『分からないまま、残す』
思い出せない。
分からない。
それが何かも、どうして残っているのかも。
それでも――
消していいとは思えなかった。
切除は、完了しない。
外に引き出された感情は、まだ浮いている。
だが、完全には切り離されていない。
ネリネの内側に、わずかな“引っかかり”が残る。
空ではない。
だが、満ちてもいない。
中途半端な状態。
アガリアレプトの処理が、そこに収まらない。
「統合不能」
「切除対象」
判断は変わらない。
だが、実行が遅れる。
ネリネは立っている。
クチナシの手が触れている。
その接触だけが、位置を固定している。
意味は伴わない。
記憶もない。
名前も、声も、温度も繋がらない。
それでも。
涙が落ちる。
理由がない。
原因も分からない。
感情として認識できない。
それでも、出る。
ネリネは、自分の頬に触れる。
濡れている。
それが何か、分からない。
「……分からない」
言葉にする。
理解できない状態を、そのまま肯定する。
一拍。
「でも、嫌」
否定。
理由のない拒否。
消されることへの抵抗。
なかったことにされることへの拒否。
説明はできない。
それでも、“それだけは違う”と分かる。
ネリネの中で、基準が再構築される。
思い出す方向ではない。
空になる方向でもない。
“分からないまま持つ”という選択。
曖昧なまま、残す。
それが成立する。
外に浮かんでいた感情が、わずかに揺れる。
引力が戻る。
完全には戻らない。
だが、完全にも離れない。
中間の位置で、固定される。
アガリアレプトの処理が止まる。
「……不安定」
「状態が定義に一致しない」
分類が崩れる。
切除対象でありながら、維持される。
矛盾。
処置が通らない。
その様子を、少し離れた位置でムルムルが見ている。
「ケケケ……やっぱりそうなるよねぇ」
軽い声。
楽しんでいるわけでも、止めるわけでもない。
ただ“面白い継ぎ目”を見ているだけの温度。
「壊しきれないやつは、だいたい残るんだよねぇ」
ナベリウスが顔をしかめる。
「お前それ今言うことかよ……!」
だが声は小さい。
前に出る気はない。
ヴァレフォルはクチナシたちから少し後ろで、ぎりぎり離れずにいる。
「ひっ……でも、で、でも……」
逃げたい。
だが離れたくもない。
その位置で固まっている。
前線。
アスモデウスはネリネの隣にいる。
何も言わない。
だが、離れない。
ネリネは、彼を見る。
理解はできない。
完全には受け入れられない。
それでも。
“ここにいる”という事実だけは認識できる。
それでいい。
それ以上は、今は要らない。
クチナシの手が、まだある。
意味が分からなくても。
その接触だけは、確かにある。
ネリネの指が、わずかに動く。
今度は、少しだけ返る。
弱い。
だが、確実に。
“自分の意思”として動く。
空ではない。
完全に失われてはいない。
ヘルハウンドが、その様子を横目で見る。
何も言わない。
だが、位置は変えない。
アガリアレプトへ圧をかけ続ける。
処置を“通させない”位置取り。
アガリアレプトが、再び杖を上げる。
処置を続けようとする。
だが。
対象が定義できない。
記憶ではない。
完全な感情でもない。
消失でもない。
“分からないまま残っているもの”。
それが、処理を拒む。
ムルムルが、ぽつりと呟く。
「ケケ……それ、一番めんどくさいやつだねぇ」
ナベリウスが即座に返す。
「知ってるよ!見りゃ分かるわ!」
空間が、わずかに軋む。
処理系そのものに負荷がかかっている。
ネリネは、立っている。
不完全なまま。
曖昧なまま。
それでも。
“空ではない状態”に戻る。
ここで確定する。
思い出せなくてもいい。
分からなくてもいい。
それでも、残す。
その選択が、成立する。
戦いは終わっていない。
だが、前提が変わる。
ネリネは、もう“処置される側”ではない。
選ぶ側に戻り始める。
形も、名前もいらない。
それでも、そこにあるなら――
それは、消さない。




