『診察を開始します』
森の奥に、白い建物があった。
診療所のようで、
教会のようで、
処刑台のようでもある。
何かを救うためではない。
何かを裁くためでもない。
そこに残っているのは、
ただの機能。
見て、測って、分けるための場所。
入れば、もう同じでは戻れない。
それでも扉は開く。
向こう側から、
診察を始める声が聞こえたから。
森の奥。
そこだけ、景色が切り替わっていた。
木々はある。土もある。
けれど、空間の密度が違う。
空気が、均一すぎる。音が、整いすぎている。
そして。
白い建物があった。
石造り。整った壁。無駄のない形。
診療所のようでもあり、教会のようでもあり、処刑台のようでもある。
どの用途にも見える。
でも、どれでもない。
“機能”だけが残った建物。
クチナシが足を止める。
ヘルハウンドも、ネリネも、アスモデウスも。
誰もすぐには近づかなかった。
ナベリウスが、珍しく何も言わずに一歩下がる。
鼻先を上げる。
匂いを嗅ぐ。
次の瞬間、顔が歪んだ。
「……無理だ」
低い声。
いつもの文句ではない。
理性で出した拒絶だった。
「ここ、入る場所じゃねぇ」
クチナシが見る。
「……分かるの?」
「分かる」
即答。
「死の匂いじゃねぇ。飢えでもねぇ。もっと嫌なやつだ」
一拍。
「全部、整えられてる。腐ってるのに、腐ってねぇ顔してやがる」
ナベリウスはスコップの柄を握る。
だが、構えない。
前へ出るためではなく、逃げ道を確認するように。
「理屈で分かる。ここは入ったら、こっちの中身を見られる」
ネリネの背中に冷たいものが走る。
「中身?」
「記憶とか、感情とか、そういう面倒なもんだよ」
吐き捨てる。
「俺っちは嫌だね。絶対ろくなことにならねぇ」
ヴァレフォルも、ランタンを抱えたまま動かない。
羽が小さく震えている。
昼なのに。
それでも、ランタンの光がわずかに揺れていた。
「……い、行きたく、ない……」
小さな声。
でも、はっきりしていた。
クチナシが振り返る。
「ヴァレフォル」
「こ、ここ……怖い、じゃない……」
一拍。
「怖いより……もっと、嫌……」
言葉を探している。
上手く出てこない。
けれど、本能が拒んでいるのは分かる。
「入ったら……戻っても、同じじゃなくなる……気が、する……」
その言葉に、誰もすぐには返せなかった。
ムルムルが少し高い位置で止まっている。
さっきまでふわふわ飛んでいたのに、今は動きが少ない。
「ケケケ」
笑い声だけはいつも通り。
でも、少しだけ乾いていた。
「おたくら、いい勘してるねぇ」
ナベリウスが睨む。
「お前は入れるのかよ」
「入れるよ」
ムルムルは軽く言う。
一拍置いて、続ける。
「でも、好きじゃない」
その言い方に、空気が少し重くなる。
好きじゃない。
それは、怖いとも危ないとも違う。
ムルムルですら、そう言う場所。
ヘルハウンドが白い建物を見る。
「中心か」
ナベリウスは嫌そうに頷く。
「中心だ」
一拍。
「ここが」
アスモデウスは建物を見ていた。
動かない。
視線だけが固定されている。
ネリネが横目で見る。
気づく。
明らかに違う。
今までと。
「……あんた」
一歩近づく。
「知ってるの?」
短く問う。
アスモデウスは答えない。
否定もしない。
ただ、低く呟く。
「……ここまで来たか」
それだけ。
ネリネの眉が寄る。
「何それ」
問い詰めるように言う。
でも、アスモデウスは建物から目を逸らさない。
笑っていない。
軽口もない。
それが、一番答えに近かった。
クチナシが前に出る。
一歩。
また一歩。
白い建物に近づく。
止まらない。
けれど、急がない。
怖くないわけではない。
それでも、ここまで来た理由を見失わない。
ヘルハウンドが並ぶ。
同じ速度で。
ネリネは一瞬だけ遅れる。
胸が重い。
鼓動が速い。
あの手の感触。
夢の声。
名前のない墓。
消えた声。
全部が、ここに繋がっている気がする。
「……最悪」
小さく吐く。
それでも足を出す。
アスモデウスは最後に動く。
ほんの一拍だけ遅れて。
ムルムルがその遅れを見て、何も言わずについてくる。
扉の前に立つ。
白い扉。
汚れていない。
この森の中で、唯一、侵されていないもの。
逆に、それが不自然だった。
ナベリウスが低く唸る。
