『借り物のまま、止まる』
最初は、借り物だった。
誰かの中に残っていたもの。
置き去りにされた感情。
それを使って、選び続けた。
だが。
選び続けたものは、
いつの間にか変わっている。
それでも――
それが“自分のものだ”とは、まだ言えない。
ネリネの内側が、空になる。
さっきまで“消していいものじゃない”と拒んでいたはずのものが、今は外にある。
外に浮いた感情は整列し、切除の順序を待つ。
白い空間の中で、それらは“要素”として扱われる。
個人ではない。
意味でもない。
ただの分類対象。
その光景を見て――
アスモデウスが、前に出る。
思考よりも先に、身体が動く。
「違う」
声が出る。
初めて、内側にあったものが“音”として外に出る。
否定。
短く、明確な意思。
アガリアレプトは振り返る。
その声に反応したのではない。
“処置の対象外からの干渉”として認識しただけ。
「違いません」
即答。
迷いがない。
「あなたの感情は、元は彼のものです」
分類結果の提示。
過去の少年。
現在の身体。
そこに残留した感情。
それらは、アスモデウスのものではない。
そう定義される。
正しい。
否定できない。
アスモデウスの動きが、止まる。
言葉が、続かない。
否定しきれない。
自分でも、そう理解していた。
千年の間、ずっと。
起点は少年の感情だった。
ネリネを守る理由は、自分ではなかった。
借り物。
残りもの。
置き去りにされたもの。
それを使っているだけ。
そう思っていた。
アスモデウスの視線が、ネリネに向く。
感情が抜けている。
表情がない。
何を見ているのか、分からない。
そこに、かつて自分が守っていた“対象”がある。
だが。
何かが違う。
ネリネの中から抜かれたものが、外にある。
それは確かに、過去のものだ。
少年が向けていた感情に近い。
だが、それだけではない。
千年の間に変質したものがある。
選び直されたものがある。
“今ここにあるもの”は、起点と同一ではない。
アスモデウスは、それを知っている。
言葉にはできない。
だが、感覚として分かる。
それでも。
否定できない。
起点は借り物だ。
そこは変わらない。
だから、言葉が止まる。
アガリアレプトは続ける。
「混線しています」
「他者由来の感情を、自己のものとして保持している」
「正常ではありません」
処置対象。
修正すべき異常。
そう分類される。
アスモデウスは、黙る。
視線が落ちる。
否定しきれない事実と、否定したい感覚。
その両方が、内部でぶつかる。
“自分ではないもの”を、自分として扱っている。
その認識は、ずっとあった。
だから距離を取っていた。
姿を見せなかった。
関与を最小にしていた。
自分のものではないから。
それでも。
行動だけは続いた。
守る。
離れない。
選び続ける。
それが何なのか、定義しないまま。
ネリネが、わずかに揺れる。
完全に空にはなっていない。
何かが残っている。
微弱な抵抗。
名前も形もないもの。
それが、消されかけている。
アスモデウスの中で、何かが引っかかる。
借り物でもいい。
残りものでもいい。
それでも。
“消される”ことだけが、許容できない。
だが、まだ言葉にならない。
まだ、確定しない。
アスモデウスは、そこで初めて止まる。
否定した。
だが、否定しきれない。
次の一歩が、決まらない。
このままでは、切除が進む。
それを止める理由を、まだ言語化できていない。
沈黙が落ちる。
その中で――
処置だけが、進もうとしていた。
理由はない。
それでも、消させない。




