第19話 街の噂と広がる名声
朝の冒険者ギルド《白梟の止まり木》の扉を開けた瞬間、心地よい熱気と喧騒がエルシアの耳を包んだ。
「おい、見たかよ今朝のギルド掲示板!」
「ああ、中央の特級討伐枠、剛岩のゴーレムの紙に『達成済』の朱印がドカンと押されてたぞ!」
「それだけじゃねえ! 一昨日の『緑樹の竪穴』でオオツチグモの群れを一瞬で両断して、中堅パーティを無傷で救出したのもあいつらだろ!?」
酒場のあちこちから聞こえてくるのは、一つのパーティの名前だった。
固定パーティ《ルミナ・ヴァレイン》。
かつては「連携の取れない欠陥剣士」と恐れられ、孤立していたアルト・ヴァレイン。
そして、「愛想の良い元受付嬢」と見なされていたエルシア・ルミナ。
その二人が組んだ途端、街中の熟練冒険者が束になっても敵わなかった難関案件が、まるで手品のように次々と無傷で完封されていく。
「欠陥剣士なんて言ってた奴、今すぐ土下座しろよな」
大剣を背負ったリックが、エールのジョッキを傾けながらしみじみと呟いた。
「アルトのあの神速の剣はよ、動きが地味なんじゃない。無駄が一切ねえから、俺たち凡人には速すぎて見えなかっただけなんだ」
「そうよ」
隣で術士のマリーナが、自慢げに眼鏡を押し上げた。
「そして、その超高速の太刀筋を完全に理解して、後ろから秒単位で戦況を支配してるエルシアちゃんがいるからこそ、あの剣は真価を発揮できるのよ。まさに奇跡のバディだわ」
酒場中の冒険者たちが、深く頷き合っている。
手のひらを返したような称賛。だがそこには、かつての嘲笑や誤解は微塵もなく、純粋な敬意と憧れだけが満ちていた。
「おはようございます、皆さん!」
鈴を転がすような明るい声とともに、エルシアが酒場へと足を踏み入れた。
純白の軽装神聖衣の裾を揺らし、金髪の左側には朝の光を浴びて蒼く輝く『蒼銀石の髪飾り』。
そしてその半歩後ろを、黒革の鎧を纏ったアルトが、いつもの無愛想な面持ちで静かに歩いてくる。
二人の胸元には、お揃いの銀のバディプレートが誇らしげに光っていた。
「あ、エルシアちゃん! アルトさん!」
「おはよう、ラディス最強バディ!」
冒険者たちが一斉に笑顔で手を挙げる。
エルシアは満面の笑みでペこりと頭を下げながら、カウンターへと歩み寄った。
アルトは周囲の親しげな視線に居心地悪そうに眉をひそめつつも、軽く顎を引いて会釈を返した。
カウンターの奥で待っていたのは、先輩受付嬢のミレナだった。
ミレナは長い黒髪をかき上げ、口元にいたずらっぽい笑みを浮かべると、ドンッ! と音を立てて分厚い羊皮紙の束をカウンターに置いた。
「はいこれ、今日の分。《ルミナ・ヴァレイン》宛ての直接指名依頼よ」
「ええっ!?」
エルシアが目を丸くした。
「こ、こんなにたくさんあるんですか!?」
「ええ、昨日の倍はあるわね」
ミレナが指先で束をトントンと叩く。
「近隣都市の豪商からの専属護送依頼、鉱山都市からの古代坑道調査、さらには地方貴族からの変異種討伐要請……ラディスだけじゃなく、東方諸都市の商人や領主から名指しで届いてるわよ」
「すごい……!」
エルシアは目を輝かせながら依頼書を眺めた。
だが、アルトは横から冷ややかに視線を落とし、低く呟いた。
「……全部断れ」
「ええっ、アルトさん!?」
エルシアが振り返ると、アルトは腕を組み、平然と言い放った。
「遠征は移動に時間を食う。金目当ての貴族の護衛など、無駄な社交に付き合わされるだけだ。……俺たちは、この街の近郊の魔物を狩るだけでいい」
どこまでも合理的で、名誉や富に一切執着しない孤高のスタンス。
ミレナは思わず吹き出した。
「ふふっ、相変わらず無欲ね、アルト。でもね、商隊の間じゃ『ラディスに奇跡のバディあり』って、すでに王都の耳目にまで届き始めているわよ」
王都――。
その単語が出た瞬間、アルトの灰色の瞳が、わずかに鋭く細められたのをエルシアは見逃さなかった。
そこへ、奥の執務室からドノヴァンが悠然と姿を現した。
「おう、お前ら。街の英雄様のお出ましだな」
ドノヴァンは豪快に笑いながら、アルトの肩を叩いた。
「街道の物流が完全に戻って、街の商人連中が涙流して喜んでたぞ。お前ら二人の名声は、もうラディス一帯で知らねえ奴はいねえくらいだ」