「……匂いが止まってる」
一拍。
「中で」
ヴァレフォルがランタンを強く抱く。
「……ひ、光……入れたく、ない……」
クチナシが見る。
「どうして?」
「分からない……でも……」
一拍。
「照らしたら、見たくないものまで、見える……」
ムルムルが小さく笑う。
「ここは、見せる場所だからねぇ」
ネリネが睨む。
「黙って」
「はいはい」
ヘルハウンドが扉に手をかける。
開ける準備。
だが。
クチナシがわずかに手を上げる。
「……待って」
短く言う。
理由はない。
でも、入る前に確認するべき何かがある気がした。
クチナシは、ナベリウスを見る。
「……無理なら、外で待ってもいい」
ナベリウスが目を見開く。
それから、嫌そうに顔をしかめる。
「そう言われると逆に残りにくいだろうが」
「残らなくていい」
「残るわ」
即答。
矛盾している。
でも、それがナベリウスだった。
「俺っちはな、嫌な場所ほど後ろを見てねぇと落ち着かねぇんだよ」
一拍。
「ただし、前には出ねぇ。壁は必要になってからだ」
ヘルハウンドが短く言う。
「必要なら出ろ」
「今その話すんな」
ヴァレフォルが小さく息を吸う。
震えながらも、ランタンを持ち直す。
「ぼ、僕も……行く……」
声は弱い。
でも、逃げるとは言わなかった。
「怖いけど……ここ、見ないと……だめ、な気がする……」
クチナシは頷く。
「……うん」
その時。
扉の向こうから、音がした。
足音ではない。
機械でもない。
規則的な何か。
呼吸のような。
拍動のような。
そして。
声。
静かに。
感情を乗せずに。
「診察を開始します」
その一言。
全員が動きを止める。
ネリネの背中に、冷たいものが走る。
「……何よ、それ」
思わず漏れる。
ナベリウスが低く言う。
「……中にいる」
一拍。
「管理してるやつだ」
ムルムルが小さく揺れる。
「ケケケ。呼ばれたねぇ」
ナベリウスが睨む。
「嬉しそうに言うな」
「嬉しくはないよ」
ムルムルは笑う。
「でも、始まるものは始まる」
ヘルハウンドが短く言う。
「開けるぞ」
迷いはない。
クチナシが頷く。
「……うん。行こう」
それで決まる。
アスモデウスだけが、動かない。
一瞬だけ。
ほんの一瞬。
ネリネがそれを見る。
「……行くわよ」
強く言う。
引き戻すように。
アスモデウスは、ゆっくりと頷く。
「うん」
短く。
でも、その声は少しだけ低い。
覚悟を決めた声。
ヘルハウンドが扉を押す。
開く。
軋みはない。
音もほとんどない。
静かに。
完全に。
開く。
中は、白かった。
壁も、床も、天井も。
全てが均一。
血もない。
汚れもない。
でも。
何かがあった気配だけが、濃く残っている。
並んだ椅子。
規則的な配置。
逃げ場のない構造。
診療所のようで、裁きの場のようで。
そして。
中央。
一つの影。
人の形。
白い衣。
顔は見えない。
でも、視線だけは、こちらを見ている。
確実に。
「――次の患者」
静かに言う。
一拍。
「来ましたね」
ネリネの喉が、わずかに震える。
クチナシは前を見る。
ヘルハウンドは一歩前へ。
ナベリウスはスコップを握る。
ヴァレフォルはランタンを抱きしめる。
ムルムルは天井近くで止まり、珍しく笑い声を落とした。
アスモデウスは、完全に笑わない。
そして、全員が理解する。
ここは、終わらせる場所ではない。
診断される場所。
何を。
誰を。
どこまで。
まだ分からない。
でも。
もう、戻れない。
ここは、戦う場所ではない。
少なくとも、最初は。
ここは見せる場所であり、
測る場所であり、
中身を暴く場所。
だからこそ、ナベリウスもヴァレフォルも先に拒んだ。
死の匂いよりも嫌なもの。
飢えよりも厄介なもの。
腐っているのに、腐っていない顔をしているもの。
この建物の怖さは、汚れていないことにある。
血もない。
叫びもない。
崩れた跡もない。
それなのに、何かがあった気配だけが濃い。
綺麗すぎる場所ほど、
何をされたのか分からない。
そして、分からないまま中へ入る。
診察されるために。
何が壊れているのか。
何が欠けているのか。
何が残っているのか。
それを、誰かに見られるために。
扉は開いた。
戻れない場所に入ったのではない。
戻っても、同じではいられない場所に入った。




