第28話 赤面する孤高の剣士
「……おい」
アルトがサッと顔を背けたまま、低く呻くような声を出した。
その首筋から耳たぶの先まで、完全に熟れた林檎のように真っ赤に染まっている。
普段の氷のように冷徹な佇まいはどこへやら、長剣の鞘を握る指先が落ち着きなく微かに強張っていた。
「はい、何ですかアルトさん?」
エルシアはきょとんとした顔で、背けたアルトの顔を覗き込もうと小走りで回り込んだ。
「……覗き込むな」
アルトはさらに首をねじって顔を隠し、ぎくしゃくとした歩幅で早足に歩き出そうとする。
いつもなら泥濘の上でも一切ブレない完璧な重心移動が、いまは見るからにぎこちない。
「……大勢の前で、何を言っているんだ。耳がおかしくなる」
「大声じゃありませんよ! 広場の皆さんに、ちゃんと聞こえるようにハッキリ言ったんです!」
「……それが恥ずかしいと言っているんだ、馬鹿者」
「馬鹿者じゃありません! 本当のことなんですから!」
エルシアが胸を張って言い返す。
そのあまりにも屈託のない、澄み切った笑顔に射抜かれ、アルトは「ぐ……」と喉を詰まらせた。
言い返せる言葉など一つも見当たらず、ただ耳たぶの赤みをさらに濃くするしかなかった。
一方、救護広場の中央では。
泥濘の上に佇んでいたレオンハルトが、足元に落ちた黄金の契約書をゆっくりと拾い上げていた。
その指先で、付着した泥を静かに拭い去る。
「……分隊長閣下」
部下の騎士がおずおずと声をかけた。
「……100万人、か」
レオンハルトの口から、深い息とともに呟きが漏れた。
整った金髪は乱れ、激戦の疲労が残る顔には、しかし先ほどまでの狼狽は消え去っていた。
「年俸金貨五百枚、名誉貴族の爵位、十名の近衛小隊……国が出しうる最高峰の栄達すら、あの少女の前には紙屑同然だったな」
「閣下……」
「……完敗だ」
レオンハルトは契約書を懐に収め、自嘲気味に、だが清々しく微笑んだ。
「金や爵位で心が揺らぐような器であったなら、あの極限の戦場で互いを信じ抜き、奇跡を編み出せるはずがなかったのだ。……アルト殿。貴殿の勝ちだ。あの少女の隣に立つ資格があるのは、最初から貴殿だけだった」
指揮官としての誇りをもって潔く負けを認めたレオンハルトの言葉に、周囲の騎士たちが顔を見合わせ、やがて温かい笑みを浮かべた。
「そうだぜ、分隊長閣下! 俺たちじゃ逆立ちしたって敵わねえよ!」
「命を預け合っている本物のバディだもんな!」
広場を包んでいた静寂が、ふっと緩んだ。
誰かが鳴らした指笛を合図に、地鳴りのような拍手と歓声が救護広場全体から爆発した。
ワァァァァァァァァァッッ!!!!
「ヒューッ! よく言ったぞ、お嬢ちゃん!!」
「世界一かっこいいぜ、白魔導士殿!!」
「100万人の騎士よりアルト殿か! 敵わねえなぁ、おい!!」
騎士たちが口笛を鳴らし、笑いながら二人に惜しみない祝福を送った。
ベヒーモスの瘴気から命を救われた兵士たちも、顔を真っ赤にして早足で逃げようとするアルトを指差し、ドッと歓声を上げた。
「アルト殿! 耳が真っ赤だぞーーッ!!」
「こんな可愛い相棒に世界一って言われて、そりゃたまらんよなぁ!」
「末長くお幸せになーーッ!!」
「だ、誰が幸せだ……! 下らん口を叩くな!」
アルトが珍しく声を荒らげた。
だが、その鋭い一喝も、真っ赤に熟れた耳と泳ぐ視線のせいで、完全に空回りしていた。
騎士たちの冷やかしは勢いを増すばかりで、口笛の嵐が吹き荒れる。
「アルトさん、皆さん応援してくれてますよ! 手を振りましょう!」
「……振るか、馬鹿者。行くぞ!」
いたたまれなさが限界に達したアルトは、エルシアの袖口を無言で引き、早足で広場の人混みを抜け出そうとした。
乱暴に引っ張るのではなく、エルシアが泥に足を取られないよう、絶妙に加減された力加減。
照れくささで爆発しそうになりながらも、その手つきには不器用な優しさが滲んでいた。
「あ、お待ちください! アルト殿、エルシア殿!」
背後から、澄んだ声が二人を呼び止めた。
振り返ると、法衣の裾を持ち上げて駆け寄ってくる、王国筆頭治癒師ソフィアの姿があった。
「ソフィア様?」
エルシアが立ち止まる。
ソフィアは乱れた呼吸を整えると、二人の前で背筋を伸ばし、深く、丁寧に頭を下げた。
「改めて、お礼とお詫びを申し上げます。先ほどは、未熟な知識で貴女を遠ざけようとしましたこと……本当に申し訳ありませんでした」
顔を上げたソフィアの表情は、憑き物が落ちたように晴れやかだった。
その瞳には、エルシアへの深い敬慕と、アルトへの素直な脱帽の光が宿っていた。
「エルシア殿。貴女がレオンハルト卿の申し出を断り、アルト殿を選んだ理由……痛いほどよくわかりました」
ソフィアは優しく微笑んだ。
「アルト殿のあの神速の太刀筋は、エルシア殿の完璧な戦況管理と、無条件の信頼があって初めて走るもの。そしてエルシア殿の奇跡の調律は、アルト殿が背中を守ってくれるからこそ、全開で解き放たれる……。お二人は、互いにとって唯一無二の光なのですね」
「ふふ、はい! アルトさんは私の最高の相棒ですから!」
エルシアが嬉しそうに頷く。
「……買い被りだ」
アルトは腕を組み、横を向いたまま短く返した。
だが、その声からは、先ほどまでの刺々しい拒絶の色は完全に消え去っていた。
ソフィアは懐から、王国筆頭治癒院の銀の聖印が刻まれた、一枚の金属符を取り出し、エルシアへと手渡した。
「これは、王都治癒院の特級通行証です。もし今後、王都にいらっしゃることがあれば、いつでも私を訪ねてください。貴女の調律の技術……王都の神聖魔術のあり方を根本から見直すためにも、ぜひ詳しく学ばせていただきたいのです」
「わぁ……! ありがとうございます、ソフィア様!」
エルシアは目を輝かせて通行証を受け取った。
「それでは、お二人とも。どうか道中お気をつけて」
ソフィアは優雅にお辞儀をし、温かい眼差しで見送った。
冷やかしと喝采の嵐が吹き荒れる救護広場を後にし、二人は遠征軍本陣の宿舎天幕へと戻ってきた。
激闘と騒乱の幕が下り、あたりには心地よい静寂が戻りつつあった。
西の地平線に夕陽が沈み、旧王領の空が、毒々しい紫から穏やかな茜色、そして深い群青の夜空へと移ろいでいく。
戦いの泥と汗を洗い流し、宿舎の入口に立ったアルトは、まだ微かに熱を帯びた耳たぶに軽く触れた。
そして、隣に並ぶエルシアへと視線を向けた。
「……エルシア」
「はい、アルトさん?」
アルトは長剣を腰から外し、宿舎の奥――夜風の吹き抜けるテラス席へと顎をしゃくった。
「……夜風に、当たるぞ」
「はいっ!」
エルシアは満面の笑顔で頷いた。
二人きりの、静かな夜が始まろうとしていた。




