表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
祈りの残響  作者: ゴンザレス清盛


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

25/283

「外の音、内の影」

その日、彼女は“外”というものを初めてひとつの形として知った。

昼の教会は、少しだけざわついていた。


静かな場所ではある。

けれど、完全に無音ではない。


扉が開く音。

足音。

低い声。


誰かが来て、誰かが去る。


その繰り返し。


石の壁に囲まれた静けさの中へ、外の気配だけが細く持ち込まれてくる。


クチナシは、奥の長椅子の端に座っていた。


目は前を向いている。

けれど、見てはいない。


祭壇の方を向いていても、意識は別のところにある。


耳だけが、音を拾っていた。


「……」


声が、落ちてくる。


小さく。

押さえられた声。


懺悔の場所。


神父の前では、人は自然と声を低くする。

大きく言えないことほど、この場所では静かになる。


それでも、完全には消えない。


「領主様が……」


断片だけが届く。


クチナシの目が、わずかに動く。


「……りょうしゅ」


小さく、口の中で繰り返す。


意味は分からない。


でも、言葉は残る。


音の形だけが、耳の奥へ沈む。


「税が……増えて……」


別の声。


苦しそうな音。


困っている、ということだけは分かる。

意味ではなく、声の重さで。


クチナシは、それを聞く。


分からないまま。

ただ、音として。


別の日。


扉が開く。


外套を着た男が入ってくる。


泥がついている。

長く歩いてきたような足音。


寒さと土の匂いが、一緒に中へ入ってくる。


「隣国が……」


低い声。


「兵を集めていると……」


クチナシの指が、わずかに動く。


膝の上で、知らないうちに指先がきゅっと縮む。


「……りんこく」


繰り返す。


また一つ、知らない言葉。


「噂かもしれませんが……」


神父の声が、静かに返る。


落ち着いた声だった。

相手の震えを、少しだけ受け止めるような声。


クチナシは、そのやり取りを聞いている。


意味は分からない。


でも、どこか重い。


空気が違う。


話している人の肩の硬さ。

低くなりすぎた声。


その全部が、ただの世間話ではないことだけを伝えてくる。


また別の日。


女の声。


震えている。


「森で……見たんです……」


息が乱れている。


言いながら、自分でもそれを思い出したくないみたいな声。


「人じゃないものを……」


クチナシの身体が、ぴくりと動く。


止まる。


「……まもの」


誰かが、小さく言う。


その言葉。


クチナシの中に残る。


消えない。


屋敷で聞いた言葉とも、教会で聞く他の言葉とも、少しだけ違う響きがあった。


「……」


何も言わない。


ただ、じっとしている。


自分の手だけを見ているふりをしながら、耳は離れない。


夕方。


教会の中に、数人が残っている。


燭台の火はまだ小さい。

外の光が薄くなり、石の床の色が少しずつ沈んでいく。


声が、重なる。


「戦になるかもしれない」


誰かが言う。


低く。

押し殺すように。


「……いくさ」


クチナシは、また繰り返す。


言葉だけが増える。


意味は、追いつかない。


でも――


全部、同じ方向を向いている気がした。


重い方へ。

暗い方へ。

何か良くないものが近づいてくる方へ。


クチナシは、じっと座っている。


何もしていない。


でも、何も聞いていないわけではない。


言葉が、少しずつ溜まる。


領主。

隣国。

魔物。

戦。


知らないものばかり。


けれど、どれも神父の前まで運ばれてくる。


ここへやってくる人たちが、重いものを抱えて入ってきて、少しだけ軽くなって帰っていく。


その出入りを見ているうちに、クチナシの中にも、ひとつの形だけはできていく。


全部、外の話だということ。


ここではない場所の話。


この教会の壁の向こう側で、たくさんのことが起きているのだということ。


「……」


クチナシは、少しだけ顔を上げる。


教会の中を見る。


石の壁。

燭台の火。

静かな空気。

変わらない場所。


ここは、いつも同じようにある。


けれど、その外には――


違うものがある。


たくさん。


夜。


人がいなくなる。


扉が閉まり、足音が消え、ようやく本当の静けさが戻る。


クチナシは、神父のそばに立っていた。


少しだけ離れて。

でも、前より近く。


しばらく黙っている。


何から言えばいいのか、自分でも分からないまま。


それから、ぽつりと言う。


「……そと」


神父が顔を上げる。


「外?」


クチナシは頷く。


言葉を探す。


「……いっぱい」


手を少しだけ動かす。


広げるように。


自分の知らないものがたくさんあることを、手の形で言おうとするみたいに。


「……ある」


神父は、それを聞く。


少しだけ間を置く。


クチナシが何を見て、何を拾っていたのかを確かめるように。


「ええ」


静かに答える。


「たくさんあります」


クチナシは、しばらく考える。


