「会いたくなること」
いないと分かっていても、会いたくなることはある。
午後の光は、少しだけ弱かった。
教会の中は静かだった。
いつものように。
クチナシは、裏口のそばに立っていた。
外を見る。
森の方。
遠くに、暗い影。
木が並ぶ場所。
風が、ほんの少しだけ流れてくる。
冷たくも、強くもない。
その中に、かすかに何かが混じっていた。
クチナシの目が、わずかに動く。
白いアザレアの前に立った時、時々胸の奥へ残る匂いに似ていた。
土でもなく、草でもなく、ただ花というには少し淡すぎる、薄い残り香。
「……」
少しだけ、足が動く。
一歩。
外へ出る。
止まらない。
そのまま、歩く。
教会から、少し離れる。
さらに、少し。
風がまた吹く。
その匂いが、今度はもう少しはっきりする。
クチナシは、立ち止まる。
胸の奥が、わずかに動く。
もういないことは分かっている。
墓の前に立つたびに、それは分かる。
白いアザレアのそばにしゃがむたびに、そこに母はいないのだと知る。
それでも――
似ていた。
あの場所の花に。
あの花を見る時の神父の顔に。
自分の知らない、母というものに。
「……おかあさん」
小さく、声にならないくらいの音がこぼれる。
足が、また動く。
理由は、うまく言えない。
死にたいわけではない。
消えたいわけでもない。
ただ、会えるかもしれないと思ってしまった。
ほんの少し。
ほんの一瞬。
もういないと分かっているのに、匂いの先に行けば、もしかしたら何かがあるのではないかと。
それだけだった。
そのまま歩く。
森の入口。
昼でも暗い場所。
クチナシは、そこに立つ。
見ている。
中を。
「……」
怖くはない。
前に来たことがある。
夜。
あのとき。
でも、今はあの時と違う。
終わりに向かって来たのではなく、
何かが残っている方へ、引かれるように来ている。
足が、もう一歩進む。
枝を踏む音。
小さく。
そのまま、奥へ。
少しだけ。
ほんの少しだけ。
森の中は、湿って暗い。
光は細く、地面に届く前に弱くなる。
匂いは、さっきより濃いような、もう消えてしまったような、曖昧なまま漂う。
クチナシは、立ち止まる。
見回す。
誰もいない。
何もいない。
ただ、木と影と、冷たい空気だけ。
「……」
分かっている。
会えるわけではない。
そんなふうに、急に現れるわけがない。
それでも、ここまで来てしまった。
会いたいと思ってしまった。
そのことだけが、静かに残る。
クチナシは、しばらくそこに立っていた。
それから、ゆっくりと踵を返す。
それ以上は進まない。
戻る。
教会の方へ。
⸻
戻ってきたとき、空は少し傾いていた。
クチナシは、何もなかったみたいに歩く。
教会へ。
裏口へ。
扉を開ける。
中に入る。
そのとき――
「どこへ行っていましたか」
声が落ちる。
低く。
クチナシの身体が、ぴたりと止まる。
振り返る。
神父が、そこに立っていた。
目が合う。
逃げられない。
「……」
言葉が出ない。
神父は、もう一度言う。
「どこへ行っていましたか」
同じ声で。
でも、少しだけ強い。
クチナシの喉が動く。
「……そと」
曖昧に言う。
神父は、動かない。
「どこまでです」
クチナシは、答えない。
視線が揺れる。
逸らす。
戻す。
「……もり」
小さく。
その瞬間、空気が変わる。
神父の表情は変わらない。
でも、何かが沈む。
「一人で?」
クチナシは頷く。
小さく。
神父は、しばらく何も言わない。
その沈黙が、重い。
クチナシの指が、わずかに動く。
逃げたい。
でも、動けない。
「……」
神父が、一歩近づく。
「なぜ行ったのです」
クチナシは、答えられない。
言葉がうまくまとまらない。
理由がないわけではない。
でも、言ったらもっと変なものになる気がする。
「……」
沈黙。
神父の声が、少しだけ低くなる。
「勝手なことをしてはいけません」
はっきりと。
クチナシの身体が、びくりと揺れる。
その声。
怒鳴りではない。
でも、強い。
逃げ場がない。
「森は危険です」
続ける。
「何がいるか分からない場所に、一人で入ってはいけない」
クチナシの目が、揺れる。
「……」
言葉が出ない。
胸の奥が、冷える。
「……ごめ」
出かけて、止まる。
うまく言えない。
神父は、それを聞く。
少しだけ、息を吐く。
それでも、声は変わらない。
「分かっていますか」
問う。
クチナシは、頷く。
小さく。
でも、震えている。
「……うん」
神父は、しばらくそのまま見ている。
クチナシの顔を。
目を。
逃げていないかを。
それから、少しだけ声を落とす。
「もうしませんか」
クチナシは、すぐに頷く。
「……しない」
小さく。
神父は、それを聞いて、少しだけ間を置く。
それから――
「なぜ行ったのです」
今度は、さっきより低くない声で聞く。
責めるためではなく、知るための声だった。
クチナシは、止まる。
言わないままでもいられた。
でも、神父は待っている。
急かさず、逃がさず。
クチナシは、少しだけ唇を開く。
閉じる。
また開く。
「……におい」
小さく言う。
神父の目が、わずかに動く。
クチナシは続ける。
「……あざれあ」
それだけで、神父の表情がほんの少しだけ変わる。
変わると言っても、顔にはほとんど出ない。
でも、知っている者だけが分かるほどに、目の奥が止まる。
クチナシは、それには気づかない。
ただ、言葉を続ける。
「……した」
喉がつまる。
それでも、少しずつ押し出す。
