『これは、ボクだ』
それは、最初から自分のものではなかった。
誰かの中に残っていたもの。
置き去りにされた感情。
だが。
選び続けたのは、自分だ。
執行が、ネリネから外れる。
ネリネの感情は、まだ完全には切除されていない。
だが処理は継続されている。
優先順位が更新される。
次の対象が、指定される。
アガリアレプトの視線が、アスモデウスへ向く。
「不要な混線です」
短い判定。
先ほどの否定も、再定義も、すでに“処理対象として織り込み済み”になっている。
分類は完了している。
他者由来の感情。
長期保持による誤認。
統合不能。
処置対象。
執行杖が、わずかに振れる。
触れていない。
それでも、内側が開かれる。
アスモデウスの内部から、引き上げられる。
光が浮く。
ネリネに向けられていたもの。
千年の間、維持されてきたもの。
起点は借り物。
だが、そのままではない。
選び直されてきた軌跡が、層として残っている。
それが“要素”として分解される。
切り離される。
アスモデウスの中で、何かが抜ける。
軽くなる。
処理が整う。
判断が澄む。
迷いが消える。
だが。
その直後に――
“何かが足りない”という感覚だけが、逆に強くなる。
欠損が、明確になる。
ネリネが空になったのと同じ状態。
だが、違う。
これは外部から与えられたものではない。
自分で保持し続けてきたものだ。
削られた結果として、初めて分かる。
“あったものの重さ”。
アガリアレプトが続ける。
「切除を実行します」
その瞬間。
アスモデウスが、動く。
初めて。
処理ではなく、衝動で。
「……違う」
声が出る。
先ほどの否定とは違う。
迷いが混じらない。
確定した否定。
執行杖の動きが、一瞬止まる。
処理が遅れる。
分類結果と、対象の反応が一致しない。
アスモデウスは、浮かんだ感情を掴む。
触れられる。
今度は、はっきりと分かる。
これは“外から付着したもの”ではない。
自分のものとして、干渉できる。
それを引き寄せる。
戻す。
内側へ。
「これは、ボクだ」
言葉が出る。
初めて、定義が確定する。
借り物かどうかではない。
起点が何であったかでもない。
千年。
選び続けた。
離れなかった。
切り捨てなかった。
その選択の連続。
それを行った主体。
それが、自分だ。
結果として残っているもの。
それが“自分”だと、ここで確定する。
内部の構造が変わる。
優先順位が再配置される。
最上位にあった“対象”ではなく。
それを選び続けた“自分の意思”が、中心に来る。
アガリアレプトの処理が乱れる。
「定義の再構成を確認」
「不整合」
分類が崩れる。
“借り物”という前提が、適用できなくなる。
アスモデウスは前に出る。
距離を詰める。
ネリネと、自分の感情の間に入る。
切除を遮る。
ネリネは、まだ空に近い。
だが、完全ではない。
わずかな抵抗が残っている。
その位置に、自分の感情が重なる。
干渉する。
外からではない。
同じ層として。
アガリアレプトが杖を引く。
再処理に入る。
「対象が増加」
「同時処置に移行」
空間がわずかに歪む。
白い診療所の壁に、ひびが入る。
カルテが揺れる。
記録が更新される。
その中に、異物が混じる。
この領域に存在しないはずの“痕跡”。
雷。
焼ける音。
地面を踏み砕く圧。
それは、この場のものではない。
外部からの干渉。
遠い位置。
だが、確実に近づいている。
“均されない動き”。
“削られない圧”。
この領域の理に従っていないもの。
アスモデウスの視線が、わずかに動く。
知っている。
その動き。
その終わらせ方。
“最短で終わらせる”圧。
ヘルハウンド。
そして、その隣にいる存在。
クチナシ。
まだ姿はない。
だが、痕跡だけが先に届く。
領域の外側で、何かが削られている。
アガリアレプトの構造が、わずかに歪む。
完全ではなくなる。
“誤差”が生まれる。
アスモデウスは、その変化を認識する。
処置は進む。
だが、完璧ではない。
外から崩され始めている。
合流が近い。
ネリネは、まだ戻らない。
だが、消えきってもいない。
アスモデウスは立つ。
今度は、迷わない。
守る対象としてではない。
借り物でもない。
自分の意思として。
ここにいる。
その選択が、確定している。
起点じゃない。
選び続けた結果だ。
それが誰のものから始まったかは、もう関係ない。
残したのは、自分だ。




