第32話:アルトの強張り
石畳を叩く急ぎ足の靴音が、静まり返った夜の路地に小さく反響する。
街灯の淡い魔導光が落とす長い影の先、黒いロングコートの裾を夜風に揺らしながら、アルトは一人で歩いていた。
いつもなら無駄のない滑らかな歩幅を刻むはずの足取りが、今夜はわずかにぎこちない。肩の線が硬く引き絞られ、周囲の気配をすべて拒絶するかのような、刺々しい空気を纏っていた。
「アルトさん!」
エルシアは小走りで駆け寄り、アルトの数歩手前で息を整えた。
アルトは立ち止まりはしたものの、振り返ろうとはしなかった。背中を向けたまま、低い声で呟く。
「……ついてくるなと言ったはずだ」
「置いていかれたら追いかけるに決まってます」
エルシアは迷わず歩み寄り、アルトの横顔を覗き込める位置まで回り込んだ。
アルトは視線を逸らした。月明かりの下、いつもは陶器のように感情を映さない美貌が、硬く引き結ばれている。そして、その左手――黒い手袋に包まれた指先は、今も微かに震え、長剣の鞘を握りしめたまま解けずにいた。
(やっぱり……)
エルシアは胸を締め付けられる思いで、その指先を見つめた。
ベヒーモスの咆哮の前でも、王都の騎士団長から冷遇された時でも、アルトの指先が揺らぐことなど一度としてなかった。
それなのに、あの男――ゼクスの一言が、アルトの魂の奥底に眠っていた古い傷を、容赦なく抉り出していたのだ。
「……あいつの言う通りだ」
ぽつり、と夜風に紛れるような掠れた声が落ちた。
自嘲と、諦念の滲んだ声だった。
「俺の剣は、初めから欠陥品だ。誰かと足並みを揃えるようにはできていない。……あいつらが切り捨てたのは、パーティとして当然の判断だった。お前が庇うような価値など、最初からどこにもない」
「――そんなこと、ありません!」
エルシアは強い口調で遮った。
アルトが驚いたようにわずかに目を見開く。その冷たい双眸を、エルシアは碧眼でまっすぐに見つめ返した。
「欠陥なんかじゃありません。アルトさんの剣は、誰よりも無駄がなくて、誰よりも綺麗です。合わせられないのは、アルトさんの速度に周りの目が追いつかないから……ただそれだけです!」
「結果は同じだ」
アルトは苦い吐息を漏らし、視線を夜空へと逃がした。
「追いつけないということは、戦場では隙になる。互いの背中を預けられない剣士など、パーティにとっては歩く障害物でしかない。……俺がいるだけで、周りの陣形は狂い、余計な血が流れる。だから俺は、一人で潜ることを選んだ。それだけの話だ」
淡々と、自分を切り捨てるような言葉。
その言葉の裏に、どれほどの孤独と、どれほどの理不尽な痛みが積み重なっていたのか。
誰にも理解されず、「お前のせいで仲間が傷ついた」「お前さえいなければ」と責め立てられ、自らの剣を呪うしかなかった歳月の重みが、エルシアの胸に痛いほど雪崩れ込んできた。
エルシアは息を吸い、静かに手を伸ばした。
躊躇うことなく、アルトの強張った左手を、自らの両手でそっと包み込む。
「……エルシア?」
アルトの肩がびくりと跳ねた。
手袋越しでもはっきりと伝わってくるほど、アルトの指先は冷え切っていた。エルシアは手のひらに柔らかな魔力を宿し、じんわりとした温もりを通していく。強張った腱を解きほぐし、凍りついた循環の淀みを優しく撫でるように。
「私には、合わせられます」
エルシアは微笑んだ。アルトの目を逃がさないように、至近距離からまっすぐに告げる。
「アルトさんがどれだけ速くても、どれだけ無駄を削ぎ落としても、私なら隣に立てます。アルトさんの思考の重さを全部預かって、世界で一番自由に走らせてみせます。……王都で、ベヒーモスを倒した時もそうだったじゃないですか」
「…………」
「100万人組んでくれる人がいたって、私はアルトさんを選ぶんです。それは、お世辞でも気休めでもありません。アルトさんの剣が、世界で一番かっこよくて、私にとって世界一の相棒だからです」
温かな光が、二人の重なった手のひらから微かに零れ落ちる。
アルトは息を詰まらせ、何も言い返せなくなったようだった。
