『終わっていない森』
そこには、何もないはずだった。
木があり、土があり、影がある。
今の森だけが、目の前にある。
けれど。
視界の端で、焼け跡が揺れる。
聞こえないはずの声が混ざる。
消えたはずの足音が、まだ走っている。
過去ではない。
幻でもない。
終わらなかったものが、
今もここで続いている。
森は、入る前からおかしかった。
境界を越えたはずなのに、まだ“外側”にいるような感覚が残る。
足元は確かに土。木々も、影も、現実のもの。
なのに。
視界の端に、別の景色が重なる。
焼け跡。
黒く焦げた地面。折れた木。煙の残り香。
今ここにはないはずのもの。
クチナシが足を止める。
「……見える」
短く言う。
ヘルハウンドも同じ方向を見る。
そこには何もない。
でも。
「……あるな」
一言で返す。
ネリネが苛立つ。
「はっきりしなさいよ」
でも、自分でも分かっている。
“見えているのに、ない”。
それが一番気持ち悪い。
ムルムルが頭上をふわふわ漂う。
「ケケケ。あるけどない。ないけど残ってる。こういう場所は迷いやすいねぇ」
ネリネが睨む。
「あんた、黙れないの」
「おいら、黙るの苦手なんだよねぇ」
ナベリウスが低く唸る。
「なら努力しろ。うるせぇ」
「おたく、初対面なのに辛辣だねぇ。ケケケ」
「初対面だからだ」
音が、混ざる。
足音の間に。
聞こえるはずのない声。
叫び。悲鳴。怒号。
どれも遠い。
でも、確実に“ここにある”。
ナベリウスが低く言う。
「……重なってる」
一拍。
「今と、昔が」
ネリネが眉を寄せる。
「昔って何よ」
ナベリウスは即答しない。
少しだけ間を置く。
「……千年単位だな」
その言葉で、空気が沈む。
ムルムルがくるりと回る。
「長いねぇ。長いと声も腐りそうなもんなのに」
一拍。
「ここは、腐ってない」
アスモデウスの視線がわずかに動く。
「……よく分かるね」
「おいら、声を拾うのは得意だからねぇ。ケケケ」
軽い声。
でも、その内容は軽くない。
ヴァレフォルがランタンを抱きしめる。
昼なのに。
光が必要なほど暗いわけではないのに、手放せない。
「こ、ここ……朝でも、暗い……」
声が震える。
夜ではない。
なのに、恐怖が夜と同じ形で出ている。
クチナシが少しだけ視線を向ける。
「……見えてる?」
ヴァレフォルは小さく頷く。
「み、見え……ない……でも……ある……」
言葉が途切れる。
それでも伝わる。
現実ではない何かが、ここにはある。
アスモデウスが小さく言う。
「正確だね」
一拍。
「見えないけど、ある」
ムルムルがヴァレフォルのランタンを覗き込む。
「灯り持ちのおたくは便利だねぇ。見えないものの輪郭を残せる」
ヴァレフォルはびくっと肩を揺らす。
「……ち、近い……」
「ケケケ、ごめんごめん」
謝っている声なのに、楽しそうだった。
ネリネが前を見る。
木々の間。
焼け跡が、一瞬だけ濃くなる。
今度は、はっきり見えた。
倒れた影。
細い耳。
エルフ。
その周囲に、人影。
武器を持っている。
火。煙。逃げ場がない。
その光景が、一瞬だけ鮮明になる。
「……っ」
ネリネが息を呑む。
次の瞬間、消えた。
元の森に戻る。
何もなかったみたいに。
「今の……」
言いかける。
でも、言葉が続かない。
クチナシが小さく言う。
「……焼けてた」
ネリネが見る。
「見えたの?」
「……少し」
それで十分だった。
同じものを見ている。
ムルムルがぽつりと言う。
「逃げてたねぇ」
ネリネの目が鋭くなる。
「見えたの」
「見えたっていうか、聞こえた」
一拍。
「足音がいっぱい。息もいっぱい。名前は、ほとんど落ちてるけど」
その言い方に、ネリネの胸がざわつく。
「……名前?」
「うん。声には名前が混じるからねぇ。でもここ、抜けてるのが多い」
ムルムルは笑う。
「ケケケ。誰かが拾い損ねたみたいに」
「……黙って」
ネリネの声が低くなる。
ムルムルは少しだけ宙で止まる。
「はいはい」
笑っているのに、今度は少しだけ引いた。
ナベリウスが地面を嗅ぐ。
深く。
長く。
そして。
「……腐ってねぇ」
一拍。
「古いのに」
ヘルハウンドが低く言う。
「残り方が異常だな」
アスモデウスが続ける。
「終わってないからね」
一拍。
「処理されてない」
その言い方。
死を一つの過程として扱うような声。
ネリネが睨む。
「軽く言うな」
アスモデウスは肩をすくめない。
珍しく、すぐに答える。
「軽くは言ってないよ」
目も逸らさない。
ネリネはそれ以上言えない。
ムルムルが小さく笑う。
「おたく、知ってる声だねぇ」
アスモデウスの笑みが消える。
「何が?」
「ケケケ。今の声」
一拍。
「聞いたことあるみたいに、重かった」
アスモデウスは答えない。
ネリネがそれを見る。
また何かを隠している顔。
でも、今は問い詰めない。
少し進む。
同じような景色。
でも、違う。
今度は、音が近い。
足音。
複数。
走る音。
追う音。
逃げる音。
そして。
刃が入る音。
肉が裂ける音。
生々しい。
ネリネが歯を食いしばる。
「……うるさい」
実際には静かだ。
でも、聞こえている。
頭の中に直接。
ナベリウスが低く言う。
「残響だな」
一拍。
「声が残ってる」
ムルムルがうなずくように揺れる。
「そうそう。残響。おいら、そういうの拾うの好きだよ」
ネリネが睨む。
「好きって言い方やめて」
「じゃあ、得意」
「もっと嫌」
「ケケケ」
クチナシが小さく言う。
「……消えない」
それは、どこかで聞いた言葉に近い。
思い出せなくても消えない。
それが、ここでは別の形で現れている。
ヴァレフォルがランタンを少し持ち上げる。
光が揺れる。
その揺れに合わせて、景色がズレる。
一瞬だけ、また焼け跡が見える。
今度は、よりはっきり。
地面に刻まれた跡。
引きずられた線。
血の跡。
そして。
そこに立っている“影”。
人間の形。
武器を持っている。
でも、動かない。
まるで、そこに固定されているみたいに。
「……いる」
クチナシが言う。
ネリネも同時に感じる。
今のものではない何か。
でも、完全に消えていない。
次の瞬間、それも消える。
ムルムルがぽつりと言う。
「見てるねぇ」
ヘルハウンドの視線が鋭くなる。
「何が」
「残ったやつ」
一拍。
「動けないけど、見てる」
ナベリウスが舌打ちする。
「余計なこと言うな」
「余計かなぁ。大事だと思うけど」
「お前の大事は信用できねぇ」
「ケケケ。ひどいねぇ」
アスモデウスが小さく呟く。
「……残りすぎだ」
一拍。
「普通じゃない」
ナベリウスが頷く。
「終わってねぇからな」
一拍。
「ずっと続いてる」
その言葉が、ネリネの中で引っかかる。
ずっと続いている。
それは、さっき見た光景。
焼け跡。
エルフ。
人間。
終わっていない。
もし、あれが。
ただの過去じゃなかったら。
ネリネの背中に、冷たいものが走る。
ムルムルがネリネのそばで小さく揺れる。
「おたく、怖い?」
「うるさい」
「怖いのは悪くないよ。声をちゃんと聞いてるってことだから」
ネリネは返せない。
その言葉が、妙に残る。
クチナシが前を見る。
視線が、少しだけ鋭くなる。
「……この先」
一拍。
「違う」
ヘルハウンドが頷く。
「濃度が変わる」
ナベリウスが低く言う。
「中心に近い」
アスモデウスは黙る。
でも、表情が変わる。
わずかに。
知っている何かに、近づいている顔。
ムルムルがその顔を見て、楽しそうに笑う。
「ケケケ。おたくも聞こえてきた?」
アスモデウスは答えない。
ムルムルはそれ以上追わない。
ただ、ふわふわと先へ進む。
「こっちだよ。たぶん」
ナベリウスが即座に言う。
「お前が案内すんな」
「迷子だけど?」
「余計だ」
クチナシがムルムルを見る。
「……道、分かるの?」
「分かんない」
即答。
「でも、声が濃い方は分かる」
それは案内になっているようで、なっていない。
でも今は、それでも十分だった。
ネリネは、最後にもう一度だけ振り返る。
何もない森。
でも、さっきまで確かに見えていた。
焼けた森。
逃げるエルフ。
追う人間。
消えない気配。
完全には終わっていない何か。
「……終わってない」
小さく呟く。
誰にも聞こえないように。
でも、自分の中には、はっきり残る。
ムルムルが、その言葉を拾ったように笑う。
「ケケケ」
ネリネは睨まない。
今は。
ただ、前を見る。
全員が前を向く。
進む。
森の外側を越えて。
さらに奥へ。
そこにあるのは、ただの残響ではない。
続いている何か。
その気配が、確実に濃くなっていた。
森は、静かだった。
けれど、何もないわけではなかった。
焼けた地面。
逃げる足音。
追う気配。
名前の落ちた声。
それらは、形を失っても消えていない。
古いから薄れるのではない。
終わっていないから、腐らずに残る。
ここにあるのは、ただの記録ではない。
まだ続いているもの。
まだ見ているもの。
まだ声になろうとしているもの。
ネリネは、それを怖いと思う。
でも、怖いと思えるのは、
ちゃんと聞いているからだ。
分からないままでも。
名前が抜けたままでも。
終わっていないと気づいてしまった以上、
もうただの過去としては見られない。
森の奥には、まだ何かがある。
残響ではなく、
続いているものが。




