第25話 ベヒーモス撃破
頭上から迫る、山のような影。
怒り狂ったベヒーモスの巨大な前脚が、黒霧を薙ぎ払いながら二人を叩き潰さんと振り下ろされていた。
視界は漆黒の瘴気に閉ざされ、敵の弱点を探査する光条の射線はどこにも通らない。
常識的な連携なら、ここで手詰まりとなり圧殺される。
だが。
「エルシア!」
アルトの鋭い呼気とともに、長剣が一閃した。
最短の直線を描いて振り抜かれる白銀の太刀筋。
それは敵を狙ったものではなかった。
自らの刃の軌道、その風切り音と澄んだ残響を、背後の少女へと届けるための軌跡。
(――視える!)
エルシアの琥珀色の瞳が見開かれた。
眼前の暗闇など関係なかった。
耳元で共鳴する蒼銀石、アルトの筋肉の収縮、踏み込みの圧力、そして空気を切り裂く刀身の震え。
何百時間、何千回と見つめ続けてきた、世界で一番大好きな剣士の軌道。
光を置いてから斬らせるのではない。
あの人の刃そのものを、光にすればいい!
「アルトさんの剣が――私の光です!!」
エルシアは短杖を両手で握り、自らの全魔力をアルトの刀身へと直接解き放った。
「――《調律・透徹共鳴》ッ!!」
カァァァァァァッッ!!
黒霧の闇を切り裂いて、眩い青白い光条が迸った。
アルトの長剣が、まるで神聖な光の刃のように青く、鋭利に輝き出す。
刀身そのものが調律の力を帯び、大気中の乱れた魔力循環を切り裂く特異点と化していた。
「……応!」
アルトが地を蹴った。
振り下ろされる巨脚のわずか数センチの隙間を、光の軌跡となって滑り抜ける。
黒霧が両断され、胸元で脈動する赤黒い主核が、刃の切っ先の前に剥き出しになった。
音すら置き去りにした、極限の一閃。
一切の力みを排し、ただ「切断の線」をなぞるだけの神速の刃が、主核の中心へと吸い込まれていく。
パキンッ――。
静寂の中、硬質な音が一つだけ響いた。
次の瞬間、ベヒーモスの巨大な主核に、一本の極細い光の亀裂が走った。
バヂィィィィィィィンッッ!!!!
閃光が炸裂した。
胸元から溢れ出した純白の調律光が、赤黒い瘴気を内側から一瞬にして浄化し、焼き尽くしていく。
「グ……オォォォォォォォォォォォォッッ……!!!!」
断末魔の絶叫が天を揺るがした。
三十メートルを超える巨躯が端から光の粒子となって崩落し、幻影のように霧散していく。
ドォォォォォンッ……!
地鳴りが止み、吹き荒れていた突風が凪いだ。
空を重く覆っていた濃紫の暗雲が押し流され、雲の切れ間から一条の黄金の陽光が地上へと差し込んだ。
静まり返った救護広場の中央。
舞い散る光の粒子の中で、アルトが静かに長剣の血糊を払い、サヤへと収めた。
カチリ。
鍔の噛み合う澄んだ音だけが、戦場に響き渡った。
「…………」
誰も、声を発することができなかった。
立ち上がった数百名のエリート騎士たちも、救護天幕の神官たちも、泥にまみれたソフィアも、へこんだ鎧を押さえるレオンハルトも。
全員が、まるで時を止められた彫像のように、広場の中央に立つ二人を呆然と見つめていた。
王国正規軍が総力を挙げても傷一つ負わせられず、壊滅に追い込まれた神話の災厄。
それが、たった二人。
地方都市からやってきたバディによって、傷一つ負うことなく討伐されたのだ。
「アルトさん!」
静寂を破ったのは、鈴の鳴るような明るい声だった。
エルシアが短杖を腰に差し、駆け寄ってきた。
その瞳は、陽光を受けてキラキラと輝いている。
「アルトさん、お疲れ様でした! 最後の共鳴の一閃、世界で一番かっこよかったです!」
エルシアは腰から水筒を外し、アルトへと差し出した。
中には、ラディスを出発する前に汲んでおいた冷たい清水が入っている。
「……ん」
アルトは短く頷き、水筒を受け取った。
無表情のまま喉を潤すその横顔には、国難を救った英雄の気負いなど微塵もない。
「……お前の光が乗ったからだ。礼を言う」
「えへへ、私の自慢の相棒ですから!」
エルシアが満面の笑顔を咲かせた――その瞬間だった。
ウオォォォォォォォォォォォォッッ!!!!
