第30話 ラディスへの帰還と不穏な影
カタカタと揺れる馬車の窓から、見慣れた灰褐色の城壁が見えてきた。
地方都市ラディス。
街道沿いに広がる赤瓦の家並みと、遠くにそびえる懐かしい《白梟の止まり木》の尖塔。
旧王領での息詰まる死闘を終え、数日間の旅路を経て戻ってきた故郷の姿に、エルシアの胸がじんわりと温かくなった。
「アルトさん、見えましたよ! ラディスです!」
馬車の窓から身を乗り出して手を振るエルシアに、向かいの席に座るアルトが静かに頷いた。
長剣を膝に置き、腕を組んだその表情は、いつもの冷静沈着な佇まいに戻っていた。
だが、その灰色の瞳には、どこか旅を終えて安堵したような、柔らかな光が宿っている。
「……身を乗り出すな。落ちるぞ」
「へいきです! あ、東門の前に……えっ!?」
東門をくぐった瞬間、エルシアは目を丸くした。
石畳の大通りを埋め尽くしていたのは、何重にも連なる人、人、人の波だった。
「お、おい! 帰ってきたぞ!!」
「《ルミナ・ヴァレイン》だ! エルシアちゃんとアルト殿だーーッ!!」
ワァァァァァァァァァッッ!!!!
門を抜けた瞬間、大通り全体が割れんばかりの歓声と拍手で爆発した。
色とりどりの紙吹雪が青空を舞い、住民や商隊の人々が馬車を取り囲むように手を振っている。
「ベヒーモスを討伐したって王都の早馬から聞いたよ!!」
「旧王領の瘴気を全部吹き飛ばして、騎士団を救ったんだってな!」
「ラディスの誇りだ! 英雄のお帰りだーーッ!!」
馬車を降りた途端、エルシアの両腕は市場のおばちゃんたちから差し入れられた焼きたてのパンやリンゴ、干し肉でいっぱいになった。
「エルシアちゃん、無事でよかったねぇ! ほら、焼きたてのクルミパンだよ!」
「アルトの兄ちゃん! よくぞやってくれた! 街の誇りだよ!」
「わ、わぁ……! 皆さん、ありがとうございます!」
エルシアが満面の笑顔で応える隣で、アルトは抱えきれないほどの果物の山を両手で支えながら、困惑したように眉を寄せていた。
「……なぜ街の住民がこれほど集まっている」
「当たり前じゃないですか! アルトさんが世界一の剣で災厄を倒したんですから!」
エルシアが誇らしげに胸を張ると、アルトは視線を泳がせながら小さく溜息をついた。
だが、差し出された果物を邪険に断ることもせず、不器用に頷いて受け取っていた。
人混みをかき分け、二人はようやく冒険者ギルド《白梟の止まり木》の前に辿り着いた。
重厚な木製のエントランスの扉を開けた瞬間――。
パァァァァァンッ!!
乾いた破裂音とともに、紙テープと銀の粉が二人の頭上に降り注いだ。
「お帰り、ラディスの誇り共!!」
酒場の奥から、煙草をくわえたギルドマスター・ドノヴァンが、豪快な笑い声を上げながら大股で歩み寄ってきた。
そして、二人の背中を力任せにバチンと叩いた。
「がはははっ! 王都の使者から報告書が届いた時は腰を抜かしたぜ! あいつらの誇る『白銀のファランクス』が壊滅した災厄獣を、たった二人で無傷討伐だぁ!? 鼻持ちならないエリート騎士どもを完膚なきまでにギャフンと言わせてくれたそうじゃねえか!」
「痛いです、ギルドマスター!」
エルシアが笑いながら背中をさする。
カウンターの奥からは、先輩受付嬢のミレナが優雅に歩み寄ってきた。
いつものクールな美貌を崩し、その瞳には溢れんばかりの安堵と喜びが滲んでいた。
「おかえりなさい、エルシア、アルト。……無事で本当によかったわ」
ミレナはエルシアを優しく抱きしめた。
そして、耳元で悪戯っぽく口元を吊り上げた。
「それにしてもエルシア……『100万人組んでくれる騎士様がいたってアルトを選ぶ』ですって? 王都治癒院からの親書に、公衆の面前での特大啖呵って克明に記録されていたわよ」
「えっ!? そ、それまで書いてあるんですか!?」
エルシアが顔を真っ赤にして狼狽える。
「……なぜその話がもうここまで届いている」
アルトが頭痛を堪えるように額に手を当て、耳を真っ赤にした。
酒場のあちこちにいた冒険者たち――ヴァルスやカイル、マリーナ、リックたちが、一斉にドッと大爆笑を上げた。
「がははっ! アルト、観念しろ!」
大剣のリックがジョッキを掲げる。
「ギルドの看板娘にそこまで言わせちまって、男冥利に尽きるじゃねえか!」
「アルト殿、顔が赤いですぞ!」
カイルがからかい、酒場全体が温かい冷やかしと歓声の嵐に包まれた。
ドノヴァンがカウンターの上に、ずっしりと重い皮袋を二つと、金糸で刺繍された羊皮紙を置いた。
「ほらよ。今回の特級遠征の報奨金、金貨百枚だ。それと、王立騎士団総長からの特級武勲章の認定状だ。……お前らはもう、地方の枠にとどまらねえ、王国屈指の特級バディとして名を刻んだんだ」
酒場中から、地鳴りのような拍手が巻き起こった。
エルシアは銀のバディプレートに触れ、アルトと顔を見合わせて微笑んだ。
だが。
その熱狂と祝杯の喧騒の奥深く。
酒場の最も薄暗いVIP席から、氷のように冷酷で、ねっとりとした嘲弄の視線が、アルトの背中へと突き刺さっていた。
「…………」
アルトの身体が、ピクリと強張った。
長剣の柄に置かれた指先が、目に見えて硬直する。
「……アルトさん?」
エルシアが異変に気づき、アルトの横顔を見上げた。
先ほどまで照れくさそうにしていたアルトの表情から、一切の温度が抜け落ちていた。
灰色の瞳が、獲物を狙う鷹のように鋭く細められ、酒場の最奥の影を睨みつけている。
ギィィ……と、革鎧の軋む音が響いた。
薄暗いVIP席の影から、一人の男がゆっくりと立ち上がった。
豪奢な黒漆塗りの重装鎧。背中には、人の背丈ほどもある禍々しい剛剣。
肩口に刻まれていたのは、王都のSランクギルドを象徴する、三本爪の獣の紋章――《漆黒の牙》。
男は、手にしたエールグラスをテーブルの上に乱暴に置くと、嘲笑を浮かべながらアルトへと歩み寄ってきた。
「へぇ……ずいぶんと田舎の野良犬どもが、調子に乗って騒いでるじゃねえか」
重く、濁った声が、酒場の喧騒を冷ややかに切り裂いた。
男の獰猛な眼光が、アルトの飾り気のない細身の長剣へと注がれる。
「久しぶりだな、アルト。……まだ誰とも合わせられない、欠陥剣士の我流ごっこを続けてるのか?」
ゼクス。
かつてアルトを「連携を乱す役立たず」と罵り、パーティから追放した張本人――Sランクパーティ《漆黒の牙》のリーダーが、そこに立っていた。




