第24話 二人の突破口
チッチッ――と、エルシアの脳内で時間の針が刻まれていた。
ベヒーモスが吐き出そうとする赤黒い瘴気。
その吸気から排気へと切り替わる、わずかコンマ一秒の魔力の反転。
常人には知覚すらできないその極微の隙を、エルシアの琥珀色の瞳は逃さなかった。
「――いまです、アルトさん! 第三触手の根元、反転の結節点へ!」
エルシアが愛用の短杖を鋭く突き出した。
蒼銀石の髪飾りが眩い青光を放ち、収束された極細の光条――《調律治癒・透徹》が、大気を貫いて一直線に走る。
ピチュンッ――!
光条が、ベヒーモスの右前脚の付け根――第三触手の根元に潜む魔力結節点へ吸い込まれるように命中した。
バチバチッと激しい火花が散り、強固だった瘴気の力場が一瞬だけ歪み、無防備な結び目が露わになる。
そこへ。
「……捉えた」
空中で身を捻ったアルトが、すでに間合いへと到達していた。
一切の躊躇も、踏み込みのタメすらない。
エルシアが光を置いた座標へと、最短の軌道で細身の長剣が滑り込む。
スパァァァァンッッ!!!!
滑らかな肉を裂く音とともに、丸太のように太い瘴気触手が根本から両断された。
ボトッ! と地面に落ちた触手から、ドス黒い体液が噴き出す。
ギシャァァァァァァッッ!!!!
ベヒーモスが初めて、苦痛の絶叫を天へと響かせた。
触手を一本断たれたことで体内の循環バランスが崩れ、巨体が激しくよろめく。
「アルトさん、跳んで! 尾が薙ぎ払いに来ます!」
「……了解だ。お前の言う通りに跳ぶ」
エルシアの声と同時に、アルトは空中で巨体の甲殻を蹴り、無重力のように後方へと跳躍した。
そのわずか数センチ下を、空気を裂く漆黒の尾が猛スピードで薙ぎ払っていく。
敵の反撃を先読みしたエルシアの指示により、アルトの足は着地した瞬間から次の攻撃への初速を維持していた。
(よし……通じる! アルトさんの剣なら、絶対に斬れる!)
エルシアは確信とともに短杖を両手で握り直した。
だが、視界の端には、泥濘に倒れ伏す何百名もの騎士たちが映っていた。
広場に滞留する濃紫の瘴気を吸い続け、いまも呼吸を詰まらせて苦しんでいる。
「アルトさん、この人たちを救わせてください! このままじゃ、アルトさんが背後を気にせず思い切り走れません!」
「好きにしろ」
アルトは泥を滑るように間合いを保ちながら、短く応じた。
「……お前のやりたいようにやれ。背中は俺が預かる」
「はいっ! お任せください!」
エルシアは深く息を吸い込み、胸の中央に意識を集中させた。
耳元の蒼銀石が、彼女の心拍に呼応して澄んだ共鳴音を奏でる。
これまで培ってきた魔力循環のすべてを解放し、エルシアは短杖を天へと掲げた。
「――《調律・広域聖護》ッ!!」
カァァァァッ……!
エルシアの足元から、清らかな青白い光の波が、円環を描いて急速に広がっていった。
それは本陣全体を、吹き荒れる瘴気ごと包み込む、巨大な調律の結界。
ファァァァッ……!
光の波が通り抜けた瞬間、救護広場を覆っていたドス黒い瘴気霧が一瞬で霧散した。
それだけではない。
光を浴びた騎士たちの喉から、黒い澱みがスーッと抜け落ちていく。
「ごほっ……! あ、息が……通る……!?」
「胸の激痛が消えたぞ! 魔力が、ちゃんと身体を巡っている!」
「助かったのか……!? あの光は何だ!?」
血反吐を吐いて倒れていた騎士たちが、信じられない思いで次々と起き上がった。
広場に倒れていた数百名の兵士たちが、一斉に呼吸を取り戻したのだ。
「う、嘘でしょう……!?」
泥の中に座り込んだソフィアが、震える声で呟いた。
「広域の循環修復を、たった一撃で……!? 外傷を無理に塞ぐのではなく、大気と体内の魔力循環そのものを整えているの……!? 私たちが信じてきた治癒体系の外側に、こんな奇跡があるなんて……!」
「おい、見ろ! 前線だ!」
起き上がった騎士の一人が叫んだ。
「あの二人が……たった二人で、ベヒーモスを圧倒しているぞ!!」
エルシアは周囲の驚愕に構うことなく、全神経を前方へと集中させていた。
戦場のノイズは消え去った。
いま、この戦場には、彼女とアルトのテンポだけが支配している。
「アルトさん! 右旋回、第二、第四触手の循環が詰まります! 首筋の装甲の隙間に光を通します!」
「……合わせる。最短でいくぞ」
アルトの足が地を蹴った。
泥濘を滑るように疾走するその姿は、風そのものだった。
――世界から、あらゆる雑音が消え去っていた。
飛び散る泥の重さも、背後に迫る風圧も、自らの筋肉にかかる軋みすらも、今のアルトの意識には微塵も掠めない。
いつもなら全身を酷使して計算していた足場の凹凸も、敵の反撃の軌道も、ただの一滴すら気にする必要がなかった。
絶対の静寂。
ただ少女が置いた青白い光の点だけが、暗闇を貫くように鮮明に浮かび上がっている。
「アルトさん、踏み込みあと半歩! そこです!」
「……切る」
ヒュンッ! ピチュンッ――!
