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祈りの残響  作者: ゴンザレス清盛


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252/283

『診察を開始します』

森の奥に、白い建物があった。


診療所のようで、

教会のようで、

処刑台のようでもある。


何かを救うためではない。

何かを裁くためでもない。


そこに残っているのは、

ただの機能。


見て、測って、分けるための場所。


入れば、もう同じでは戻れない。


それでも扉は開く。


向こう側から、

診察を始める声が聞こえたから。

 森の奥。


 そこだけ、景色が切り替わっていた。


 木々はある。土もある。


 けれど、空間の密度が違う。


 空気が、均一すぎる。音が、整いすぎている。


 そして。


 白い建物があった。


 石造り。整った壁。無駄のない形。


 診療所のようでもあり、教会のようでもあり、処刑台のようでもある。


 どの用途にも見える。


 でも、どれでもない。


 “機能”だけが残った建物。


 クチナシが足を止める。


 ヘルハウンドも、ネリネも、アスモデウスも。


 誰もすぐには近づかなかった。


 ナベリウスが、珍しく何も言わずに一歩下がる。


 鼻先を上げる。


 匂いを嗅ぐ。


 次の瞬間、顔が歪んだ。


「……無理だ」


 低い声。


 いつもの文句ではない。


 理性で出した拒絶だった。


「ここ、入る場所じゃねぇ」


 クチナシが見る。


「……分かるの?」


「分かる」


 即答。


「死の匂いじゃねぇ。飢えでもねぇ。もっと嫌なやつだ」


 一拍。


「全部、整えられてる。腐ってるのに、腐ってねぇ顔してやがる」


 ナベリウスはスコップの柄を握る。


 だが、構えない。


 前へ出るためではなく、逃げ道を確認するように。


「理屈で分かる。ここは入ったら、こっちの中身を見られる」


 ネリネの背中に冷たいものが走る。


「中身?」


「記憶とか、感情とか、そういう面倒なもんだよ」


 吐き捨てる。


「俺っちは嫌だね。絶対ろくなことにならねぇ」


 ヴァレフォルも、ランタンを抱えたまま動かない。


 羽が小さく震えている。


 昼なのに。


 それでも、ランタンの光がわずかに揺れていた。


「……い、行きたく、ない……」


 小さな声。


 でも、はっきりしていた。


 クチナシが振り返る。


「ヴァレフォル」


「こ、ここ……怖い、じゃない……」


 一拍。


「怖いより……もっと、嫌……」


 言葉を探している。


 上手く出てこない。


 けれど、本能が拒んでいるのは分かる。


「入ったら……戻っても、同じじゃなくなる……気が、する……」


 その言葉に、誰もすぐには返せなかった。


 ムルムルが少し高い位置で止まっている。


 さっきまでふわふわ飛んでいたのに、今は動きが少ない。


「ケケケ」


 笑い声だけはいつも通り。


 でも、少しだけ乾いていた。


「おたくら、いい勘してるねぇ」


 ナベリウスが睨む。


「お前は入れるのかよ」


「入れるよ」


 ムルムルは軽く言う。


 一拍置いて、続ける。


「でも、好きじゃない」


 その言い方に、空気が少し重くなる。


 好きじゃない。


 それは、怖いとも危ないとも違う。


 ムルムルですら、そう言う場所。


 ヘルハウンドが白い建物を見る。


「中心か」


 ナベリウスは嫌そうに頷く。


「中心だ」


 一拍。


「ここが」


 アスモデウスは建物を見ていた。


 動かない。


 視線だけが固定されている。


 ネリネが横目で見る。


 気づく。


 明らかに違う。


 今までと。


「……あんた」


 一歩近づく。


「知ってるの?」


 短く問う。


 アスモデウスは答えない。


 否定もしない。


 ただ、低く呟く。


「……ここまで来たか」


 それだけ。


 ネリネの眉が寄る。


「何それ」


 問い詰めるように言う。


 でも、アスモデウスは建物から目を逸らさない。


 笑っていない。


 軽口もない。


 それが、一番答えに近かった。


 クチナシが前に出る。


 一歩。


 また一歩。


 白い建物に近づく。


 止まらない。


 けれど、急がない。


 怖くないわけではない。


 それでも、ここまで来た理由を見失わない。


 ヘルハウンドが並ぶ。


 同じ速度で。


 ネリネは一瞬だけ遅れる。


 胸が重い。


 鼓動が速い。


 あの手の感触。


 夢の声。


 名前のない墓。


 消えた声。


 全部が、ここに繋がっている気がする。


「……最悪」


 小さく吐く。


 それでも足を出す。


 アスモデウスは最後に動く。


 ほんの一拍だけ遅れて。


 ムルムルがその遅れを見て、何も言わずについてくる。


 扉の前に立つ。


 白い扉。


 汚れていない。


 この森の中で、唯一、侵されていないもの。


 逆に、それが不自然だった。


