第29話 二人の夜の語らい
宿舎の奥に設けられた木製のテラスに出ると、心地よい夜風がエルシアの髪を優しく揺らした。
昼間の濃密な毒霧が嘘のように、旧王領の夜空は深く澄み渡っていた。
見上げれば、まるで黒ビロードの布の上に銀の砂を撒き散らしたような、満天の星。
戦火の傷跡が残る大地を、静かな星明かりが青白く照らし出している。
「……すごい。空が、こんなに澄んでいるなんて」
エルシアが手すりに寄りかかり、感嘆の息を漏らした。
耳元で、蒼銀石の髪飾りが夜風を受けて小さく揺れ、星明かりを反射して淡い青光を宿している。
コトッ。
素朴な木机の上に、湯気を立てる素焼きのマグカップが二つ置かれた。
見上げると、部屋着の黒いシャツ姿のアルトが、湯気の上るカップを片手に立っていた。
「……飲め。夜風で身体が冷える」
「あ、ありがとうございます、アルトさん!」
エルシアは両手でマグカップを受け取った。
カップから立ち上るのは、甘酸っぱい乾燥果実と野草の清らかな香り。
宿舎の厨房で見繕ってきたのだろう。
熱い茶をそっと口に含むと、ハーブの優しい温もりが、昼間の激闘で張り詰めていた身体の芯をじんわりと解きほぐしていく。
アルトも手すりに背を預け、無言で自分のカップを傾けていた。
普段の革鎧を脱いだその肩は、どこか肩の荷を下ろしたように見え、横顔には普段の張り詰めた剣呑さはなかった。
二人の間に、心地よい静寂が流れる。
遠く基地の広場の方からは、負傷から立ち直った騎士たちが焚き火を囲んで談笑する、微かなざわめきが聞こえていた。
ふと、アルトがマグカップを見つめたまま、ぽつりと口を開いた。
「……それにしても」
「はい?」
アルトはエルシアから視線を逸らし、夜空の彼方を見上げた。
その耳たぶが、昼間の記憶を思い出したのか、まだ微かに赤らんでいる。
「……あんな大勢の前で、あんな大声を出すな。……恥ずかしい奴だ」
呆れたような、だがどこか居心地の悪そうな声音。
エルシアは思わず小さく吹き出した。
「ふふっ、また言ってる! 恥ずかしくなんてありませんよ! 本当のことなんですから!」
「……本当のことだろうが何だろうが、限度がある」
アルトは溜息をつき、首筋を軽く掻いた。
「100万人の騎士より俺を選ぶだの……あんなことを叫ばれて、誰が平然としていられる。現に、広場の連中が冷やかしてきて収拾がつかなくなっただろう」
「だって、あのレオンハルト様が、アルトさんのことを『欠陥剣士』だなんて酷いことを言ったんですよ? 絶対に聞き捨てられませんでした!」
エルシアは頬をぷっと膨らませて、真剣な眼差しでアルトを見上げた。
「それに……アルトさん、昼間に『選ぶのはお前だ』って、寂しそうな顔で背中を向けたでしょう?」
アルトの指先が、ピクリと止まった。
「……俺は、ただ合理的な判断を口にしただけだ」
アルトは平然を装って言った。
「王立騎士団の筆頭専属聖女、年俸金貨五百枚、貴族の爵位……お前の才能なら、王都の光の当たる場所で、一生誰からも敬われながら暮らす権利がある。俺のような日陰の冒険者のそばにいるより、よほど安全で確実だ」
「それが嫌だったんです」
エルシアの声は、静かだった。だが、芯の通った強さがあった。
「私が欲しかったのは、豪華なお屋敷でも、名誉ある爵位でもありません。……私が欲しかったのは、アルトさんの隣です」
エルシアは手に持っていたマグカップを机の上に置いた。
そして、手すりに置かれたアルトの無骨な右手を――そっと、両手で包み込んだ。
「……エルシア?」
アルトが驚いたように息を呑み、灰色の瞳を揺らした。
冷たい夜風に晒されていたアルトの指先に、エルシアの温かな手のひらが重なる。
剣のタコと無数の傷跡が刻まれた、戦うためだけに鍛え上げられた大きな手。
エルシアは、その手をぎゅっと、慈しむように包み込んだ。
「アルトさん。私が何者でもなかった受付嬢の時、最初に私の手を取って、可能性の扉を開いてくれたのはアルトさんです」
エルシアは、まっすぐにアルトの瞳を見つめた。
「『危ないから後ろにいろ』って守られるだけの存在じゃなくて、対等に背中を預けられる相棒になりたくて、私はここまで走ってきました。アルトさんが信じてくれたから、私は自分の足で立てるようになったんです」
夜風が吹き抜け、二人の髪を揺らす。
星明かりの下、エルシアの琥珀色の瞳には、一切の迷いも濁りもなかった。
「誰がどれだけアルトさんの剣を馬鹿にしようと、関係ありません。私にとっては、世界で一番強くて、世界で一番優しくて、世界で一番かっこいい剣士です。だから……100万人組んでくれる人がいたって、私は絶対にアルトさんを選ぶんです」
アルトは、言葉を失っていた。
胸の奥深く、誰にも見せないように分厚い氷で閉ざしていた場所が、急速に熱を帯びていく。
かつて、元パーティから「お前のせいで陣形が乱れる」「気味が悪い」と罵られ、放り出された日。
誰にも理解されず、自分の太刀筋は他人を傷つけるだけの呪いなのだと、孤独の闇に沈んでいた日々。
その冷たい呪縛が、目の前の少女の温もりによって、跡形もなく溶かされていく。
「……お前は」
アルトの口から、掠れた声が漏れた。
彼はエルシアの手を振り払おうとはしなかった。
それどころか――包み込まれていた無骨な指先が、ゆっくりと動き、エルシアの小さな手をそっと包み返すように握り締めた。
「……お前は本当に、どこまでも欲のない奴だな」
呆れたような、だがこれ以上ないほど優しい呟き。
そして、アルトの口元に――ふっと、穏やかな微笑みが浮かんだ。
冷徹な孤高の剣士が、出会ってから初めて見せた、心からの笑み。
その柔らかさに、エルシアの胸がトクンと跳ね、頬がカッと熱くなった。
「あ……」
思わず目を丸くするエルシアに、アルトは照れ隠しのように握った手をゆっくりと離し、再び夜空を仰いだ。
「……お前がいたからだ」
アルトは静かに言った。
「お前が隣で肯定し、背中を守ってくれたから……俺の剣は今日、誰かを救うために、一度も迷わずに走ることができた。……感謝している」
「アルトさん……」
エルシアの胸に、じわりと温かい熱が広がっていく。
受付嬢だった自分が、憧れだった孤高の剣士を救い、そしていま、隣で対等に並び立っている。
これ以上の幸せが、この世界のどこにあるだろうか。
エルシアは再びマグカップを手に取り、満面の笑顔を咲かせた。
「明日、ラディスへ帰りますね! ドノヴァンさんも、ミレナさんも、市場のみんなも、きっとびっくりして大喜びしてくれますよ!」
「……ああ」
アルトもカップを口に運び、穏やかに頷いた。
「大騒ぎになるだろうな。……だが、悪くない」
澄み渡る旧王領の星空の下。
二人の絆は、誰にも引き裂くことのできない、本物の伝説へと昇華していた。
だが――。
凱旋を待つラディスの街に、アルトの過去を知る不穏な影が忍び寄っていることを、二人はまだ知る由もなかった。




