表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
祈りの残響  作者: ゴンザレス清盛


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

254/283

『不要と断じるもの』

分からないものは、扱いにくい。


名前がないものは、定義できない。

定義できないものは、判断できない。


だから、切り捨てる。


それは合理であり、正しさでもある。


けれど。


分からないまま残っているものがある。

名前がなくても、消えないものがある。


それを、不要だと決めることはできるのか。


診察は続く。


今度は、内側を引きずり出す形で。

 ネリネの一歩が、均された床にズレを生んだ。


 全員が同じになるはずの場所で、彼女だけが違う。


 アガリアレプトの視線が、わずかに揺れる。


 初めての誤差。


 ムルムルが小さく笑った。


「ケケケ。いいねぇ」


 ナベリウスがスコップを握り直す。


「……完全じゃねぇな」


 ヴァレフォルも、震えながらランタンの光を落とさない。


「……残ってる……」


 アスモデウスが、ゆっくり息を吐く。


 笑いは戻らない。


 ただ、ネリネを見る。


 ネリネは振り返らない。


 前を見る。


 アガリアレプトだけを。


 アガリアレプトは、微細な揺れを記録するように目を細めた。


「抵抗反応を確認」


 一拍。


「診察を継続します」


 その言葉が落ちたあとも、空気は揺れなかった。


 否定も肯定も、強さを持った瞬間に削がれていく。


「思い出せないのに苦しい」


 静かな声。


「それは不要な反応です」


 ネリネの指先が強く握られる。


「勝手に決めないで」


 怒りはある。


 確かにある。


 だが、この空間では“強さ”だけが薄まる。叫べば叫ぶほど、言葉の輪郭が均されていく。


 それでも、ネリネは目を逸らさなかった。


 アガリアレプトは淡々と続ける。


「患者は、自身の損傷を正確に認識できません」


 一拍。


「痛みを、原因と結びつけられない状態」


 ネリネの胸がざわつく。


 図星だと分かるから。


 理由のない痛み。


 名前のない喪失。


 掴めないのに残っている感情。


 説明できない。


 だから、否定するしかない。


「違う」


 短く言う。


 だが、その言葉は弱い。


 アガリアレプトは首を傾ける。


 診察の延長のような動き。


「では説明してください」


 一拍。


「何を失い、何に苦しんでいるのか」


 ネリネの口が開く。


 言葉を出そうとする。


 だが、出ない。


 名前がない。


 顔がない。


 声がない。


 なのに、胸の奥だけが痛む。


「……」


 沈黙。


 それ自体が、答えのように扱われる。


 アガリアレプトは淡々と結論を出す。


「原因不明の苦痛は、除去対象です」


 ネリネの目が見開かれる。


「は?」


「不要な感情は、判断を鈍らせ、行動を阻害します」


 視線が周囲へ移る。


 クチナシ。


 ヘルハウンド。


 アスモデウス。


 そして、棚の上で揺れるムルムルと、ランタンを抱えたヴァレフォル。


「全体の最適化のため、切除が妥当です」


 ネリネが一歩踏み出す。


 今度は迷いがない。


「それは“私”でしょ」


 低い声。


「分からなくても、私の中にあるなら」


 一拍。


「勝手に捨てるな」


 空間がわずかに歪む。


 均されたはずの空気に、小さな波が立つ。


 アガリアレプトの視線が、ほんのわずかに揺れる。


「所有権の主張」


 一拍。


「しかし、内容不明」


 ネリネの歯が噛み締められる。


 確かにそうだ。


 何かは分からない。


 でも、“ある”ことだけは分かる。


 ムルムルが天井近くで、ぽつりと笑う。


「ケケケ。名前がないだけで、ないことにするんだ」


 アガリアレプトの視線が、わずかに上がる。


「未登録個体。発言は診断対象外です」


「ひどいねぇ」


 ムルムルは笑う。


 でも、声は少し低かった。


「声が残ってるのに」


 クチナシが口を開く。


「……分からなくても」


 短い言葉。


「消していい理由にはならない」


 アガリアレプトが向く。


「非効率です」


「うん」


 クチナシは頷く。


「でも、それでもいい」


 一拍。


「残ってるなら」


 その言葉に、ネリネの呼吸がわずかに戻る。


 分からないまま残す。


 全部じゃなくても、残っているならそれでいい。


 あの戦場で辿り着いた答えが、ここでまた形になる。


 ヘルハウンドが低く言う。


「削るのは簡単だ」


 一歩前へ。


「残す方が面倒だ」


 視線はアガリアレプトに固定されたまま。


「だが、そっちを選んでる」


 理由は言わない。


 それでも十分だった。


 ヴァレフォルがランタンを少しだけ上げる。


 光が震えながら広がる。


「……消すのは……こわい……」


 小さな声。


「でも……残ってるのを、消す方が……もっと、こわい……」


 ナベリウスが、嫌そうに息を吐く。


「理屈で言えば、お前の言ってることは分かる」


 アガリアレプトを見る。


「分からねぇ痛みは危険だ。判断も鈍る。邪魔にもなる」


 一拍。


「でもな。だからって、勝手に切っていい理由にはならねぇだろ」


 スコップの柄を握る手に力が入る。


「俺っちはそういう整理の仕方が一番嫌いだ」


 アスモデウスは、まだ黙っている。


 視線だけがネリネに向いている。


 その奥で、何かを測っている。


 自分の中にある感情。


 それが本当に、自分のものか。


 答えはまだ出ない。


 だが。


 アガリアレプトの言葉が、確実に引っかかっている。


 外来感情。


 混入。


 自己同一性の不明瞭化。


 その言葉が、彼の中を静かに削っている。


 アガリアレプトが杖をわずかに動かす。


 空間に細い線が走る。


 見えないはずの境界。


「判断材料が不足しています」


 一拍。


「視覚化を行います」


 ネリネの周囲の空気が、わずかに揺れる。


 熱でも風でもない。


 内側が引き出される感覚。


 クチナシが気づく。


「……来る」


 ヘルハウンドが踏み込む準備をする。


 だが、まだ届かない。


 アガリアレプトの処置は、攻撃ではない。


 触れられる前に、成立する。


「不要かどうかは、確認してから判断します」


 その言葉と同時に。


 ネリネの周囲に、何かが浮かび始める。


 炎。


 森。


 白い手。


 そして。


 欠けている名前。


 ネリネの呼吸が乱れる。


 膝がわずかに揺れる。


 ムルムルが笑わなくなる。


 ヴァレフォルのランタンが、細く震える。


 アスモデウスの表情が、完全に消える。


 ここから先は、否定では止まらない。


 見せられる。


 診察は、もう一段階深く進んだ。

言えないものがある。


思い出せないまま、残っているものがある。


それは曖昧で、不完全で、

確かめようとすると崩れてしまいそうなもの。


だからこそ。


それを“ないこと”にされると、

強く否定したくなる。


理由は、うまく言えなくても。


診察は進む。


言葉ではなく、

もっと直接的な形で。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