「……もしかしたら」
止まる。
うまく言えない。
胸の奥が苦しい。
もういないことは分かっている。
分かっているのに、匂いを追ってしまったことを、自分でもうまく説明できない。
「……いるかもって」
やっと言う。
「……おもった」
そのあと、もっと小さくなる。
「……あいたく、なった」
静かになる。
神父は、何も言わない。
クチナシは、視線を上げられない。
間違ったことを言った気がした。
おかしなことを言った気がした。
もういないのに。
自分でも分かっているのに。
それでも、会えるかもしれないと思ってしまった。
「……」
沈黙が落ちる。
長い。
けれど、さっきまでの冷たい沈黙とは少し違う。
神父は、ゆっくりと息を吐く。
その音は小さい。
「そうですか」
それだけを言う。
否定しない。
笑わない。
間違いだとも言わない。
クチナシの喉が、少しだけ動く。
神父は続ける。
「会いたくなることは、悪いことではありません」
静かな声。
クチナシの目が、わずかに上がる。
神父は、その目を見る。
「ですが」
少しだけ、声が硬くなる。
「だからといって、一人で森へ行ってはいけない」
はっきりと。
その線だけは消さない。
クチナシは、止まる。
叱られている。
でも、それだけではない。
「心配したのです」
神父が言う。
クチナシの動きが、また止まる。
「……」
意味が、すぐには入らない。
「戻らなければ、探しに行くところでした」
神父は続ける。
「それがどれだけ危ないことか、分かりますか」
クチナシは、言葉を失う。
怒られている。
そう思っていた。
でも――
違う。
何かが違う。
神父の顔は静かだ。
それでも、その静けさの底にあるものがさっきより近い。
「……」
神父の声は、もう低くない。
元に戻っている。
でも、消えてはいない。
「お前がいなくなることを、私は望みません」
はっきりと言う。
クチナシの目が、大きくなる。
その言葉。
初めて聞く形。
「……」
何も言えない。
神父は、それ以上は言わない。
ただ、少しだけ距離を戻す。
「手を洗いなさい」
いつもの声で言う。
「それから中へ」
クチナシは、動かない。
しばらく、その場に立っている。
胸の奥が、変だ。
さっきの冷たさとは違う。
重い。
でも、痛くない。
会いたいと思ったことを、否定されなかった。
でも、森へ行ったことは止められた。
その二つが、胸の中でまだうまく分かれない。
「……うん」
やっと言う。
小さく。
それから、ゆっくりと動く。
水場へ向かう。
手を洗う。
水が冷たい。
でも、さっきよりはましだった。
⸻
クチナシが水場へ向かったあと、神父はしばらくその場に立っていた。
水の音がする。
小さく。
途切れながら。
クチナシが手を洗っている音だった。
神父は、それを聞いてから、ゆっくりと裏庭へ向かう。
小さな石。
白いアザレア。
母のための場所。
夕方の光は薄く、花の白さも少し沈んで見えた。
神父は、その前で足を止める。
そして、見る。
白い花の根元に、黒い花びらが落ちていた。
一枚ではない。
二枚。
三枚。
土の上に、静かに散っている。
風はない。
なのに、そのうち一枚だけが、ほんのわずかに向きを変えた。
神父は、動かない。
拾わない。
払わない。
触れない。
ただ、見ている。
その顔は、いつものように静かだった。
けれど、目だけがわずかに硬い。
神父は、少しだけ膝を折る。
花びらに手を伸ばすほど近づく。
けれど、触れない。
指先は、土の上で止まる。
「……まだ」
低く、誰にも聞こえない声で呟く。
それが何に向けた言葉なのかは、分からない。
黒い花びらは、答えない。
ただ、白いアザレアの根元で、静かにそこにある。
神父は、しばらくそのまま見ていた。
それから、ゆっくりと立ち上がる。
花びらは、そのまま。
触れられないまま。
白い花のそばに残される。
神父は、何もなかったように教会へ戻った。
けれど、その背中は、さっきよりもほんの少しだけ重かった。
⸻
夜。
クチナシは、寝台にいた。
目を閉じる。
思い出す。
森の匂い。
暗い木々。
会えるかもしれないと思ってしまったこと。
神父の声。
低い声。
叱る声。
そして――
「会いたくなることは、悪いことではありません」
その言葉。
「……」
クチナシは、小さく息を吐く。
会いたいと思ってしまったことまで、悪いのではなかった。
そこだけが、静かに残っている。
ネックレスに触れる。
白いアザレアの形。
小さな赤。
それを握る。
いつものように、目を閉じたまま覚えているところだけを口にする。
「……ここにあるものは、つみをうけるもの」
少し間を置く。
「……ここにのこるものは、わすれられないもの」
そこまで。
今日は、その言葉がいつもより少しだけ深く落ちる。
忘れられないもの。
会いたくなるもの。
いなかったことにしないもの。
その形が、少しだけ母の場所と重なる。
クチナシは、ネックレスを握ったまま黙る。
嫌われたわけではなかった。
捨てられるわけでもなかった。
会いたいと思ったことも、ここから追い出される理由にはならなかった。
それが――
少しだけ分かる。
クチナシは、静かに眠る。
その中に、ひとつ新しい感覚を残したまま。
母はいなくても、会いたいと思うことは消えない。
そして、その気持ちごと抱えたまま、ここにいてもいいのだと。
ほんの少しだけ、知り始めながら。
会いたい気持ちごと、ここにいてよかった。