ただ、強張っていた指先からゆっくりと力が抜け、冷え切っていた手のひらに、エルシアの体温が染み渡っていく。
やがて、アルトは耐えかねたように首筋まで赤く染め上げ、顔を明後日の方向へと背けた。
「……馬鹿を言うな。お前は……いつも大袈裟だ」
照れ隠しの掠れた呟き。だが、その声からは先ほどまでの刺々しい自嘲が綺麗に消え失せていた。
エルシアはくすりと笑い、手を離した。
「もう冷たくないですね。……帰りましょう、アルトさん。明日はゆっくり休んでください」
「……ああ」
短く頷き、二人は並んで宿への帰路についた。
アルトの歩幅は、いつもの滑らかな静寂を取り戻していた。
***
翌朝。
陽光が差し込むギルド《白梟の止まり木》の二階、ギルドマスター執務室。
「そうか。昨夜、そんなことがあったか」
ドノヴァンは煙管から紫煙を吐き出し、重々しい面持ちで腕を組んだ。
エルシアはアルトが宿で休んでいる隙を見計らい、単身でドノヴァンとミレナの元を訪れていた。
「ドノヴァンさん、ミレナさん。アルトさんと《漆黒の牙》の間に、昔何があったのか教えていただけませんか? アルトさんのあんなに痛ましそうな顔、もう二度と見たくないんです」
エルシアの真摯な眼差しに、カウンターから同席していたミレナが悲しげに眉を寄せた。
「……あの子がまだ、冒険者になりたての頃の話よ。エルシアちゃん」
ミレナが静かに語り始めた。
「アルトは最初、王都のギルドで《漆黒の牙》にスカウトされたの。あの類稀な剣速を買われてね。でも……当時のゼクスたちは、アルトの才能に嫉妬したのよ」
「嫉妬……?」
「ええ」とドノヴァンが引き継ぎ、不快そうに顔を顰めた。
「アルトの剣は最初から無駄がなさすぎた。敵の攻撃の起こりを見切り、最短で急所を突く。だが、ゼクスたちは重装甲で敵の攻撃を受け止め、大技を叩き込む大味な戦法だ。アルトが一瞬で敵を仕留めるせいで、ゼクスたちの見せ場がなくなる。それどころか、アルトの超高速の展開に後衛の詠唱も盾役の立ち回りも追いつかねえ。……連中は自分たちの未熟さを棚に上げて、こう言ったのさ」
ドノヴァンが吐き捨てるように言葉を継ぐ。
「『お前が勝手に敵を倒すから、パーティの連携が崩れる』『仲間を危険に晒す欠陥剣士だ』とな。あげくの果てに、深層でゼクスが判断ミスで魔物の大群を呼び寄せた際、全滅の危機に瀕した連中は、アルトに殿を押し付けて逃げ出した」
「――ッ!?」
エルシアは息を呑んだ。手のひらが怒りで震える。
「アルトは……一人で群れを殲滅して、血だらけで生還したわ」
ミレナが胸を押さえ、痛ましそうに呟いた。
「でも、帰ってきたアルトを待っていたのは、除名処分と『命令違反の危険人物』という汚名だったのよ。ゼクスたちは自分たちの失態を隠すために、ギルドに嘘の報告を上げたの。……それ以来、アルトは誰とも組まなくなった。自分の剣は仲間を不幸にする呪いだと、ずっと思い込んできたのよ」
執務室に重苦しい静寂が満ちる。
エルシアの胸の奥で、熱い焔が燃え上がっていた。
才能を妬まれ、理不尽に責任を押し付けられ、命を懸けて仲間を守ったのに裏切られた。
どれほどの絶望の中で、あの人は一人、冷たい剣を磨き続けてきたのだろう。
「そんな連中が、なぜ今ラディスに……?」
エルシアが問うと、ドノヴァンが眉根を寄せ、机の上の書類を指差した。
「手柄集めだ。近頃、ラディス近郊の古代迷宮『黒曜の深淵』で未踏層の扉が発見された。王都で功名を焦ったゼクスたちが、一番乗りで財宝をかっさらうために乗り込んできたのさ」
「黒曜の深淵……」
「危険な場所だ。深層には古代の凶悪なトラップと変異種がひしめいている。あいつらのような大味なパーティが潜れば、痛い目を見るのは目に見えているがな」
ドノヴァンの懸念は、決して杞憂ではなかった。
この数時間後、ギルドに響き渡る非常警報の鐘の音を、エルシアはまだ知る由もなかった。
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