと向かっていた。

 まだアルトは宿から来ていない。昨夜のエルシアの言葉が届いて、少しでも心が休まっていればいいのだが。


 そう思っていた――その時だった。


 ――カランコロン、ガシャンッ!


 蝶番が悲鳴を上げるほどの凄まじい勢いで、ギルドの重い両開き扉が跳ね飛ばされた。

 突如響き渡った破滅的な音に、酒場中の冒険者たちが一斉に視線を向ける。


「た、助けてくれ……ッ! 誰か……誰か来てくれェッ!」


 悲鳴を上げながらフロアに転がり込んできたのは、黒い軽装鎧を纏った若い男だった。

 だが、その鎧は鋭利な爪で引き裂かれ、全身が赤黒い血と泥に塗れている。肩には折れた骨が突き出しかけ、まともに立ち上がることすらできず、這いずるようにカウンターへと縋り付いた。


「おい、しっかりしろ! 何があった!?」


 ヴァルスが即座に駆け寄り、男の身体を抱き起こす。

 エルシアも迷わず神聖衣の裾を払って駆け寄ると、男の喉元に手をかざし、呼吸の気道を確保するための《循環清浄》を滑り込ませた。

 浅く引き攣れていた男の呼吸が、淡い光に包まれてわずかに落ち着きを取り戻す。


「ぜ、ゼクス様たちが……《漆黒の牙》が……っ!」


 男の口から出たその名に、酒場がざわりと揺れた。

 昨夜、ゼクスが引き連れていた手勢の荷物持ちの少年だった。


「ゼクス様たちが、ラディス北部の『黒曜の深淵』へ……新しく発見された未踏層の扉を、誰よりも早く開けようと強引に突入したんです……! ギルドの制止も聞かずに……!」


「黒曜の深淵だと!?」


 カウンターの奥からドノヴァンが身を乗り出し、隻眼を険しく見開いた。


「馬鹿野郎が……! あそこは数百年前に滅びた古代の城塞遺跡だ。未踏層の扉の先がどうなってるかも調査が済んでねえってのに、単独で突っ込みやがったのか!?」


「は、はい……っ! 王都へ持ち帰る特大の手柄にするんだと、警告も無視して奥の『黒曜の回廊』へ……。そうしたら、扉を潜った瞬間に古代の防衛トラップが作動して……!」


 男はガチガチと歯を鳴らし、恐怖に瞳を血走らせながら言葉を絞り出した。


「退路の石門が完全に閉鎖されて、分厚い魔力結界が張られました……! 閉じ込められた広間に、天井と壁から変異種――『黒曜の石像鬼(ガーゴイル)』と『這い寄る影(シャドウストーカー)』の大群が雪崩れ込んできて……! ゼクス様たちも応戦しましたが、敵の数が桁違いで……前衛の盾が砕かれ、魔術士も喉を裂かれました……っ!」


「なんだと……!?」


 カイルが息を呑む。

 Sランクパーティであるはずの《漆黒の牙》が、瞬く間に壊滅状態に追い込まれたというのだ。


「俺は……退路が塞がれる直前、隙間から外へ蹴り出されて……『救援を呼んでこい』と……っ! でも、もう時間がありません! あの魔力結界は外側からも内側からも物理攻撃を弾き返します! ゼクス様たちだって、あと半刻も持ちません……! 全滅します……頼む、誰か助けてくれェッ!」


 男は床に額を擦り付け、血の涙を流しながら絶叫した。


 しかし――酒場を包んだのは、重苦しい沈黙だった。


 誰も動こうとしなかった。

 立ち上がったベテラン冒険者たちも、苦々しい表情で顔を見合わせ、拳を握りしめているだけだった。


「……自業自得だ」


 誰かが吐き捨てるように呟いた。


「昨夜、あんなにアルトさんやエルシアちゃんを侮辱して威張り散らしておいて……ギルドの警告を無視して勝手に死地に飛び込んだんだろ? なんで俺たちが、命を懸けてあんな奴らを助けに行かなきゃならないんだ」


「そうだ。それに……相手は『黒曜の深淵』の未踏層だぞ。Sランクが手も足も出ないような古代の罠と変異種の巣窟に、俺たちが行ったって犬死にするだけだ!」


 正論だった。

 冒険者はボランティアではない。ましてや他人の傲慢と無謀が生み出した惨劇に、自分の命を投げ打つ義理などどこにもない。

 ましてや、ゼクスが過去にアルトにした仕打ちを知る者からすれば、哀れむどころか「天罰だ」と見捨ててもおかしくない状況だった。


「くそっ……!」


 ヴァルスが唇を噛み締め、拳を叩きつけた。

 助けたいという冒険者としての矜持と、現場の絶望的な危険度、そしてゼクスへの嫌悪感。様々な感情が渦巻き、ギルド全体が息の詰まるような停滞に呑まれていく。


 ドノヴァンもまた、煙管を握りしめたまま苦渋の表情を浮かべていた。ギルドマスターとして、無謀な救助隊を出して二次災害を起こすわけにはいかない。だが、目の前で冒険者が見殺しにされるのを黙って見ていることもできない。


(黒曜の深淵……古代の魔力結界と、変異種の大群……)


 エルシアは負傷した従者の手当てを続けながら、思考を巡らせていた。

 確かに、ゼクスの態度は許しがたいものだった。アルトを傷つけ、陥れた過去の罪は消えない。

 だが――もしここでゼクスたちを見殺しにすれば、どうなるだろうか。

 アルトは一生、「自分の過去を嘲笑った男が死んだ」という呪縛を背負い続けることになるのではないか。

 あの人の心に、永遠に消えない澱を残してしまうのではないか。


 その時だった。


 ――カツ、カツ。


 静まり返った酒場に、規則正しく澄んだ足音が響いた。

 全員の視線が、再び入口へと注がれる。


 逆光の中に立っていたのは、黒のロングコートを纏った灰色の髪の青年――アルトだった。


 腰に佩いた長剣に片手を添え、アルトは倒れ伏す血まみれの男を一瞥した。その瞳は、いつものように感情の波一つない、氷のように研ぎ澄まされた光を湛えている。


「……何が騒がしい」


 低く、静かな声が、凍りついた空気を切り裂いた。


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