第26話 レオンハルトの猛スカウト
「……下がれ」
アルトが放った低く冷徹な警告に、救護広場の熱狂が一瞬で静まり返った。
長剣の柄に手を添えたまま、エルシアの前に立ちふさがる黒髪の剣士。
その灰色の瞳には、一切の妥協のない冷気が宿っていた。
だが。
レオンハルトは、引かなかった。
胸元の包帯を片手で押さえながら、その整った顔立ちに、どこまでも真剣で切実な光を宿してアルトを見据え返した。
「アルト殿、貴殿が彼女を守ろうとする気概はわかる。だが、いま私が話しているのは、我が国の未来についての話なのだ」
レオンハルトはアルトの鋭い視線を受け止めながら、半歩横へと歩み寄り、背後に立つエルシアへと真摯な碧眼を向けた。
「エルシア殿。改めて言わせてほしい。貴殿が先ほど見せた広域の循環調律、そして戦況を完全に掌握する手腕……あれは地方の冒険者ギルドに埋もれさせてよい器ではない。国家が総力を挙げて保護し、敬意を払うべき、唯一無二の至宝だ」
レオンハルトは懐から、黄金の鎖で封じられた豪奢な羊皮紙を取り出した。
王室の獅子紋章が刻まれた、騎士団の特権契約書。
「王立騎士団・遠征軍分隊長であるこのレオンハルトが、全責任を持って貴殿を推挙しよう。王都中央騎士団の『筆頭専属聖女』の地位を用意する。年俸は金貨五百枚、王都の一等地に豪邸を下賜し、さらに王室より名誉準貴族の爵位を授与させよう」
「き、金貨五百枚……!?」
「名誉貴族の爵位まで……!?」
周囲を取り囲んでいた騎士たちから、大きなどよめきが上がった。
地方の冒険者が一生かかっても稼げない天文学的な報酬。
平民が一夜にして貴族の列に加わり、王都の頂点で名誉に包まれて暮らすという、まさに最高峰の栄達だった。
「それだけではないぞ」
レオンハルトは真剣な声音で言葉を重ねた。
「貴殿の身の安全を生涯保障するため、騎士団直属の精鋭十名を『専属近衛小隊』として常に護衛に付けよう。これからは泥にまみれて魔物と命を削る必要などない。国家の手厚い庇護の下で、安全かつ優雅に、その類まれなる才を国のために振るってほしいのだ」
レオンハルトは両手で契約書を掲げ、エルシアへと差し出した。
私利私欲の強欲ではない。
ベヒーモスのような想定外の災厄に直面し、数百名の部下を失いかけた指揮官として、「二度と同じ惨劇を繰り返さないために、どうしてもこの異能が必要だ」という、切実な使命感から出た誠心誠意の口説きだった。
「……あの、レオンハルト様」
エルシアは困惑したように眉を寄せた。
「私は、ラディスの冒険者ギルドに所属する白魔導士です。それに……アルトさんと固定バディを組んでいますので」
「バディか」
レオンハルトは静かに息を吐いた。
そして、冷徹な指揮官の視線を、エルシアの前に立つアルトへと向けた。
「アルト殿。先ほどの貴殿の神速の刃、そして彼女を庇ったあの一撃……私の見立てが誤っていたことは素直に認めよう。貴殿の剣は、恐ろしいほどに研ぎ澄まされている」
レオンハルトは率直に認めた上で、痛いところを突く正論を投げかけた。
「だが……だからこそ問いたい。貴殿一人で、彼女の安全を一生背負い切れるのか? 今回のような規格外の災厄に直面した時、貴殿一人の剣で彼女を守り切れる保証がどこにあるのだ?」
「なっ……!」
エルシアの瞳に、鋭い色が走った。
だが、レオンハルトの言葉は止まらなかった。
「我が騎士団ならば、国家の総力、堅牢な城壁、そして十名の精鋭近衛小隊をもって、彼女を絶対に死なせない環境を用意できる。エルシア殿の才能は、日陰の冒険者として命を削るべきものではない。国家の至宝として、最も安全で最も尊ばれる場所で輝くべきなのだ」
「アルトさんは、私を危険に晒してなんていません! アルトさんは――」
エルシアが声を荒らげかけた、その時だった。
「……エルシア」
低く、押し殺したような声が、エルシアの言葉を遮った。
アルトだった。
背を向けたままのアルトの肩が、わずかに強張っていた。
その右拳は、白くなるほど強く握りしめられていた。
「……アルトさん?」
エルシアが息を呑む。
アルトの灰色の瞳は、地面の泥濘を見つめていた。
感情を殺した無表情の奥に、エルシアには視えていた。
彼の胸の奥で、長年凍りついていた孤独の痛みが、激しく疼いているのが。
(貴殿一人で、彼女の安全を一生背負い切れるのか)
レオンハルトの投げかけた言葉は、アルトがこれまで心のどこかで最も恐れ、自問自答し続けてきた問いそのものだった。
自分のような日陰の剣士と組んで泥にまみれているより、王都の光の当たる場所へ行った方が、エルシアにとって幸せなのではないか。
安全で、名誉に包まれ、誰からも讃えられる場所へ送り出してやるのが、相棒としての正しい選択なのではないか、と。
「……エルシア」
アルトはエルシアの方を振り返らなかった。
ただ、静かに、背中を向けたまま告げた。
「……選ぶのは、お前だ」
「え……?」
「金貨五百枚も、貴族の位も、近衛の護衛も……地方の冒険者では、決して手に入らないものだ。お前の腕なら、王都のどこへ行っても重宝される」
アルトの声には、震え一つなかった。
極めて平然とした、いつもの合理的なトーン。
だが、その背中からは、胸を締め付けられるような孤独と、不器用な自己犠牲の痛みが痛いほど滲み出ていた。
「……俺に、遠慮する必要はない。好きにしろ」
アルトの言葉に、レオンハルトが深く頷いた。
「アルト殿の言う通りだ。これこそが、貴殿の将来を真に案じた合理的な判断というものだ。さあ、エルシア殿。この羊皮紙にサインを。貴殿の輝かしい未来が、いまここで約束されるのだ」
レオンハルトは契約書をエルシアの前へと差し出した。
救護広場が、息を呑むような静寂に包まれた。
何百名もの騎士たちが、固唾を呑んでエルシアを見守っている。
金貨五百枚、貴族の爵位、豪華な王宮暮らし、そして十名の護衛小隊。
誰もが、断る理由など存在しないと確信していた。
だが。
エルシアの琥珀色の瞳は、差し出された黄金の契約書など、爪の先ほども見ていなかった。
彼女が見つめていたのは、ただ一つ。
自分の前で、寂しげに背中を向けたまま立っている、不器用な黒髪の剣士の姿だけだった。
(……アルトさん)
エルシアの胸の奥で、カチリと、何かが砕け散る音がした。
それは受付嬢として培ってきた愛想笑いでも、相手を立てるための謙譲でもなかった。
燃え上がるような、烈火の怒り。
そして、隣に立つ男への、愛おしくて堪らない、無限の敬愛。
(どうして……どうしてそんな寂しいことを言うんですか)
(私が……私が何のために、この短杖を握ってここまで走ってきたと思っているんですか……!)
エルシアは短杖を胸の前でぎゅっと握りしめた。
深く、息を吸い込む。
耳元の蒼銀石の髪飾りが、青く、烈しい光を放ち始めた。
「レオンハルト様」
エルシアが、静かに口を開いた。
その声は、広場の端まで澄み渡るほどに冷たく、そして凛としていた。
「サインなら――絶対に、いたしません」
エルシアが一歩、前へと踏み出した。




