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第27話 100万人の騎士より

「な……!?」


レオンハルトの碧眼が、信じられないものを見るかのように見開かれた。

差し出していた黄金の特権契約書を握る手が、微かに震える。


「さ、サインをしないだと……!? エルシア殿、本気で言っているのか!? 金貨五百枚だぞ!? 王都の一等地に立つ豪邸だぞ!? 名誉準貴族の爵位と、十名の精鋭近衛小隊まで付くのだぞ!? 地方の冒険者が一生かかっても届かない、国家が出しうる最高峰の栄達と安全を……なぜ断る!?」


レオンハルトは狼狽えながら、一歩エルシアへと詰め寄った。

広場を取り囲む騎士たちからも、信じられないというようなざわめきが波紋のように広がる。

誰が見ても、断る理由など万に一つも存在しない破格の条件だったからだ。


レオンハルトは唇を噛み締め、背後に立つアルトへと視線を向けた。


「アルト殿、貴殿が彼女を引き留めているのか!? 貴殿自身、先ほど彼女の将来を思って身を引くと言ったはずだ! 彼女の安全と輝かしい未来を願うなら、ここで王都へ送り出すのが、相棒としての真の誠意ではないのか!?」


大軍の指揮官としての、熱く、痛切な問いかけ。

アルトの肩がわずかに強張り、拳がさらに白くなる。


その時だった。


スッ……。


エルシアが、迷いなく前に出た。

アルトの身体を背後に庇うように、毅然としてレオンハルトの前に立ちはだかったのだ。

その琥珀色の瞳には、受付嬢時代の営業スマイルなど微塵もなかった。

あるのは、何者にも侵させない、ダイヤモンドのように透き通った誇りと決意。


「レオンハルト様」


凛とした、澄んだ声だった。

怒鳴ってもいない。荒げてもいない。

だが、その声音に込められた圧倒的な気迫に、レオンハルトは気圧され、息を呑んで足を止めた。


「アルトさんは、私を引き留めたりなんてしていません。……レオンハルト様。あなた方が提示してくださった条件が、どれほど破格で、どれほど誠実なものか、私にもよく分かっています。皆さんが国の未来を守るために、本気で私を必要としてくださっていることも」


「な、ならば……なぜだ……!?」


エルシアはまっすぐにレオンハルトを見据え、静かに首を振った。


「私が何者でもなかった時……ギルドのカウンターで、ただ冒険者さんたちの背中を見送ることしかできなかった受付嬢だった時、誰が私を必要としてくれましたか?」


静まり返る救護広場。

レオンハルトは言葉を詰まらせた。

ソフィアも、泥にまみれた法衣の胸元を押さえ、息を呑んでエルシアを見つめている。


エルシアは、胸元に手を当てた。

短杖を握る指先に、これまでの歩みが熱く宿っていた。


「周囲の誰もが、私をただの『愛想のいい受付嬢』として見ていました。私自身ですら、自分を少しばかり応急手当ができるだけの凡人だと思い込んでいました。……でも、アルトさんは違ったんです」


エルシアの声が、熱を帯びて広場全体へと染み渡っていく。


「アルトさんは、私が何者でもなかった最初の日に、誰よりも早く私の才能を見つけてくれました。そして、『お前はもっと高みへ行ける』と、可能性の扉を開いて見せてくれたんです!」


背後で、アルトの呼吸がわずかに止まったのを、エルシアは肌で感じていた。


「危ないからと過保護に選択肢を奪うのではなく、一人の自立した冒険者として私の意思を尊重してくれました。アルトさんが信じてくれたから、私は修行に耐えられた。アルトさんの隣に胸を張って立ちたかったから、私は今日、この場所で皆さんの息の詰まりを解くことができたんです!」


エルシアはくるりと振り返り、背後に立つ黒髪の剣士を見上げた。

そこには、かつてないほど誇らしげで、眩しい笑顔があった。


「アルトさんは、世界で一番速くて、世界で一番かっこいい剣士です。他人がどれだけ『地味だ』『我流だ』『連携を乱す』と馬鹿にしようと、私の命を、私の誇りを、そしてこの戦場を救ってくれたのは、アルトさんの研ぎ澄まされた刃です!」


そして、エルシアは再びレオンハルトへと向き直った。

深く息を吸い込み、全軍の鼓膜を震わせるほどの大音声で言い放った。


「王立騎士団の最高名誉だろうが、金貨五百枚だろうが、関係ありません! たとえこの先――100万人組んでくれる騎士様がいたって、私は絶対に選びません!」


空気が、凍りついた。

数百名の騎士たちが、ソフィアが、レオンハルトが、息を呑んで目を見張った。


エルシアは胸を張り、世界中に誇るように宣言した。


「100万人組んでくれる人がいたって――私は、世界で一番強くて優しい、アルトさんを選ぶんです!!」


ドォォォォォンッ……!


まるで、目に見えない雷霆が戦場に落ちたかのようだった。

風の音すら消え去った。

澄み渡る秋の青空の下、広大な救護広場が、完全に、完璧な静寂に包まれた。


「ひゃ、100万人……!?」


レオンハルトの口から、掠れた声が漏れた。

黄金の特権契約書が、手から力なく滑り落ち、泥濘の中にポトリと落ちた。

百戦錬磨のエリート軍人が、地位も名誉も富もすべて投げ打った少女の純粋すぎる愛の前に、完膚なきまでに叩きのめされていた。


ソフィアは両手を口元に当て、目を見張っていた。

そして、その瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。


(……敵うわけがないわ)


打算も妥協もない。

世界中のどんな富や名誉を積まれようと、ただ一人の男のすべてを全肯定する絶対の信頼。

自分が持っていたエリートの誇りなど、この純粋な光の前には塵芥に等しかった。


起き上がっていた騎士たちも、息を呑んだまま動けなかった。

「す、げえ……」

「あんなこと、言われてみたいぜ……」

「国家最高の待遇を蹴って、あの男一人を選ぶってのか……」

畏怖と、羨望と、胸を打たれた者たちの静かな感動が、兵士たちの間に広がっていく。


だが。


その、広場中の人間からの視線が、一斉に一点へと集中した。


黒髪の剣士――アルト・ヴァレイン。


「…………」


アルトは、完全に固まっていた。

長剣の柄に掛けた右手はピタリと止まり、普段は湖面のように凪いでいる灰色の瞳が、かつてないほど激しく動揺して揺れ動いている。


(100万人組んでくれる人がいたって――私は、アルトさんを選ぶんです!)


公衆の面前で。

数百名のエリート騎士団と、王立分隊長と、筆頭治癒師の目の前で。

特大の、これ以上ないほどド直球な愛の告白めいた全肯定を叩きつけられた孤高の剣士。


カァァァァァァッ……!


アルトの白い肌が、首筋から耳たぶの先まで、目に見えるほどの勢いで真っ赤に染まり始めた。


「アルトさん!」


そんなアルトの様子に気づくこともなく、エルシアは満面の笑顔で駆け寄ってきた。

そして、アルトの顔を覗き込みながら、とびきりの愛嬌で告げた。


「私の特等席は、世界で一番のアルトさんの隣だけですからね!」


「…………っ!!」


アルトの喉から、声にならない呻きが漏れた。

耳だけではない。頬も、首筋も、完全に林檎のように赤く染め上げた孤高の剣士は、たまらずサッと明後日の方向へと顔を背けた。


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