第23話 崩れる戦線とソフィアの限界
阿鼻叫喚の怒号が、本陣前の中央広場を埋め尽くしていた。
第一防壁を突破された前線基地は、もはや軍隊としての機能を完全に失っていた。
逃げ惑う歩兵たち。
泥濘に足を取られ、折り重なるように倒れ伏す騎士たち。
彼らを追うように、濃紫の瘴気が地を這う毒蛇のように雪崩れ込んでくる。
その霧をひと吸いしただけで、兵士たちは喉を掻きむしり、白目を剥いて血反吐をぶちまけた。
「ソフィア様! 助けてください、息が……っ!」
「身体が、燃えるように熱い……! 魔力が暴走して止まらないんだッ!」
救護天幕の前に、数十名もの重傷者が運び込まれていた。
その中央で、王国筆頭治癒院のエリート治癒師ソフィアは、泥に膝をつきながら必死に聖杖を振るっていた。
「耐えて! いま、私が助けます! 『大聖光癒』ッ!!」
眩い神聖魔術の光が、倒れる騎士の胸元へと注ぎ込まれる。
だが、その光は皮膚の表面を撫でるだけで、暴走する体内の魔力脈には届かない。
それどころか、強引に注ぎ込まれた光の圧力によって、騎士の首筋の血管が青黒く跳ね上がり、破裂したように鮮血が吹き飛んだ。
「ひぎゃああああっ!!」
「そ、そんな……! 解毒陣よ、瘴気を払え! 『神聖なる浄化の光』ッ!!」
ソフィアは髪を振り乱し、必死に呪文を叫び続けた。
彼女の手指は激しく震え、純白の法衣は泥と返り血に塗れていた。
王都の治癒院で『神童』と称えられ、あらゆる負傷者をその莫大な魔力で救ってきた誇り。
命を守る責任を背負ってきた自負が、目の前で音を立てて崩れ去っていく。
「なぜ……!? なぜ私の治癒魔術が効かないの!? 傷は塞いでいるのに! 毒も洗い流しているはずなのに……っ!」
「ソフィア様、もうお止めください!」
助手の若い神官が泣き叫んだ。
「ソフィア様ご自身の魔力も、すでに限界を超えています! これ以上使えば、魔力枯渇で命が……!」
「黙りなさい! 私は筆頭治癒師なのよ! こんな最前線で、信じて戦ってくれた騎士たちを見殺しにできるわけがないでしょう!?」
ソフィアは助手を制し、泥濘の中に倒れ伏す男――レオンハルトの前へと這い寄った。
分隊長レオンハルトの白銀の鎧は無残にひしゃげ、口元からはドス黒い血が溢れ出ていた。
瞳の焦点は定まらず、かすかに喉を鳴らしているだけだった。
「レオンハルト卿! しっかりしてください! 『大聖光癒』ッ……!」
ソフィアの聖杖から、弱々しい光が漏れた。
だが次の瞬間、パリンッ! と甲高い音が響いた。
聖杖の先端の宝玉が、許容量を超えた負荷に耐えかねて粉々に砕け散ったのだ。
「あ……」
ソフィアの手から、聖杖が力なく滑り落ちた。
全身から急速に力が抜け、視界がぐるぐると回転する。
魔力枯渇――術者の体内に残された魔力がゼロになり、生命維持の循環すら止まりかける極限の虚脱状態。
「嘘……私の魔力が……空っぽ……?」
ドォォォォォォンッ――!!!!
絶望に打ちひしがれるソフィアの頭上を、凄まじい地響きが叩きのめした。
第二防壁の重厚な鉄門が、まるで羊皮紙のように内側へと吹き飛んだのだ。
舞い散る鉄片と木屑の向こうから、姿を現した漆黒の巨獣。
災厄級魔物、『霧瘴のベヒーモス』。
グルルルルルルルッ……!
背中の無数の触手から吹き出す濃紫の瘴気が、救護広場全体を逃げ場のない死の部屋へと変える。
逃げ遅れた兵士たちが次々と倒れ、動ける者は我先にと背中を向けて逃げ去っていく。
残されたのは、泥濘に倒れ伏す重傷者たちと、昏倒したレオンハルト。
そして、魔力切れで一歩も動けないソフィアだけだった。
山のように巨大な前脚が影を落とす。
ベヒーモスが冷酷な獣の瞳で見下ろし、丸太のような太い脚を高く持ち上げた。
踏み潰されれば、肉片すら残らない。
「誰か……誰か、助けて……っ!」
ソフィアは泥の中で身を縮こまらせ、ぎゅっと目を閉じた。
その時だった。
「アルトさん、前脚の付け根! 負荷集中点、右へ三寸!」
澄んだ、涼やかな声が、吹き荒れる瘴気の嵐を突き抜けて響いた。
ヒュンッ――!!