エルシアの光条が首筋の装甲の継ぎ目を貫き、循環の反転を固定する。
その刹那、アルトの刃が閃光となって滑り込んだ。
ズバァァァァンッ!!
ズバァァァァンッッ!!
「ギエェェェェェッ!?」
二本、三本と、ベヒーモスの背中に生える瘴気触手が、まるで剪定される小枝のように軽やかに切り落とされていく。
吹き出す瘴気は、エルシアが即座に放つ《小聖護》によって無力化され、アルトの衣の裾すら汚すことはない。
「ば、馬鹿な……我が騎士団の総力でも、傷一つつけられなかった怪物を……」
立ち上がったレオンハルトが、魂を抜かれたように呟いた。
「あの地味な最短の剣と……元受付嬢の指示だけで、完全に圧倒しているというのか……!?」
かつて「連携を乱す」と切り捨てられた男。
かつて「民間の入る領域ではない」と遠ざけられた少女。
二人が織りなすのは、何百人の軍勢を束ねても決して届かない、究極のバディの連携だった。
「アルトさん、世界で一番かっこいいです!」
「……余計な口を利くな。次の隙を寄越せ」
「ふふっ、もう準備できてますよ!」
エルシアは短杖を天高く掲げ、蒼銀石の髪飾りの全共鳴を引き出した。
ベヒーモスを覆っていた重装甲殻のすべての継ぎ目へ、網目のような青い光の糸が張り巡らされる。
「胸元の主装甲、結節点を短絡させます! そこが……心臓です!!」
カァァァァァァッッ!!
エルシアの調律が、ベヒーモスの最後の防御装甲を内側から弾けさせた。
バキバキバキッ! と音を立てて胸元の鉱石装甲が跳ね上がり、その奥から――ドクン、ドクンと赤黒い光を放ちながら脈動する、巨大な『主核』が剥き出しになった。
「グオォォォォォォォッッ!!!!」
逃げ場を失った災厄獣が、断末魔の咆哮を上げる。
アルトはすでに、その胸元へと向けて完璧な踏み込みを開始していた。
「……終わりだ」
静かな呟きとともに、刃が主核へと最短の直線を描く――はずだった。
その刹那だった。
ドス黒い光が、ベヒーモスの全身から逆流するように噴き上がった。
残された全魔力を注ぎ込んだ、断末魔の『反転瘴気波』。
バシュゥゥゥゥッ――!!
「っ……!?」
突如として巻き起こった濃密な黒霧が、空間全体の魔力循環をめちゃくちゃに乱反射させた。
エルシアの魔力探査が一瞬にして真っ黒に塗り潰される。
視界が塞がれ、光条の射線が完全に遮断された。
(しまっ……視えない!?)
さらに、濃霧の死角から、ベヒーモスの尾の先端に生えた不可視の瘴気刃が、音もなく背後のエルシアめがけて薙ぎ払われた。
防壁すら両断する必殺の奇襲。
アルトの刃なら、あとコンマ一秒で目の前の主核を貫ける。
最短を突いて主核を断てば、アルト自身の勝利は確定する。
背後の守りをすべてエルシアに委ね、自分はただ前だけを斬る――それが、二人が築き上げてきた完璧なシステムだった。
だが。
ザッ……!!
アルトは、踏み込んだ右足に強烈な急制動をかけた。
目の前に晒された無防備な主核を、自らの意志で完全に無視したのだ。
(アルト……さん……!?)
エルシアが息を呑んだ瞬間。
黒い旋風となって身を翻したアルトが、エルシアの目の前へと滑り込んでいた。
細身の長剣の腹を両手で支え、不可視の瘴気刃の軌道上へと割り込む。
ガギィィィィィィンッ!!!!
火花が闇を切り裂いた。
防壁をも断つはずの瘴気刃が、アルトの長剣によってミリ単位の狂いもなく弾き飛ばされた。
凄まじい衝撃波がアルトの腕を伝い、革鎧の肩口が弾け飛ぶ。
だが、その足は泥濘を噛み、一歩たりとも後ろへ引いていなかった。
「アルトさん……っ!? どうして……!?」
エルシアの声が震えた。
最短の攻撃を捨て、自らのシステムを壊してまで、自分を庇った。
「……背中を預けると言ったはずだ」
アルトはエルシアを背にかばったまま、低く、静かに告げた。
その灰色の瞳には、動揺など欠片もなかった。
「お前を死なせたら、俺が何のために剣を振っているのか分からないだろうが」
「……っ!」
エルシアの胸の奥が、熱く、激しく震えた。
完璧だったシステムが崩れたのではない。
互いを命がけで想い合うからこそ、二人はシステムを超えたのだ。
しかし、視界は依然として深い黒霧に閉ざされている。
そして頭上からは、怒り狂ったベヒーモスの巨大な前脚が、二人をまとめて叩き潰そうと振り下ろされようとしていた。
「アルトさん、前脚が来ます! でも……視界が真っ黒で、光が通りません!」
「構わん。……お前となら、どこからでも斬れる」
アルトは低く呟き、長剣を中段に構え直した。
「合わせろ、エルシア。……俺の太刀筋に、光を乗せろ!」
「――はいっ!!」




