第21話 王立騎士団の洗礼
重厚な鉄の門扉を抜けた瞬間、エルシアの肌を刺したのは、研ぎ澄まされた冷気と濃密な緊張感だった。
王都南東、旧王領。
かつて豊かな穀倉地帯だったそこはいま、猛毒と精神を狂わせる霧に覆われた死地――『腐緑の魔境』へと変貌していた。
境界の最前線基地には、無数の白銀の天幕が整然と立ち並び、純白のサーコートを纏った正規騎士たちが行き交っている。
「……すごいですね」
エルシアは思わず息を呑んだ。
天幕の頂には王室直属を示す金糸の獅子紋章が翻り、整列する長槍は一点の曇りもなく輝いている。名誉と軍規を体現した威圧感だった。
だが、行き交う兵士たちの顔には隠しようもない疲労と焦燥が張り付いていた。
担架で運ばれる負傷者たちは、目立った外傷がないにもかかわらず、胸元を掻きむしり激しく痙攣している。
(……呼吸が、浅くて酷く濁ってる)
大気中に混ざる濃紫の瘴気が、体内の魔力脈を内側から逆流させ、呼吸の通り道を塞いでいるのだ。
「エルシア」
低く無駄のない声が降ってきた。
隣に立つ黒髪の剣士――アルトが、いつもの無表情で見下ろしている。
「……突っ立っているな。足元が泥で滑るぞ」
「あ、はい! すみません、アルトさん」
アルトは長剣の柄に手を添えたまま、歩幅をエルシアに合わせていた。
着慣れた黒の革鎧に細身の長剣。飾り帯すらない質素な姿だが、泥濘を踏みしめる足取りには一切のブレがない。
中央の巨大な天幕へ向かうと、警護の歩兵が槍を交差させた。
「止まれ! 遠征軍総指揮所である!」
「王立騎士団第三分隊長・レオンハルト卿からの特命招集状を受領し、参上いたしました。《ルミナ・ヴァレイン》のエルシア・ルミナ、ならびにアルト・ヴァレインです」
紫の封蝋が施された羊皮紙を提示すると、兵士たちは目を見張り、槍を引いた。
「……入れ。分隊長閣下がお待ちだ」
天幕内には、張り詰めた静寂が広がっていた。
立体地図を囲む上級騎士たちの上座に、腕を組み佇む男がいた。
波打つ金髪に切れ長の碧眼。白銀の全身鎧を纏った遠征軍分隊長、レオンハルト卿。
そしてその隣には、純白の法衣に豪奢な聖杖を携えた怜悧な女性――王国筆頭治癒院のエリート治癒師、ソフィアが控えていた。
「ラディスからの招集冒険者、到着いたしました!」
兵士の声に、レオンハルトが鋭い視線を向けた。
アルトの擦り切れた革装備と質素な長剣を一瞥し、低く威厳のある声で口を開く。
「……貴殿らが《ルミナ・ヴァレイン》か。東街道のゴーレムを退けた報告は聞いている。だが……アルト・ヴァレイン殿。貴殿の太刀筋の噂もまた耳に届いているぞ」
レオンハルトは冷徹な指揮官の瞳でアルトを射抜いた。
「極限の神速、他者との連携を介さない単騎強襲――かつて所属パーティで『連携を乱す』と拒絶されたそうだな」
侮蔑ではない。数百名の部下を預かる指揮官としての、シビアな合理的評価だった。
「我が騎士団が重んじるのは厳格な軍規と統率、そして全員が呼吸を一つにする『白銀のファランクス』だ。個の速度で戦列を突出する剣士は、どれほど腕が立とうと大軍の陣形に致命的な穴を空けるリスクにしかならん。……貴殿に前線は任せられない」
「卿」
アルトが短く口を開いた。反論も弁解もない、ただ冷徹な声音だった。
「……用件を言え。太刀筋の講釈を聞きに来たわけではない」
「なっ……分隊長閣下に向かって無礼な!」
側近が色めき立ったが、レオンハルトが手で制した。
「構わん。実力者の自負だろう。だが戦場では規律がすべてだ」
そのとき、隣のソフィアが怜悧な瞳をエルシアへと向けた。
そこには嘲笑ではなく、惨状を知る専門家としての重い危機感が宿っていた。
「エルシア殿。この戦場を軽々しく考えないでいただきたい。現在発生しているのは古代の瘴気による急性魔力不全……体内の魔力循環を反転させる呪詛です。生半可な治癒術を施せば、注ぎ込んだ魔力ごと暴走し、患者の血管を破裂させます」