それから言う。


「……ここじゃない」


神父は頷く。


「ええ」


クチナシは、そこで止まる。


それ以上は言えない。


でも、分かる。


ここだけではない。

屋敷だけでもない。

教会だけでもない。


外には――


知らないものがある。


たくさん。


そして、人はそれを抱えてここへ来る。


そのことが、ぼんやりと分かり始めていた。


神父は、クチナシを見る。


その目を見る。


少しだけ変わったもの。


閉じていたものが、ほんのわずかに開いている。


見なくていいと思っていた外を、見たいと思い始めた目。


「知りたいですか」


静かに聞く。


クチナシは、すぐには答えない。


少しだけ考える。


知らない言葉。

重い声。

ここではない場所。


怖いかもしれない。


でも、耳はもう拾ってしまっている。


それから、小さく頷く。


「……うん」


神父は、それを聞く。


否定しない。

止めない。


ただ、短く言う。


「少しずつでいい」


クチナシは、その言葉を受け取る。


完全には分からない。


でも、覚える。


全部いっぺんではなくていい。

少しずつなら、知っていってもいい。


その許しのように聞こえた。


その夜。


クチナシは、寝台の上で目を閉じる。


胸元へ手をやる。


白いアザレアの形をしたネックレスに触れる。


細い鎖。

小さな花。

真ん中の赤い石。


指先で、それを確かめる。


もう、眠る前にそうするのは自然なことになっていた。


そのまま、覚えているところだけを小さく口にする。


「……ここにあるものは、つみをうけるもの」


少し間を置く。


「……ここにのこるものは、わすれられないもの」


そこまで。


まだ、その先は言えない。


でも、そこまででも、夜はちゃんと夜になる。


クチナシは、ネックレスを握ったまま黙る。


言葉が浮かぶ。


領主。

隣国。

魔物。

戦。


全部、知らない。


でも、もう何もないものではない。


音だけだったものが、少しずつ“外”というひとつの大きなものの中へ収まっていく。


外には、たくさんのものがある。


ここではない場所のこと。

ここへ来る人たちを重くするもの。


そして、神父はその話を聞いている。


そのことも、今までより少しだけ大きく感じられた。


「……」


クチナシは、目を閉じたまま小さく息を吐く。


意味は、まだ全部分からない。


それでも――


外のことを、少しだけ思う。


まだ見えない世界を、怖がりながら、でも目を逸らさずに。


ほんの少しだけ、触れるように。


眠る前。


クチナシは、一度だけ寝台を降りた。


水を飲もうとしたのか。

それとも、ただ落ち着かなかったのか。


自分でも分からない。


裸足で、廊下へ出る。


教会の中は暗い。


けれど、もう何も見えないほどではない。


月の薄い光が、細く床に落ちている。


クチナシは、ゆっくり歩く。


足音を立てないように。


廊下の奥。


あの部屋の前で、足が止まる。


神父だけが入る部屋。


扉は閉じている。


いつものように。


その前に――


黒い花びらが落ちていた。


一枚。


いいえ。


二枚。


小さく、重なるように。


外から入ってきたようには見えなかった。


窓はない。

風もない。

誰かが歩いた跡もない。


ただ、そこにある。


最初から、この場所に置かれていたみたいに。


クチナシは、それを見る。


「……」


近づく。


しゃがむ。


手を伸ばす。


指先が、花びらのすぐそばまで行く。


けれど――


止まる。


触れてはいけない気がした。


理由は分からない。


でも、そう思った。


神父に言われたからではない。


あの時の声が、身体の奥に残っていたからかもしれない。


あるいは。


それよりも前から、自分の中のどこかが知っていたのかもしれない。


クチナシは、手を引く。


そのまま立ち上がる。


何も拾わない。


何も動かさない。


ただ、黒い花びらを見下ろしている。


その時。


花びらの一枚が、わずかに動いた。


風はない。


廊下も静か。


それでも、ほんの少しだけ、向きが変わる。


まるで、こちらを見たみたいに。


「……」


クチナシは、息を止める。


すぐに、もう一枚も動く。


ほんのわずかに。


それから、静かになる。


何もなかったように。


クチナシは、少しだけ後ずさる。


怖い、とは少し違った。


でも、落ち着かない。


胸元のネックレスを、無意識に握る。


白い花の形。


冷たい金属。


その感触を確かめてから、ゆっくりと部屋へ戻る。


扉の前の黒い花びらは、そのまま残っていた。


外の話を聞いた日。


教会の外にあるものを、少しだけ知った夜。


外から来たはずのないものが、教会のいちばん奥に近い場所まで入り込んでいた。


クチナシは、その意味を知らない。


知らないまま、寝台へ戻る。


白いアザレアのネックレスを握ったまま、目を閉じる。


静けさの中で。


外のことと、内側に落ちた黒い花びらのことが、うまく分かれないまま、胸の奥に沈んでいった。

外のものは、もう扉の向こうに留まらなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