地鳴りのような大歓声が、爆発した。
「た、倒したぞーーーッ!!」
「ベヒーモスが消えた! あの化け物が討伐されたんだッ!!」
「勝った! 俺たちは生き残ったんだ!!」
騎士たちが兜を脱ぎ捨てて抱き合い、天へ剣を突き上げて叫んだ。
前線基地全体が、割れんばかりの熱狂の渦に呑み込まれていく。
「あの白魔導士の支援、見たか!? 俺たちの息の詰まりが一瞬で消えたぞ!」
「あんな神速の剣士、王国広しと言えども見たことがない……! 一体何者なんだ!?」
畏怖と敬愛の視線が、一斉に二人へと注がれる。
その歓声の波をかき分けるようにして、一人の女性が歩み寄ってきた。
純白の法衣を泥で汚した、王国筆頭治癒師ソフィアだった。
「……エルシア殿」
ソフィアの声は震えていた。
そこには先ほどまでの厳しい表情はなく、深い敬意と感謝が宿っていた。
「ソフィア様、お怪我はありませんか?」
エルシアが心配そうに尋ねると、ソフィアは胸元に手を当て、深く、深く頭を下げた。
「……申し訳ありませんでした。そして、心から……ありがとうございました」
ソフィアの目から、大粒の涙が零れ落ち、泥濘へと吸い込まれた。
「私は自らの知識と立場に慢心し、貴女を民間人だと遠ざけようとしました。ですが……貴女が施した循環の調律は、私が信じてきたどんな治癒魔術よりも、美しく、尊いものでした。貴女の技がなければ、私たちは全員命を落としていました」
ソフィアは顔を上げ、エルシアの手を震える手で包み込んだ。
「命を救っていただき、本当に、ありがとうございました」
エルシアは少し照れくさそうに頬を掻き、柔らかく微笑んだ。
「頭を上げてください、ソフィア様。ソフィア様が限界まで結界を張って皆さんを守ってくださっていたから、私たちも間に合ったんです。皆さんを助けられて、本当によかったです!」
どこまでも澄み切った、損得勘定のない笑顔。
その無垢な光に射抜かれ、ソフィアは息を呑み、さらに熱い敬愛の眼差しをエルシアに向けた。
そのとき。
「……見事な戦いだった。心より礼を言う」
重々しい足音とともに、部下の肩を借りた男が歩み寄ってきた。
包帯を胸元に巻き、ひしゃげた白銀の鎧を脱ぎ捨てた分隊長レオンハルトだった。
その金髪は乱れ、顔には激戦の疲労が色濃く残っていた。
だが、その碧眼に浮かんでいたのは、侮蔑でも見下しでもなく、強い切実さを秘めた真剣な光だった。
「レオンハルト卿……」
エルシアが振り返る。
レオンハルトは部下の手を離し、激痛に耐えながら背筋を伸ばしてエルシアを見据えた。
「エルシア殿。我が騎士団の壊滅を防ぎ、全軍の命を救ってくれた貴殿の手腕……しかとこの目で見届けた。……そして確信した。貴殿のその異能は、この国の未来を守るために、どうしても不可欠な至宝だ」
レオンハルトは真剣な声音で、一歩を踏み出した。
「我が王立騎士団に、是非とも貴殿を迎え入れたい。国家の総力を挙げた待遇を用意する。どうか、王都へ来てはくれないだろうか」
私利私欲ではない。数百名の部下を失いかけた指揮官としての、切実な願いだった。
だが。
スッ……。
その行く手を遮るように、無言で前に出た影があった。
アルトだった。
黒髪の剣士はエルシアを完全に背後に隠すように立ちふさがると、灰色の瞳でレオンハルトを冷たく見据えた。
「……下がれ」
低く、温度の一切ない警告。
その冷徹な威圧感に、レオンハルトの喉がヒュッと鳴って足が止まった。
災厄獣の討伐は終わった。
だが――二人の絆を試す、真の嵐が、いま幕を開けようとしていた。