「ギルドマスター、大げさですよ」
エルシアが恐縮して手を振ると、ドノヴァンはニヤリと歯を見せた。
「大げさなもんかい。……おい、カイル! お前、さっきからモジモジしてねえで、言いたいことがあるなら言ったらどうだ!」
ドノヴァンに背中をドカンと叩かれ、双剣使いのカイルが、顔を真っ赤にしながらアルトの前へと進み出てきた。
普段のお調子者の態度は消え失せ、緊張で直立不動になっている。
「あ、あの……アルトさん!」
「……何だ」
アルトが怪訝そうに見つめる。
カイルは深々と頭を下げた。
「あの……! もし迷惑でなければ……今度、双剣の間合いの詰め方を教えていただけないでしょうか!?」
酒場中が、固唾を呑んで見守った。
かつては「あいつに近づくな」と誰もが恐れていたアルトに、若手冒険者が教えを乞うているのだ。
アルトは一瞬だけ目を瞬かせ、どう返すべきか困惑したように視線を泳がせた。
言葉に詰まるアルトの横で、エルシアが嬉しそうに身を乗り出した。
「アルトさん! カイルさん、ずっとアルトさんの足さばきに見惚れてたんですよ! アルトさんの剣は世界一ですから、教えてあげてください!」
満面の笑顔の全肯定。
エルシアに背中を押されたアルトは、観念したように小さくため息をつき、カイルへと視線を戻した。
「……お前は、踏み込みの瞬間に無駄な溜めがある」
「えっ……!?」
「抜刀と同時に跳ぶな。最初の一歩で間合いを半歩盗み、敵が腕を引いた瞬間に重心を前に倒せ。そうすれば、手数を増やさずとも最短で首に刃が届く」
極めて簡潔、だが一撃必殺を極めた男にしか語れない、究極の合理論。
カイルの目がカッと見開かれた。
「す、すげえ……! なるほど、溜めをなくすのか……! ありがとうございます、アルトさん!!」
カイルは感激に打ち震えながら、何度も頭を下げて仲間たちの元へと戻っていった。
周囲の冒険者たちからも、「おお……!」「さすがSランクだ!」と感嘆の声が漏れる。
アルトは居心地悪そうに耳を赤く染めながら、小さく呟いた。
「……余計なことを言わせるな」
「ふふっ、アルトさん、すごく教えるの上手ですよ!」
エルシアは誇らしそうに笑った。
かつて、誰からも理解されず、一人で孤独に刃を研ぎ澄ませていたアルト。
そのアルトが、いまや街の若者たちから憧れられ、敬意を払われている。
世界が、アルトの本当の優しさと強さに気づき始めていた。
昼下がりの依頼を終え、夕暮れ時。
二人はギルドの二階にある開放的なテラス席に並んで立っていた。
茜色の夕日が、ラディスの街並みを美しく染め上げている。
心地よい夕風が、二人の髪を柔らかく撫でていく。
エルシアは街を見下ろしながら、ぽつりと呟いた。
「アルトさん。みんな、アルトさんの凄さに気づいてくれましたね」
アルトは手すりに両手を置き、遠くの夕日を見つめたまま、静かに口を開いた。
「……お前がいたからだ」
「え?」
アルトはエルシアを見ることなく、低く、噛み締めるように言った。
「俺一人の時は、誰も耳を貸さなかった。お前が隣で肯定し、俺の剣を信じてくれたから……他人も、俺の剣を見るようになった。それだけだ」
エルシアの胸に、じんわりと温かい熱が広がっていく。
互いが互いを必要とし、互いが互いを高め合っている。
この人の隣に立てる相棒になれて、本当によかった――そう心から思えた。
だが、その時だった。
ダダダダダッ――!!
静かな夕暮れの空気を切り裂いて、東の大通りから猛烈な馬蹄の轟音が響いてきた。
「……何だ?」
アルトが即座に眉をひそめ、街道の先を凝視した。
砂煙を巻き上げながら、ラディスの正門を突破してギルドへと一直線に疾走してくる一騎の早馬。
泡を吹く軍馬に跨がっているのは、豪奢な白銀の甲冑を纏った使者だった。
その翻る外套の中央には、ラディスの地方ギルドのものではない――王冠と双剣を模した、燦然と輝く『王立騎士団』の紋章が刻まれていた。
「王立騎士団の……早馬……!?」
エルシアが息を呑む。
非常事態を告げる早馬の出現に、夕暮れの街が一瞬で不穏なざわめきに包まれていく。
二人の輝かしい日常に、王都からの巨大な波乱の影が、すぐそこまで迫っていた。




