第22話 災厄級魔物「霧瘴のベヒーモス」
ドォォォォォォンッ――!!!!
第一防壁を揺るがす地響きとともに、腐緑の魔境の巨木群がなぎ倒される破壊音が轟いた。
樹齢数百年を数える大木が枯れ枝のようにへし折られ、舞い上がった土煙が濃紫の毒霧と混ざり合って空を暗黒に染めていく。
「総員、散開するな! 第一防壁の前面に大陣形を展開せよ!」
レオンハルトの鋭い号令が、前線基地の動揺を切り裂いた。
彼が纏う白銀の甲冑は、突風を受けながらも燦然と輝いている。
百名を超える王立騎士団の精鋭たちが、一糸乱れぬ足並みで防壁の外へと展開していく。
「大盾を噛み合わせろ! 『白銀のファランクス』を敷け!」
ガギィィィンッ! と鋼鉄の噛み合う音が重なり、白銀の大盾が隙間なく連なる鉄壁が組み上がった。
大盾の隙間からは数メートルに及ぶ長槍の穂先が無数に突き出され、後方では魔導士部隊が属性結界の詠唱を開始する。
「……見事な陣形ですね」
第二防壁の内側、後方詰所からその光景を見つめながらエルシアが呟いた。
だが、その声に歓嘆の色はない。
琥珀色の瞳は、頭上から降り注ぐ「大気の異様な歪み」を捉えていた。
「形だけはな」
アルトが短く言った。
黒髪の剣士は長剣の柄に右手を掛け、泥濘の上に静かに立っている。
その灰色の瞳は、整然たる騎士たちを通り越し、霧の奥に蠢く脅威の核を冷徹に見定めていた。
前線へ向かう直前のレオンハルトが、馬首を巡らせて二人へ鋭い視線を投げかけた。
「貴殿らは民間人だ! 王立騎士団の盾がある限り、一歩も通させはせん! 第二防壁の中で待機し、決して前へ出るな!」
大軍を率いる指揮官としての誇りと責任感を叫び、レオンハルトは前線の中央へと馬を疾駆させた。
その刹那だった。
ズゥゥゥゥゥゥンッ――!!
魔境の霧を突き破り、大地を踏み砕いて現れたのは――まさに神話の災厄だった。
体長三十メートルを超える、漆黒の巨大な獣。
四肢は太い大樹のように頑強で、背中には幾重にも折り重なる鉱石質の重装甲殻を背負っている。
その甲殻の継ぎ目から無数に生え出る紫黒色の触手から、間断なく赤紫色の濃密な霧――精神を狂わせる古代の瘴気が噴き出していた。
災厄級魔物、『霧瘴のベヒーモス』。
グルルルルルルッ……!
地底から響くような低鳴が轟いた瞬間、空気が質量を持って圧し掛かってきた。
(……大気の魔力バランスそのものを引き裂いてる……!)
エルシアの額に冷たい汗が滲む。
ベヒーモスが纏っているのは単なる毒気ではない。
生物が体内に持つ固有の魔力循環を強引に逆流させ、自らの魔力で内側から自壊させる超広域の古代呪詛だった。
「ひるむなッ!」
レオンハルトが大音声で叫んだ。
「魔導士部隊、神聖光壁を展開! 前衛、衝撃に備えろッ!」
長槍から聖なる光が立ち昇り、大盾の前面に幾重もの防御結界が張られた。
物理的な激突なら山が崩れても耐えうる完璧な守り。
だが。
グォォォォォォォォォォォォッッ!!!!
ベヒーモスが耳を劈く咆哮を放った。
甲殻から吹き出す濃紫の霧が爆発的な衝撃波となって放射され、前線基地全体を飲み込む。
ドォォォォッ!!
「ぐ、うわぁぁぁぁっ!?」
防御結界は何一つ砕かれていなかった。
だが――結界の内側にいた騎士たちが、突如として武器を取り落とし、次々と膝をついた。
「が……っ、息が……っ!?」
「魔力が……身体の中で暴れて……ぎゃあああっ!」
白銀の大盾の隙間から、騎士たちが血反吐を吐いて崩れ落ちていく。
結界をすり抜けた極微細な瘴気粒子が、肺胞に入り込み、騎士たちの魔力循環を内側から逆流させたのだ。
「な、なんだこれは……!? 陣形を崩すな! 耐えろ、耐えるのだ!」
レオンハルトの叫びも虚しく、鉄壁のファランクスは内側から自壊した。
「私が治します! 退いてください!」
純白の法衣を翻し、筆頭治癒師ソフィアが前線へと駆け込んできた。
豪奢な聖杖を大地に突き立て、莫大な神聖魔力を解放する。
「大聖光癒! 清浄なる光よ、我が騎士たちを救いたまえ!」
眩い神聖光が騎士たちを包み込む。
普段の戦場であれば、百人の致命傷すら一瞬で塞ぐ王国最高峰の神聖魔術。
皮膚の爛れや吐血といった外傷は、光を浴びてみるみる塞がっていった。
「よし、傷は塞がった! 立ちなさい!」
ソフィアが必死に叫ぶ。
だが、起き上がろうとした騎士は激しく痙攣し、再び地面へと倒れ伏した。
「な……!? な、ぜ……!?」
ソフィアが息を呑んだ。
「傷は治したはずよ!? 毒も中和したのに……なぜ呼吸が戻らないの!?」
「ソフィア様、駄目です! 体内の魔力脈が逆流したまま暴走しています!」
助手の神官が悲鳴を上げた。
「そんな……! 大聖光癒! 大聖光癒ッ!!」
ソフィアは髪を振り乱し、聖杖からさらに強い光を注ぎ込み続ける。
だが、傷口を外から塞ぐだけの癒着魔術は、逆流して膨れ上がった魔力脈に外側から高圧の魔力を注ぎ込む自殺行為だった。
耐えきれず、騎士の腕の血管が弾け、鮮血が噴き出す。
「いやぁぁっ……!?」
ソフィアがその場にへたり込みそうになりながら、血が出るほど唇を噛み締めた。
「なぜ……なぜ効かないの……!? 私の魔法では……彼らを救えないというの……!?」
大粒の涙が、その青白い頬を伝い落ちた。
エリートとしてのプライドではない。救うべき仲間を救えない自らの無力さに、魂が引き裂かれていた。
「……駄目だわ。力技で魔力を注いじゃいけない。大気と身体の巡りを解きほぐさなきゃ……!」
第二防壁の上から見つめていたエルシアが、痛ましそうに短杖を握りしめた。
エルシアの瞳には、はっきりと視えていた。
騎士たちの肺の通り道が、瘴気の結節によって縛り上げられていること。
そして――。
(……あの魔物、甲殻で魔力を吸い込んで、触手から毒に変えて吐き出してる。吸気と排気のサイクルが、三秒ごとに切り替わってるんだわ……!)
触手の根元――瘴気が圧縮される直前の結び目だけは、循環の切り替わりの瞬間に隙を晒している。
ドガァァァァァァンッッ!!!!
ベヒーモスの巨大な前脚が、無人となった第一防壁を薙ぎ払った。
厚い丸太組みの防壁が粉々に砕け散る。
「化け物め……ッ! 我が騎士たちにこれ以上触れさせはせん!」
レオンハルトが気迫の叫びとともに跳躍した。
白銀の鎧から黄金の闘気を噴き上げ、王立騎士団の秘剣を一閃させる。
「王閃・断頭刃ッ!!」
完璧なフォームの一撃が、ベヒーモスの首元へと振り下ろされた。
だが。
キィィィィィンッ――!!
高密度の瘴気力場に弾かれ、剣は表皮に傷一つつけられない。
「なっ……通じないだと!?」
レオンハルトが目を見張った刹那、漆黒の尾が横薙ぎに迫った。
ドパァァァンッ!!
「ぐはぁっ……!!」
鎧ごと吹き飛ばされたレオンハルトが泥濘を転がり、天幕の支柱に激突して止まった。鎧はへこみ、愛剣が手から滑り落ちる。
「ぶ、分隊長閣下ーーッ!!」
「退却だ! 本陣へ退却しろ!」
第一防壁は完全崩壊。
エリート部隊が壊滅し、ベヒーモスは第二防壁の本陣へと前進を再開する。
絶望が戦場を呑み込んでいた。
だが。
「……エルシア」
極めて平穏な声がエルシアの耳に届いた。
隣を見上げると、アルトが静かに長剣の鯉口を切っていた。
その灰色の瞳には、動揺も恐怖も微塵もない。
「……解けるか」
あの硬い装甲を、あの吹き荒れる猛毒の嵐を、エルシアの調律で解きほぐせるか。
エルシアは胸に手を当て、深く息を吸い込んだ。
蒼銀石の髪飾りが、呼吸に合わせて青く煌めく。
「はい、アルトさん」
エルシアは、まっすぐにアルトを見つめ返した。
顔には怯えなど欠片もなく、あるのは隣の剣士への絶対の確信と眩しい笑顔。
「あの魔物の呼吸の隙間も、毒の通り道も……私には、全部視えています!」
アルトの薄い唇の端が、ほんのわずかに、誇らしげに吊り上がった。
「……なら、行くぞ」
「はいっ!」
逃げ惑う騎士たちの波を逆断ち、二人は並び立って前へ歩み出た。
絶望に沈む戦場の中央へ、地方の奇跡のバディが、いま静かに介入しようとしていた。




