『満たされないもの』
足りているはずのものが、ある。
食べ物も、水も、形も。
それでも、人は言う。
足りない、と。
それは欠乏ではない。
飢えでもない。
満たされないまま、残ってしまった何か。
それだけが、確かにある。
夏は、重かった。
空気が湿っている。肌にまとわりつく。
虫の声が途切れない。耳に張りつくように続く。
それなのに。
息が浅い。
生き物の気配はあるのに、どこか“偏っている”。
ネリネが小さく吐く。
「……嫌な夏」
アスモデウスが肩をすくめる。
「毎年こんなもんじゃない?」
「今年は違う」
間を置かずに返す。
迷いがない。
アスモデウスはそれ以上軽く流さない。
少しだけ周囲を見る。
「……まあ、そうかもね」
⸻
村に入る。
規模は小さい。
畑もある。水もある。干された作物も見える。
飢えているようには見えない。
けれど。
空気が荒い。
怒鳴り声。物音。擦れる気配。
クチナシが足を止める。
視線が動く。
入口、通り、奥。
一瞬で配置を取る。
判断が早い。
ネリネが横目でそれを見る。
前より迷いがない。
通りの先で、男たちが揉めている。
食料袋を奪い合っている。
「それは俺のだ!」
「嘘つけ、俺が先に見つけた!」
押し合い、殴り合い。
ただの奪い合い。
でも。
目が違う。
空腹じゃない。
焦りでもない。
“削られてる目”。
ネリネが低く言う。
「……あるのに」
一拍。
「なんで奪うの」
ナベリウスが鼻を鳴らす。
「匂いが違ぇ」
一拍。
「腹じゃねぇ」
ヘルハウンドが前に出る。
迷いがない。
男の腕を掴み、そのまま引き剥がす。
もう一人を蹴り飛ばす。
転がる。
一瞬で終わる。
「……何やってんだ」
低い声。
威圧だけで十分。
男たちは止まる。
だが。
視線が袋に戻る。
また動こうとする。
ヘルハウンドが舌打ちする。
「聞こえてねぇな」
クチナシが前に出る。
袋を拾う。
中を見る。
量は足りている。
それを地面に置く。
「……足りてる」
前よりはっきりした言い方。
男たちは止まらない。
ネリネが一歩出る。
魔力を軽く流す。
圧をかける。
強制的に動きを止める。
「……見なさいよ」
低く、押し込むように。
男たちはようやく顔を上げる。
でも。
焦点が合っていない。
「足りないんだよ……」
一人が呟く。
一拍。
「全部足りない」
空気が冷える。
ナベリウスが低く言う。
「……来てるな」
⸻
村の中を進む。
どこも同じ。
食料はある。水もある。
でも奪い合う。
家族同士でも、子どもでも関係ない。
クチナシが小さく言う。
「……おかしい」
以前より言葉が選ばれている。
ヘルハウンドが即座に返す。
「おかしくねぇ」
一拍。
「歪んでるだけだ」
ネリネが吐き捨てる。
「最悪ね」
アスモデウスは黙って見ている。
人じゃなく、流れを見ている。
「広がってるね」
一拍。
「一点じゃない」
ナベリウスが頷く。
「中心、近ぇぞ」
⸻
村の奥。
一人の女が座り込んでいる。
目の前にパン。
食べていない。
手が震えている。
ネリネが言う。
「……食べなさいよ」
女は首を振る。
「足りない……」
一拍。
「これじゃ足りない」
目の前にあるのに。
見えているのに。
足りないと言う。
クチナシがしゃがむ。
目線を合わせる。
動きに迷いがない。
「……何が足りない」
言い方が少し変わる。
問いとして成立している。
女は答えられない。
言葉が出ない。
「足りない」
それだけ繰り返す。
ヘルハウンドが低く言う。
「腹じゃねぇ」
一拍。
「中身が飢えてる」
クチナシが顔を上げる。
ヘルハウンドを見る。
一拍。
そのまま受け取る。
「……中身」
繰り返す。
理解しきれてはいない。
でも、捨てない。
覚える。
⸻
アスモデウスが女の前にしゃがむ。
視線を合わせる。
「ねえ」
声は軽い。
でも、柔らかい。
「何が欲しいの」
女は答えない。
でも口が動く。
「……全部」
一拍。
「全部欲しい」
ネリネが小さく呟く。
「終わってる」
誰も否定しない。
⸻
ナベリウスが顔を上げる。
「……濃い」
一拍。
「この先だ」
クチナシが立ち上がる。
動きに迷いがない。
「……行こう」
短いが、以前より“決めている”声。
ネリネが続く。
ヘルハウンドが前に出る。
アスモデウスが最後に一度だけ村を見る。
何も言わない。
でも、目は細い。
⸻
村を出る。
背中にざわつきを残したまま。
虫の声が戻る。
湿気も変わらない。
でも。
さっきより輪郭がある。
何が起きているのか。
全部は分からない。
でも、方向は見えている。
クチナシが前を見る。
「……進む」
少しだけ変わった言い方。
ヘルハウンドが頷く。
ネリネも。
アスモデウスも。
ナベリウスも。
止まらない。
進む。
“中身を食うもの”の気配へ。
その先にあるものへ。
奪っているのに、満たされない。
持っているのに、足りない。
その理由は、外にはない。
内側が、削られているからだ。
埋めようとしても、埋まらない。
増やしても、満ちない。
だから、求める。
全部を。
理由も形も分からないまま。
それでも残る欠けだけが、
確かにそこにある。




