『初回診察』
扉を越えた瞬間、違いが消える。
足音も、呼吸も、歩幅も。
それぞれにあったはずの揺れが、同じ形へ整えられていく。
名前ではなく、状態として。
記憶ではなく、症例として。
感情ではなく、処置対象として。
ここは、治す場所ではない。
分類し、診断し、
不要な誤差を取り除く場所。
それでも。
完全には均されないものがある。
扉を越えた瞬間、足音の差が消えた。
重い軽い、速い遅い。そういった違いだけが削り取られ、全員の一歩が同じ音量で並ぶ。呼吸も同じだった。
吸う長さ。吐く間隔。その揺れが、少しずつ整えられていく。
床は確かに踏めるのに、材質の記憶が残らない。硬いのか、柔らかいのか。その判断が成立する前に、感覚だけが平らに均される。
ヴァレフォルがランタンを抱きしめる。
「……こ、ここ……いや……」
声が小さい。
怖いものを見た時の怯えじゃない。
自分の“境界”を触られている時の震え方だった。
ナベリウスも、一歩目から顔をしかめている。
「……気持ち悪ぃな」
一拍。
「踏んでるのに、“踏んだことにされてる”」
ムルムルが天井近くをふわふわ漂う。
いつも通りの軽さ。
けれど、わずかに笑いが浅い。
「ケケケ。おたくらの音、きれいに揃えられてるねぇ」
ナベリウスが睨む。
「笑ってる場合か」
「笑わないと、こっちまで並べられそうでねぇ」
その言葉に、誰も返さなかった。
壁一面の棚。
そこに並ぶ白い束。
カルテ。
同じ厚み、同じ大きさ、同じ重さ。
人の差異を示すための器であるはずのものが、外側だけ完全に統一されている。
クチナシが一冊を取る。
開く。
文字はある。線も、配置も、段落も整っている。
だが読めない。
意味に変換される直前で、理解だけが落ちる。
「……名前が、ない」
ネリネが横から覗き込む。
「誰の?」
ナベリウスが鼻を鳴らす。
「誰か、じゃねぇ」
一拍。
「どういう状態か、だ」
目を細める。
「個体じゃなくて、症例だな」
ムルムルが棚の前を横切る。
片目が、カルテを一つずつなぞる。
「声はあるのに、名前がないねぇ」
クチナシが顔を上げる。
「……声は、あるの?」
「あるよ」
ムルムルは軽く答える。
「でも全部、誰のものか分からないように均されてる」
ネリネが吐き捨てる。
「最悪」
「うん」
ムルムルは小さく笑う。
「これはあんまり好きじゃない」
ヘルハウンドはカルテから目を外す。
「人間を道具みたいに扱う顔してやがる」
室内は広い。
椅子が規則的に並ぶ。間隔、角度、配置。そのすべてが揃い、中央の空白へ視線を誘導する構造。
その中央に、収まる。
音もなく。
気配だけが配置される。
白衣の男。
長い銀の髪は濡れたようにまとまり、光を反射しない。片方の瞳は淡い灰。もう片方は底のない黒。首元には識別札のような板が揺れ、細い手首には鎖と器具が絡む。
全身が医療器具の延長線にあるようだった。
美しい。
だが、体温がない。
ネリネの喉がわずかに鳴る。
“見られている”。
そう感じた瞬間。
男が、わずかに首を傾ける。
まるで、その反応を確認するように。
「初回接触。状態確認」
静かな声。
感情はない。
「識別名:アガリアレプト」
一拍。
「精神執行医。記憶・感情領域の診断および処置を担当します」
自己紹介だった。
だが挨拶ではない。
“役割の提示”。
それだけ。
ムルムルが小さく笑う。
「ケケケ。ちゃんと名乗るんだねぇ」
アガリアレプトは視線だけを向ける。
「未登録個体。分類保留」
一拍。
「観測ノイズとして扱います」
ムルムルの笑みが、ほんの一瞬だけ歪む。
「……それはちょっと、気に入らないねぇ」
ナベリウスが低く言う。
「俺っちもだ」
アガリアレプトは興味を示さない。
既に処理は進んでいる。
「診察を開始します」
その言葉は、合図ではない。
確認。
視線がネリネに固定される。
「対象。エルフ個体。ネリネ」
名前を呼ばれた瞬間、ネリネの背筋が強張る。
「勝手に呼ぶな」
反射的に言い返す。