 ナベリウスが低く唸る。


「……匂いが止まってる」


 一拍。


「中で」


 ヴァレフォルがランタンを強く抱く。


「……ひ、光……入れたく、ない……」


 クチナシが見る。


「どうして?」


「分からない……でも……」


 一拍。


「照らしたら、見たくないものまで、見える……」


 ムルムルが小さく笑う。


「ここは、見せる場所だからねぇ」


 ネリネが睨む。


「黙って」


「はいはい」


 ヘルハウンドが扉に手をかける。


 開ける準備。


 だが。


 クチナシがわずかに手を上げる。


「……待って」


 短く言う。


 理由はない。


 でも、入る前に確認するべき何かがある気がした。


 クチナシは、ナベリウスを見る。


「……無理なら、外で待ってもいい」


 ナベリウスが目を見開く。


 それから、嫌そうに顔をしかめる。


「そう言われると逆に残りにくいだろうが」


「残らなくていい」


「残るわ」


 即答。


 矛盾している。


 でも、それがナベリウスだった。


「俺っちはな、嫌な場所ほど後ろを見てねぇと落ち着かねぇんだよ」


 一拍。


「ただし、前には出ねぇ。壁は必要になってからだ」


 ヘルハウンドが短く言う。


「必要なら出ろ」


「今その話すんな」


 ヴァレフォルが小さく息を吸う。


 震えながらも、ランタンを持ち直す。


「ぼ、僕も……行く……」


 声は弱い。


 でも、逃げるとは言わなかった。


「怖いけど……ここ、見ないと……だめ、な気がする……」


 クチナシは頷く。


「……うん」


 その時。


 扉の向こうから、音がした。


 足音ではない。


 機械でもない。


 規則的な何か。


 呼吸のような。


 拍動のような。


 そして。


 声。


 静かに。


 感情を乗せずに。


「診察を開始します」


 その一言。


 全員が動きを止める。


 ネリネの背中に、冷たいものが走る。


「……何よ、それ」


 思わず漏れる。


 ナベリウスが低く言う。


「……中にいる」


 一拍。


「管理してるやつだ」


 ムルムルが小さく揺れる。


「ケケケ。呼ばれたねぇ」


 ナベリウスが睨む。


「嬉しそうに言うな」


「嬉しくはないよ」


 ムルムルは笑う。


「でも、始まるものは始まる」


 ヘルハウンドが短く言う。


「開けるぞ」


 迷いはない。


 クチナシが頷く。


「……うん。行こう」


 それで決まる。


 アスモデウスだけが、動かない。


 一瞬だけ。


 ほんの一瞬。


 ネリネがそれを見る。


「……行くわよ」


 強く言う。


 引き戻すように。


 アスモデウスは、ゆっくりと頷く。


「うん」


 短く。


 でも、その声は少しだけ低い。


 覚悟を決めた声。


 ヘルハウンドが扉を押す。


 開く。


 軋みはない。


 音もほとんどない。


 静かに。


 完全に。


 開く。


 中は、白かった。


 壁も、床も、天井も。


 全てが均一。


 血もない。


 汚れもない。


 でも。


 何かがあった気配だけが、濃く残っている。


 並んだ椅子。


 規則的な配置。


 逃げ場のない構造。


 診療所のようで、裁きの場のようで。


 そして。


 中央。


 一つの影。


 人の形。


 白い衣。


 顔は見えない。


 でも、視線だけは、こちらを見ている。


 確実に。


「――次の患者」


 静かに言う。


 一拍。


「来ましたね」


 ネリネの喉が、わずかに震える。


 クチナシは前を見る。


 ヘルハウンドは一歩前へ。


 ナベリウスはスコップを握る。


 ヴァレフォルはランタンを抱きしめる。


 ムルムルは天井近くで止まり、珍しく笑い声を落とした。


 アスモデウスは、完全に笑わない。


 そして、全員が理解する。


 ここは、終わらせる場所ではない。


 診断される場所。


 何を。


 誰を。


 どこまで。


 まだ分からない。


 でも。


 もう、戻れない。

ここは、戦う場所ではない。


少なくとも、最初は。


ここは見せる場所であり、

測る場所であり、

中身を暴く場所。


だからこそ、ナベリウスもヴァレフォルも先に拒んだ。


死の匂いよりも嫌なもの。

飢えよりも厄介なもの。


腐っているのに、腐っていない顔をしているもの。


この建物の怖さは、汚れていないことにある。


血もない。

叫びもない。

崩れた跡もない。


それなのに、何かがあった気配だけが濃い。


綺麗すぎる場所ほど、

何をされたのか分からない。


そして、分からないまま中へ入る。


診察されるために。


何が壊れているのか。

何が欠けているのか。

何が残っているのか。


それを、誰かに見られるために。


扉は開いた。


戻れない場所に入ったのではない。


戻っても、同じではいられない場所に入った。

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