『不要と断じるもの』
分からないものは、扱いにくい。
名前がないものは、定義できない。
定義できないものは、判断できない。
だから、切り捨てる。
それは合理であり、正しさでもある。
けれど。
分からないまま残っているものがある。
名前がなくても、消えないものがある。
それを、不要だと決めることはできるのか。
診察は続く。
今度は、内側を引きずり出す形で。
ネリネの一歩が、均された床にズレを生んだ。
全員が同じになるはずの場所で、彼女だけが違う。
アガリアレプトの視線が、わずかに揺れる。
初めての誤差。
ムルムルが小さく笑った。
「ケケケ。いいねぇ」
ナベリウスがスコップを握り直す。
「……完全じゃねぇな」
ヴァレフォルも、震えながらランタンの光を落とさない。
「……残ってる……」
アスモデウスが、ゆっくり息を吐く。
笑いは戻らない。
ただ、ネリネを見る。
ネリネは振り返らない。
前を見る。
アガリアレプトだけを。
アガリアレプトは、微細な揺れを記録するように目を細めた。
「抵抗反応を確認」
一拍。
「診察を継続します」
その言葉が落ちたあとも、空気は揺れなかった。
否定も肯定も、強さを持った瞬間に削がれていく。
「思い出せないのに苦しい」
静かな声。
「それは不要な反応です」
ネリネの指先が強く握られる。
「勝手に決めないで」
怒りはある。
確かにある。
だが、この空間では“強さ”だけが薄まる。叫べば叫ぶほど、言葉の輪郭が均されていく。
それでも、ネリネは目を逸らさなかった。
アガリアレプトは淡々と続ける。
「患者は、自身の損傷を正確に認識できません」
一拍。
「痛みを、原因と結びつけられない状態」
ネリネの胸がざわつく。
図星だと分かるから。
理由のない痛み。
名前のない喪失。
掴めないのに残っている感情。
説明できない。
だから、否定するしかない。
「違う」
短く言う。
だが、その言葉は弱い。
アガリアレプトは首を傾ける。
診察の延長のような動き。
「では説明してください」
一拍。
「何を失い、何に苦しんでいるのか」
ネリネの口が開く。
言葉を出そうとする。
だが、出ない。
名前がない。
顔がない。
声がない。
なのに、胸の奥だけが痛む。
「……」
沈黙。
それ自体が、答えのように扱われる。
アガリアレプトは淡々と結論を出す。
「原因不明の苦痛は、除去対象です」
ネリネの目が見開かれる。
「は?」
「不要な感情は、判断を鈍らせ、行動を阻害します」
視線が周囲へ移る。
クチナシ。
ヘルハウンド。
アスモデウス。
そして、棚の上で揺れるムルムルと、ランタンを抱えたヴァレフォル。
「全体の最適化のため、切除が妥当です」
ネリネが一歩踏み出す。
今度は迷いがない。
「それは“私”でしょ」
低い声。
「分からなくても、私の中にあるなら」
一拍。
「勝手に捨てるな」
空間がわずかに歪む。
均されたはずの空気に、小さな波が立つ。
アガリアレプトの視線が、ほんのわずかに揺れる。
「所有権の主張」
一拍。
「しかし、内容不明」
ネリネの歯が噛み締められる。
確かにそうだ。
何かは分からない。
でも、“ある”ことだけは分かる。
ムルムルが天井近くで、ぽつりと笑う。
「ケケケ。名前がないだけで、ないことにするんだ」
アガリアレプトの視線が、わずかに上がる。
「未登録個体。発言は診断対象外です」
「ひどいねぇ」
ムルムルは笑う。
でも、声は少し低かった。
「声が残ってるのに」
クチナシが口を開く。
「……分からなくても」
短い言葉。
「消していい理由にはならない」
アガリアレプトが向く。
「非効率です」
「うん」
クチナシは頷く。
「でも、それでもいい」
一拍。
「残ってるなら」
その言葉に、ネリネの呼吸がわずかに戻る。
分からないまま残す。
全部じゃなくても、残っているならそれでいい。
あの戦場で辿り着いた答えが、ここでまた形になる。
ヘルハウンドが低く言う。
「削るのは簡単だ」
一歩前へ。
「残す方が面倒だ」
視線はアガリアレプトに固定されたまま。
「だが、そっちを選んでる」
理由は言わない。
それでも十分だった。
ヴァレフォルがランタンを少しだけ上げる。
光が震えながら広がる。
「……消すのは……こわい……」
小さな声。
「でも……残ってるのを、消す方が……もっと、こわい……」
ナベリウスが、嫌そうに息を吐く。
「理屈で言えば、お前の言ってることは分かる」
アガリアレプトを見る。
「分からねぇ痛みは危険だ。判断も鈍る。邪魔にもなる」
一拍。
「でもな。だからって、勝手に切っていい理由にはならねぇだろ」
スコップの柄を握る手に力が入る。
「俺っちはそういう整理の仕方が一番嫌いだ」
アスモデウスは、まだ黙っている。
視線だけがネリネに向いている。
その奥で、何かを測っている。
自分の中にある感情。
それが本当に、自分のものか。
答えはまだ出ない。
だが。
アガリアレプトの言葉が、確実に引っかかっている。
外来感情。
混入。
自己同一性の不明瞭化。
その言葉が、彼の中を静かに削っている。
アガリアレプトが杖をわずかに動かす。
空間に細い線が走る。
見えないはずの境界。
「判断材料が不足しています」
一拍。
「視覚化を行います」
ネリネの周囲の空気が、わずかに揺れる。
熱でも風でもない。
内側が引き出される感覚。
クチナシが気づく。
「……来る」
ヘルハウンドが踏み込む準備をする。
だが、まだ届かない。
アガリアレプトの処置は、攻撃ではない。
触れられる前に、成立する。
「不要かどうかは、確認してから判断します」
その言葉と同時に。
ネリネの周囲に、何かが浮かび始める。
炎。
森。
白い手。
そして。
欠けている名前。
ネリネの呼吸が乱れる。
膝がわずかに揺れる。
ムルムルが笑わなくなる。
ヴァレフォルのランタンが、細く震える。
アスモデウスの表情が、完全に消える。
ここから先は、否定では止まらない。
見せられる。
診察は、もう一段階深く進んだ。
言えないものがある。
思い出せないまま、残っているものがある。
それは曖昧で、不完全で、
確かめようとすると崩れてしまいそうなもの。
だからこそ。
それを“ないこと”にされると、
強く否定したくなる。
理由は、うまく言えなくても。
診察は進む。
言葉ではなく、
もっと直接的な形で。