ソフィアは天幕の外、苦悶する負傷者たちを見据えて言った。
「私ども筆頭治癒院が『大聖光癒』の防壁を三重に張り巡らせ、総力で死線を繋ぎ止めているのです。民間の白魔導士が安易に立ち入っていい領域ではありません。……貴女の役割は後方での負傷者搬送です。安静の確保に専念しなさい」
一切の妥協のない宣告。
軍の規律と最高峰の神聖魔術の前に、地方の冒険者が入る余地はないという判断だった。
アルトの肩がわずかに強張る。かつて「お前とは合わせられない」と切り捨てられた過去が疼いたように見えた。
だが。
「ふふっ」
澄んだ笑い声が、天幕の空気を塗り替えた。
エルシアは両手を胸の前で合わせ、満面の笑顔を浮かべていた。
「ソフィア様、厳しいご忠告をありがとうございます! 皆さんの命を背負って必死に防波堤を守っていらっしゃるんですね」
「え……? あ、ええ。当然の責務ですけれど……」
思いがけない素直な感謝に、ソフィアが気圧される。
エルシアはくるりとアルトを振り返った。その瞳は誇らしげに輝いていた。
「でも、レオンハルト様。アルトさんの剣を『戦線を乱すリスク』だなんて、とってももったいないです! アルトさんの剣はですね、誰の邪魔もしませんし、無駄が一切なくて、誰よりも速くて世界で一番かっこいいんです! 息をするのを忘れるくらい凄いんですよ!」
「なっ……何を馬鹿な……!」
「アルトさんは、守られるために戦う人じゃありません。戦いが始まれば、きっと皆さん腰を抜かします! その時は驚きすぎて呼吸を乱さないよう気をつけてくださいね。乱れた呼吸は、私が全部《調律》して差し上げますから!」
エリートたちの前で放たれた、眩しいほどの全肯定。
「……おい」
アルトがたまらずエルシアの肩を小突いた。その耳たぶはわずかに赤く染まっている。
「……余計な大口を叩くな。恥ずかしい奴だ」
「大口じゃありません、本当のことですから!」
「……好きにしろ」
アルトは視線を逸らしたが、その立ち位置はエルシアを庇うように半歩前にずらされていた。不器用な彼なりの盾だった。
レオンハルトは息を吐き、首を振った。
「……呆れた自信だな。だが戦場は結果がすべてだ。貴殿らは後方詰所、第二防壁の内側に控えよ。軍命なしに前へ出るな!」
「承知いたしました!」
天幕を出ると、肌寒い風が吹き抜けていた。
「アルトさん、大丈夫ですか? またあんなこと言われて……」
「……気にするな。大軍を率いる指揮官としては至極真っ当な判断だ」
アルトは静かに言った。
「ただ……俺の太刀筋は、あいつらの陣形に合わせるためにあるんじゃない。……お前が前を拓くなら、俺は最短を斬るだけだ」
「はいっ! 世界一の剣、見せつけてやりましょうね!」
二人が頷き合った――その瞬間だった。
ズズズズズズズッ――――!!!!
大地の底から、内臓を鷲掴みにするような重低音が轟いた。前線基地の巨大な木製防壁が軋む。
グォォォォォォォォォォォォッッ!!!!
魔境の深奥から、天を衝くおぞましい咆哮。
精神を濁らせる濃密な魔力毒が突風となって吹き荒れた。
カンカンカンカンカンッ――!!!!
半鐘が狂ったように乱打される。
「て、敵襲ーーーッ!!」
「腐緑の魔境より超巨大魔力反応!! 災厄級魔物『霧瘴のベヒーモス』、前進を開始しましたーーッ!!」
悲痛な絶叫が響き渡る。
濃紫の霧の向こうから、山のように巨大な影が這い出てくる。
天幕から、険しい顔のレオンハルトとソフィアが飛び出してきた。
「総員、迎撃陣形をとれッ! 第一防壁にて『白銀のファランクス』を展開!」
「治癒班、大聖光癒の防護結界を最大展開! 魔力脈を死守しなさい!」
怒号が渦巻く中、エルシアとアルトは静かにその巨影を見据えていた。
アルトの手が音もなく長剣の柄へと掛かる。
エルシアは蒼銀石の髪飾りに触れ、短杖を両手で握りしめた。
「……アルトさん」
「ああ」
灰色の瞳に宿る、研ぎ澄まされた刃の輝き。
二人の戦いが、いま始まろうとしていた。




