『触れていない手』
戦いの中で、止まる理由はひとつじゃない。
見誤ったわけでも、
遅れたわけでもなく。
ただ、触れられた気がしただけで、
人は足を止める。
そこに何もなくても。
もう届かないものでも。
それでも確かに、
引かれる感覚だけが残る。
森の奥。
空気が、重い。
湿気とも違う。
熱とも違う。
何かが、流れずに溜まっている重さ。
ナベリウスが低く言う。
「……濃すぎるな」
一拍。
「かなり寄ってる。中心に」
クチナシは視線を上げたまま頷く。
「……うん」
短いが、迷いはない。
ヘルハウンドが半歩前へ出る。
ネリネは一歩下がる。
アスモデウスが、その横。
いつもの並び。
だが、誰も余計なことは言わない。
言葉が、邪魔になる空気だった。
影が滲む。
今までより、濃い。
輪郭がある。
腕があり、刃を持ち、構えている。
人の形。
だが、人ではない。
終わらなかったもの。
それが、はっきりと“敵”として立っている。
クチナシが踏み込む。
速い。
判断が先に出る。
槍斧を振る。
斬る。
軌道は正確。
遅れはない。
切れる。
だが――
倒れない。
形を保ったまま、動き直す。
「……面倒」
ネリネが舌打ち混じりに言う。
魔力を叩き込む。
焼く。
裂く。
崩す。
それでも、消えない。
ナベリウスが顔をしかめる。
「“残ってる”やつだ」
一拍。
「流れ切ってねぇ。芯が残ってる」
ヘルハウンドが前に出る。
拳を振り下ろす。
空間ごと叩き潰す。
歪みを無理やり固定する。
形が崩れる。
そこで、ようやく“薄く”なる。
ネリネが踏み込む。
刃を避ける。
最短距離。
身体が覚えている動き。
その途中で。
一瞬だけ。
視界が、揺れる。
――手。
誰かの手。
自分の手首を掴んでいる。
引く。
強すぎず、弱すぎない力。
落ちる前に、引き上げる。
その感触。
確かにあった。
ネリネの動きが、止まる。
ほんの一瞬。
刃が来る。
本来なら避けられるタイミング。
だが――遅れる。
――いない。
さっきの手が。
消えている。
感触だけ残して。
「……待って」
無意識に、声が出る。
戦闘の中で、場違いに。
次の瞬間。
刃が迫る。
ネリネの視界が戻る。
理解が遅れて追いつく。
避けられない。
その瞬間。
横から衝撃。
アスモデウスが割り込む。
刃の軌道をずらす。
クチナシがすぐに入る。
斬る。
今度こそ崩れる。
完全に。
静寂が戻る。
「ネリネ」
呼ばれる。
いつもより、低い。
少しだけ強い。
ネリネの胸が、詰まる。
理由が分からない。
でも、確かに反応する。
「……なに」
返す。
声は出るが、少し揺れている。
アスモデウスが距離を詰める。
近い。
「今、止まったでしょ」
確認。
責めてはいない。
でも、逃がさない。
ネリネは視線を逸らす。
「……別に」
「別にじゃない」
一拍。
「危なかった」
その言い方。
軽くない。
ネリネの言葉が詰まる。
間を埋めるように、強く返す。
「分かってる!」
反射。
怒りに変える。
だが、視線が揺れている。
アスモデウスは少し黙る。
それから、声を落とす。
「……何見たの」
ネリネはすぐには答えられない。
言葉にできない。
あの手の感触。
説明できない。
「……誰か」
ようやく出る。
一言。
アスモデウスの目が細くなる。
「誰か?」
ネリネは首を振る。
「分かんない」
一拍。
「手だけ」
それ以上は続かない。
思い出そうとすると、消える。
掴めない。
アスモデウスは視線を落とす。
考える。
だが、言わない。
クチナシが近づく。
ネリネを見る。
「……平気?」
前より少しだけ滑らかに。
でも短い。
ネリネは間を置く。
「……平気」
完全ではない。
だが立っている。
ヘルハウンドが低く言う。
「戦闘中に止まるな」
厳しい。
だが、必要な言葉。
ネリネは頷く。
「……分かってる」
それ以上は言わない。
ナベリウスがぼそりと呟く。
「……出てきてるな」
一拍。
「形じゃなくて、そっち側が」
アスモデウスが続ける。
「引っ張られてるね」
ネリネが睨む。
「何それ」
「近いってこと」
一拍。
「内側に」
それ以上は言わない。
だが、意味は伝わる。
ネリネはもう一度、自分の手を見る。
何もない。
触れていない。
でも。
確かにあった。
その感触だけが残る。
「……最悪」
小さく吐く。
戦闘は終わる。
影は消える。
だが、空気は戻らない。
ネリネは歩き出す。
少しだけ遅れる。
アスモデウスが横につく。
何も言わない。
ただ、離れない。
ネリネは気づいている。
でも、何も言わない。
さっきの声。
名前を呼ぶ声。
それが残っている。
胸の奥に。
さっきの“誰かの手”と、重なる。
違うはずなのに。
似ている。
その違和感が、抜けない。
気持ち悪い。
でも。
嫌じゃない。
ネリネは前を見る。
足は止めない。
止められない。
少しずつ、分かる。
自分は何かを失っている。
だが、消えてはいない。
だから、引かれる。
見えないものに。
触れられない誰かに。
その感覚を抱えたまま。
ネリネは、前へ進む。
そこには、何もなかった。
触れていたはずの手も、
呼んでいたはずの声も、
もう残ってはいない。
それでも。
感触だけが消えない。
理由は分からない。
名前も分からない。
けれど、それは確かに“あった”。
だから、止まる。
だから、遅れる。
そしてまた、進む。
分からないままでも。
掴めないままでも。
それが残っている限り、
前に進むしかない。