アガリアレプトは反応しない。
「記憶と感情の不一致。極めて不安定です」
断定。
余地がない。
ネリネの喉が詰まる。
言われた内容が、否定しきれない。
「……は?」
「想起不能領域の存在。感情残留の持続。自己認識と内的反応の乖離。進行中」
言葉が、内側を正確になぞる。
だからこそ、怒りが遅れる。
理解が先に来る。
「……黙れ」
低く吐き出す。
クチナシが一歩前に出る。
ネリネの前に立つ。
「やめて」
短い。
だが、はっきり遮る。
アガリアレプトの視線が移る。
数秒。
評価するように。
「別個体。再構築痕あり」
その言葉で、クチナシの内側にわずかなズレが走る。
過去ではない。
構造を見られている。
ヘルハウンドが半歩前に出る。
クチナシを隠す位置。
「見るな」
低く圧を乗せる。
だが空間が均す。
威圧が削られる。
「観察は必要です。処置の前提条件」
揺れない。
距離の意味が曖昧になる。
踏み込む判断が鈍る。
アスモデウスが口を開く。
「……丁寧だね」
軽さはない。
ただの音。
アガリアレプトの視線が向く。
「あなたも対象です。不安定」
一拍。
「外来感情の混入。自己同一性の不明瞭化。経過観察を要します」
アスモデウスの顔からすべてが落ちる。
笑いも、癖も。
ただ空白。
ネリネがそれを見る。
胸がざわつく。
「……アスモデウス」
呼ぶ。
返事はない。
聞こえていないわけじゃない。
言葉が出ない。
ナベリウスが低く唸る。
「気に入らねぇ」
一歩出かけて、止まる。
踏み込めば、自分も開かれる。
分かっている顔。
「人の匂いを勝手に定義すんな」
アガリアレプトは応じない。
対象外。
「初期診察を完了します。詳細検査へ移行します」
白が変わる。
濃度がわずかに上がる。
床の感触が変わる。
配置がズレる。
基準が更新される。
ヴァレフォルがランタンを掲げる。
手が震える。
「……こ、これ……消されてる……」
一拍。
「でも……まだ、ある……」
光が、わずかに影を戻す。
ムルムルがそれを見て、小さく笑う。
「全部は消せてないねぇ」
アガリアレプトの手に、細い執行杖。
先端が揺れる。
メスにも針にも見える。
それが空をなぞる。
空間の“正しさ”が書き換わる。
「不要な誤差を排除します」
処置。
戦闘ではない。
ネリネの胸が打つ。
さっきの言葉が残っている。
だから踏み出す。
「勝手に決めるな」
低く、確かに。
一歩。
その一歩だけが、均された床にズレを生む。
全員が同じになるはずの場所で。
ネリネだけが違う。
アガリアレプトの視線が、わずかに揺れる。
初めての誤差。
クチナシがそれを見る。
ヘルハウンドの口元がわずかに歪む。
ムルムルが小さく笑う。
「ケケケ。いいねぇ」
ナベリウスがスコップを握り直す。
「……完全じゃねぇな」
ヴァレフォルも震えながら光を落とさない。
「……残ってる……」
アスモデウスが、ゆっくり息を吐く。
ネリネを見る。
ネリネは前を見る。
全員が理解する。
ここは敵を倒す場所じゃない。
自分が何でできているかを削られ、試される場所。
そして。
削られてもなお、何が残るのかを問われる場所だった。
診察は、挨拶ではなかった。
相手を知るためのものでもない。
理解するためのものでもない。
ただ、分類するためのもの。
名前を呼んでいるようで、
その奥にあるものを見ていない。
個人ではなく、症例。
感情ではなく、不一致。
記憶ではなく、異常。
アガリアレプトは、そうやって彼らを見る。
だからこそ、怖い。
憎んでいるわけではない。
怒っているわけでもない。
壊したいわけですらない。
ただ、整えようとしている。
余計なものを、誤差として。
けれど。
ネリネは一歩踏み出した。
勝手に決めるな、と。
その一歩だけが、均された場所にズレを作る。
診断されても、分類されても、
まだ自分のものとして残っている反応がある。
ここで問われるのは、
何を奪われるかではない。
削られてもなお、
何が残るのか。