風が鳴った。
目を開けたソフィアの視界を、黒い閃光が横切った。
ガキィィィィィィンッ!!!!
鼓膜を破るような金属の激突音。
ベヒーモスの巨大な前脚の関節部分に、寸分の狂いもない最短の太刀筋が叩き込まれたのだ。
力で押し勝ったのではない。
前脚が振り下ろされる瞬間の、筋肉と魔力が最も軋む「極微の隙」を、針の穴を通すような精度で弾かれたのだ。
ズザザザザッ! と巨体が体勢を崩し、振り下ろされた前脚がソフィアのわずか数十センチ横の地面へと突き刺さる。
「な……っ!?」
ソフィアが呆然と目を見張った。
もうもうと立ち込める土煙の中に立っていたのは――飾り気のない細身の長剣を構えた、黒髪の剣士。
アルト・ヴァレイン。
彼が振るった刃には、大技の余韻も、無駄な残心すらもなかった。
すでに次の動作へと淀みなく移行し、ベヒーモスの薙ぎ払いを半歩の引き足だけで紙一重でかわしている。
「ソフィア様、大丈夫ですか?」
柔らかい手が、ソフィアの震える肩を優しく抱き起こした。
振り向くと、そこには――天幕で「民間の白魔導士が入る領域ではない」と厳しく遠ざけようとした少女、エルシアがいた。
エルシアの耳元で、蒼銀石の髪飾りが澄んだ青い光を放っている。
彼女は愛用の短杖をソフィアの胸元へかざすと、鈴の鳴るような声で紡いだ。
「――《調律・循環清浄》」
ファッ……と、温かな風がソフィアの全身を通り抜けた。
それは、ソフィアが知るいかなる神聖魔術とも違っていた。
力任せに傷を塞ぐ暴力的な光ではない。
喉の奥に詰まっていたドス黒い瘴気の塊が、まるで清らかな湧き水で洗い流されるように消え去っていく。
逆流して破裂しかけていた体内の魔力脈が、エルシアの柔らかな魔力に導かれ、本来の正しい流れへと整えられていく。
「ぁ……っ、息が……できる……!?」
ソフィアは信じられない思いで自分の喉に手を当てた。
肺の痛みが消え、吸い込んだ空気が全身の隅々まで染み渡る。
それだけではない。枯渇していたはずの魔力の泉が、呼吸が整ったことで自然と底から湧き上がり始めていた。
「な、に……これ……? 傷を塞いでいないのに……私の最高峰の治癒魔術ですら治せなかった魔力逆流が、どうして……!?」
ソフィアが戦慄の眼差しでエルシアを見上げる。
エルシアは、温かな笑顔を向けた。
「ソフィア様、深呼吸してくださいね。傷口を無理に塞いでも、息の通り道が塞がっていたら苦しいだけですから。……もう大丈夫ですよ」
エルシアはそう告げると、すぐ隣で倒れているレオンハルトの胸元へも短杖を向けた。
「《調律小聖護》――流れを戻して」
柔らかな光の波がレオンハルトを包み込む。
ひしゃげた甲冑の下で、激しく痙攣していたレオンハルトの身体から強張りが抜け、呼吸がスーッと穏やかなリズムを取り戻した。
「傷を塞ぐのではなく……生命の循環を解きほぐしているの……!?」
ソフィアの声が震えた。
自分たちが誇ってきた王都の治癒術とは、根本から次元が違う。
「私たちが信じてきた魔術体系の外側に……こんな救い方があったなんて……」
悔しさなどなかった。
ただただ、目の前の少女が施した至高の奇跡に、純粋な畏敬の念が魂を満たしていた。
グォォォォォォォォォッッ!!!!
立て直したベヒーモスが、怒りの咆哮を轟かせた。
背中の無数の触手が鎌首をもたげ、第二波の瘴気ブレスを放とうと、大気中の魔力を猛烈な勢いで吸い込み始める。
だが。
「アルトさん!」
エルシアが立ち上がり、戦場全体を俯瞰する凛とした声を響かせた。
その姿は、戦場のテンポを完全に掌握した、至高の司令塔。
「吸気の完了まで、あと二秒! 排気へ切り替わる瞬間に、右前脚の付け根――第三触手の根元に光を置きます!」
アルトは振り返りもせず、短く応じた。
「……任せる」
迷いなど微塵もない、絶対の信頼。
アルトの足元が爆ぜた。
無駄を極限まで削ぎ落とした神速の初速。
黒髪の剣士は、死の瘴気が渦巻く災厄の懐へと、一直線に跳躍した。




