『迷子の声が導く森』
道は、そこで途切れていた。
けれど、本当に途切れたのは道ではない。
音。
匂い。
気配。
外と内を分けていたものが、
そこから先では意味を失っていく。
声が道になる場所で、
何を聞き、何を選ぶのか。
迷い込んだのか。
導かれたのか。
それすら分からないまま、
森は静かに口を開けている。
道は、そこで途切れていた。
踏み固められていたはずの地面が、急に曖昧になる。人の足跡が消える。
その先にあるのは、ただの森。
見た目は、普通だった。
木々。葉。土。
何も変わらない。
けれど。
ナベリウスが足を止める。
「ここだ」
短く言う。
一歩も進まない。
その場に、固定されるように。
クチナシも止まる。
視線を前に向ける。
何もない。
でも。
“ある”。
ヘルハウンドが低く言う。
「……匂いがしねぇな」
一拍。
「消えてる」
ナベリウスが首を振る。
「違ぇ」
一拍。
「混ざりすぎて分かんねぇだけだ」
その言葉で、空気が重くなる。
ネリネが一歩手前で止まる。
足が出ない。
出そうとしても、出ない。
「……ここ、嫌」
はっきり言う。
誤魔化さない。
理由もつけない。
ただ、本能で拒んでいる。
アスモデウスが横に立つ。
少しだけ近い。
「分かるよ」
軽く言う。
でも、軽くない。
「普通じゃない」
ネリネは苛立つ。
「普通じゃないなんて分かってる」
一拍。
「でも、それじゃ足りないのよ」
言葉が荒い。
でも、正しい。
何がどう嫌なのか分からない。
それが一番気持ち悪い。
その時。
頭上で、何かが揺れた。
葉の影ではない。
鳥でもない。
黒い小さな影が、枝から枝へ、ひょいと移る。
「ケケケ」
場違いなくらい陽気な笑い声が落ちてきた。
全員の視線が上がる。
枝の上。
逆さまにぶら下がる、小さな影。
蝙蝠のような形。
片目はボタン。
けれど、その紫の目だけが妙に生きている。
「おやおや。おたくら、また変なとこ来てるねぇ」
クチナシが少し目を細める。
「……ムルムル」
「お、覚えてるじゃん。ケケケ、うれしいねぇ」
ヴァレフォルがびくりと震える。
ランタンを胸元に抱き寄せる。
「……む、ムルムル……」
「やあやあ、灯り持ちのおたくも元気そうで」
ヴァレフォルは返事をしない。
怖がっている。
でも、目は逸らさない。
ネリネは眉を寄せる。
「……あんた」
一拍。
「知ってる、気がする」
ムルムルは枝の上でくるりと回る。
「気がするだけ? ひどいねぇ、おたく。ケケケ」
「うるさい」
ネリネの声が低くなる。
完全には思い出せない。
でも、知らないとも言えない。
その曖昧さが、胸の奥をざわつかせる。
ナベリウスだけが、はっきりと警戒していた。
「……なんだコイツ」
ムルムルが、ぴたりと動きを止める。
そして、ナベリウスを覗き込む。
「おたくは初めてだねぇ」
「近づくな」
「ケケケ。鼻がよく利きそう」
「うるせぇ。何者だ」
「おいらはムルムル。迷子中」
軽い声。
軽すぎる声。
ヘルハウンドの目が細くなる。
「迷子だと?」
「そうそう。ナアマ様とはぐれちゃってさぁ」
ムルムルは悪びれず笑う。
「気づいたらここ。いやぁ、困った困った」
アスモデウスが静かに見る。
笑っている。
でも、目は笑っていない。
「……へぇ」
一拍。
「この場所で迷子ね」
「ケケケ。あるでしょ、そういうこと」
「ないね」
アスモデウスの返しは軽い。
だが、そこに少しだけ刃が混じる。
ムルムルは気にした様子もなく、枝から落ちるように降りてくる。
地面に触れる寸前で、ふわりと浮いた。
「まあでも、おたくらと会えたし。おいら、運がいい」
ヘルハウンドが低く言う。
「ついてくる気か」
「迷子だからねぇ」
「消えろ」
「ケケケ。怖い怖い」
クチナシはムルムルを見る。
少しだけ考えてから言う。
「……ナアマは、近くにいるの?」
ムルムルの笑いが、ほんの少しだけ止まる。
けれどすぐに戻る。
「さあねぇ。ナアマ様は、来る時は来るし、見てる時は見てるよ」
一拍。
「でも今は、おいらだけ」
その言い方が、妙に引っかかる。
嘘ではない。
でも、全部でもない。
ナベリウスが舌打ちする。
「面倒なのが増えたな」
「おたく、初対面なのに失礼だねぇ」
「初対面だから警戒してんだよ」
「ケケケ。正しい正しい」
ムルムルは楽しそうに笑う。
その軽さが、森の異常さと噛み合っていない。
だからこそ、不気味だった。
クチナシが、ゆっくりと一歩踏み出す。
森の中へ。
境界を越える。
その瞬間。
空気が変わる。
重くなる。
音が落ちる。
外で鳴っていた虫の声が、そこで切れる。
まるで、線を引いたみたいに。
ネリネが息を呑む。
「……今の」
アスモデウスが小さく言う。
「境目だね」
ナベリウスが低く唸る。
「……内側だ」
一拍。
「完全に」
ムルムルがくるりと宙を回る。
「ケケケ。入っちゃったねぇ」
ネリネが睨む。
「楽しそうに言うな」
「楽しくはないよ。面白いだけ」
「同じでしょ」
「違う違う」
ムルムルは笑う。
ヴァレフォルが小さく呟く。
「……こ、ここ……嫌な声がする……」
ムルムルがすぐに反応する。
「お、聞こえる? おたく、やっぱり灯り持ちだねぇ」
ヴァレフォルはランタンを強く抱く。
「……聞きたくない……」
「聞こえるものは聞こえるよ」
明るい声。
それが、余計に冷たい。
ヘルハウンドが続く。
迷わない。
止まらない。
そのまま中へ入る。
ネリネはまだ動かない。
足が重い。
身体が拒んでいる。
でも。
後ろには行かない。
逃げない。
歯を食いしばる。
「……行く」
自分に言う。
一歩。
踏み出す。
その瞬間。
胸の奥が強くざわつく。
何かが引っかかる。
掴めない。
でも、確実にある。
あの手の感触。
夢の中の声。
全部が、一瞬だけ重なる。
「……っ」
足が止まりそうになる。
でも、止まらない。
無理やり、進む。
アスモデウスが横で歩く。
何も言わない。
でも、離れない。
ムルムルが、ネリネの少し上をふわふわ飛ぶ。
「おたく、声が減ってるね」
ネリネの足が止まりかける。
「……何」
「声。いっぱいあったはずなのに、抜けてる」
「意味分かんない」
「ケケケ。分かんないのに反応するんだ」
ネリネが睨む。
「黙って」
「はいはい」
ムルムルは笑って少し離れる。
でも、完全には離れない。
森の中。
静かすぎる。
風がない。
葉も揺れない。
音がしない。
自分たちの足音だけが、やけに響く。
ナベリウスが低く言う。
「……死んでるな」
一拍。
「でも、終わってねぇ」
クチナシが周囲を見る。
木々の間。
何かが見えそうで、見えない。
視界の端に違和感が走る。
でも、捉えきれない。
「……いる」
小さく言う。
ヘルハウンドが頷く。
「見てる」
それだけで十分だった。
ムルムルがくすくすと笑う。
「見てるよ。いっぱいね」
ナベリウスが即座に返す。
「お前は黙ってろ」
「ケケケ。初対面で冷たいなぁ」
「初対面じゃなきゃもっと冷たくするわ」
ネリネが木に触れる。
幹に手を当てる。
冷たい。
でも。
奥に、熱がある。
おかしい。
逆だ。
普通は、逆。
手を離す。
「……嫌」
もう一度言う。
でも、さっきより小さい。
拒絶だけじゃない。
理解できない何かが、混ざっている。
アスモデウスが少し前を見る。
視線が鋭い。
笑っていない。
「近いね」
一拍。
「思ったより」
ナベリウスが頷く。
「濃度が違う」
一拍。
「ここまで来てる」
ムルムルがふわりと前へ出る。
「この森、迷いやすいよ」
クチナシが見る。
「……道が?」
「声が」
ムルムルは笑う。
「どれも道みたいに聞こえるから」
その言葉に、ヴァレフォルが震える。
「……や、やめて……」
「言っただけだよ」
「それが嫌……」
クチナシが静かに言う。
「ムルムル」
一拍。
「怖がらせないで」
ムルムルは、くるりと回る。
「おたく、前よりちゃんと喋るねぇ」
クチナシは返さない。
ただ見る。
ムルムルは笑う。
「ケケケ。分かったよ」
少し進む。
景色は変わらない。
でも。
同じすぎる。
木の間隔。
枝の形。
影の落ち方。
どれも似ている。
繰り返されているみたいに。
ネリネが低く言う。
「……ここ、変」
アスモデウスが答える。
「うん」
一拍。
「作られてる」
その言葉で、空気がさらに重くなる。
クチナシが足を止める。
前を見る。
何かがある。
見えない。
でも、ある。
「……この先」
小さく言う。
ナベリウスが低く答える。
「中心だ」
一拍。
「もうすぐだ」
ネリネは胸を押さえる。
鼓動が早い。
理由は分からない。
でも。
逃げたい。
それと同時に、行かなきゃいけないとも思う。
その矛盾が苦しい。
アスモデウスが横で言う。
「戻る?」
軽く。
でも、試すように。
ネリネは即答する。
「戻らない」
一拍。
「ここまで来て、それはない」
アスモデウスは小さく笑う。
「だよね」
それ以上は言わない。
ムルムルがネリネの横で揺れる。
「ケケケ。戻れないって言えるのはいいねぇ」
「うるさい」
「はいはい」
クチナシが前へ進む。
迷いなく。
ヘルハウンドが並ぶ。
同じ速度で。
ネリネも続く。
アスモデウスも。
ナベリウスも。
ヴァレフォルはランタンを抱えたまま、少し遅れてついてくる。
ムルムルはその上を、迷子とは思えないほど自然についてきた。
森は静かだった。
何も鳴かない。
何も揺れない。
ただ。
見えない何かだけが、確実にそこにあった。
その静けさの中で、ムルムルの笑いだけが小さく残る。
「ケケケ」
迷子のはずの声が、まるで最初からそこへ導かれていたみたいに。
ムルムルは、迷子だと言った。
けれど、その声はあまりにも自然に森へ馴染んでいた。
偶然のように現れて、
何も知らないふりをして、
必要な言葉だけを落としていく。
この森では、声が道になる。
正しい声も。
間違った声も。
失われた声も。
どれも同じように聞こえる。
だから、迷う。
だから、進む。
ネリネはまだ分からない。
でも、反応している。
嫌だと言いながら、戻らない。
怖いと言いながら、足を出す。
その矛盾こそが、まだ消えていない証拠だった。
森は静かだ。
だが、何もないわけではない。
見えないものが見ている。
聞こえない声が残っている。
知らないはずのものが、内側から呼んでいる。
そして、ムルムルの笑い声だけが残る。
迷子のはずの声が、
まるで最初からそこへ導くためにあったように。




