「消すものではありません」
怖いものが、自分の中から出てきた。
夕方は、少しだけ曇っていた。
光が薄い。
窓の外は、灰色に近い。
教会の中も、少しだけ暗い。
燭台の火が、ゆっくりと揺れている。
壁に落ちる影も、昼より淡く、頼りなかった。
クチナシは、机のそばに立っていた。
水を入れた器を持っている。
床を拭くためのもの。
いつもの仕事だった。
手を伸ばす。
布を濡らす。
絞る。
水面が、わずかに揺れる。
そのとき――
扉の外で、声がした。
通りの向こう。
人の声。
はっきりとは聞こえない。
けれど、断片だけが届く。
「……あの子だろ」
「気味が悪い」
「森の――」
クチナシの手が、止まる。
布が、水の中で動かない。
耳が、その声を拾う。
聞こうとしているわけではないのに、聞こえてしまう。
「母親もおかしかったって」
「やっぱり血だよ」
笑い声。
軽い。
遠い。
でも――
消えない。
「……」
クチナシの胸の奥で、何かが動く。
前にもあった。
嫌だ、と思った時。
自分の中で何かが揺れた時。
でも、今は少し違う。
もっと深い。
もっと重い。
息が、少しだけ浅くなる。
手が、わずかに震える。
水面が――
波打つ。
ほんの小さく。
風はない。
触れてもいない。
それでも、揺れる。
クチナシの目が、そこへ落ちる。
止まる。
「……?」
分からない。
自分でやったのかどうかも、分からない。
もう一度、息を吸う。
その瞬間――
燭台の火が、大きく揺れた。
ぱち、と音を立てる。
窓が、かすかに鳴る。
外の風ではない。
内側から押されたみたいに、木枠がわずかに軋む。
クチナシの指先に、熱が走る。
じん、と。
遅れて、痺れが来る。
「……っ」
思わず、手を引く。
器が揺れる。
水がこぼれる。
床に落ちる。
「……」
息が乱れる。
心臓が速い。
何かが起きている。
自分の周りで。
自分から。
「……やだ」
小さく言う。
後ずさる。
壁に背が当たる。
逃げる場所がない。
もう一度、手を見る。
震えている。
何も持っていないのに。
「……やっぱり」
言葉が、自然に出る。
「……ばけもの」
そのまま。
小さく。
でも、はっきりと。
クチナシの目が、揺れる。
怖い。
何かが出てきた。
自分の中から。
止められないものが。
「……」
息が乱れる。
もう一度、何かが動きかける。
そのとき――
「クチナシ」
声が落ちる。
神父だった。
静かに。
でも、はっきりと。
クチナシの動きが止まる。
振り返る。
神父が、そこにいる。
いつの間にか。
「……」
何も言えない。
神父は近づく。
急がない。
慌てない。
そのまま、クチナシの前で止まる。
床の水を見る。
揺れた火を見る。
クチナシを見る。
全部を見る。
「今のは」
ゆっくりと言う。
「お前の力です」
クチナシの目が、揺れる。
すぐに首を振る。
「……ちがう」
「……だめなやつ」
神父は、すぐには否定しない。
ほんの少しだけ間を置く。
それから、同じように言う。
「力です」
もう一度。
同じ言葉を。
クチナシは、震える。
「……ばけもの」
繰り返す。
神父の視線が、わずかに強くなる。
「違います」
はっきりと言う。
クチナシの動きが、止まる。
その声音には、逃がさない固さがあった。
神父は続ける。
「それを持っているからといって、お前がそうなるわけではない」
静かに。
でも、揺れない声で。
クチナシは、言葉を失う。
理解はできない。
すぐには、入ってこない。
でも――
否定された。
その言葉を。
自分に向けて、何度も浴びせられてきた名前を。
「……」
神父は、少しだけ近づく。
手を伸ばす。
触れる。
クチナシの手に。
さっきまで熱があった場所に。
逃げない。
痛くない。
ただ、触れられる。
その手の中で、何も揺れない。
「怖いですか」
聞く。
クチナシは、少しだけ間を置く。
喉がつまる。
それでも、頷く。
「……こわい」
小さく。
神父は、頷く。
「そうでしょう」
否定しない。
そのまま受け取る。
怖がることまで、間違いだとは言わない。
「ですが」
少しだけ声が低くなる。
「それは、お前を否定する理由にはなりません」
クチナシは、止まる。
手を見ている。
触れられている手。
何も起きない。
もう、揺れない。
火も、水も、静かに戻っている。
「……」
ゆっくりと、息を吐く。
まだ怖い。
でも――
少しだけ、違う。
「……これ」
言葉を探す。
「……なくなる?」
神父は、首を横に振る。
「分かりません」
正直に言う。
「ですが」
続ける。
「消すものではありません」
クチナシは、それを聞く。
意味は分からない。
でも、残る。
消すものではない。
なくすものではない。
怖いのに。
それでも。
「……」
神父は、手を離す。
それでも、すぐには離れない。
そばにいる。
その距離で。
クチナシは、もう一度手を見る。
震えは、少しだけ収まっている。
何も起きない。
静かだった。
さっきまでのざわめきだけが、胸の奥に残っている。
「……」
小さく息を吐く。
まだ怖い。
でも――
さっきより、少しだけ違う。
自分の中にあるものを、全部“だめなもの”の方へ押しやれなくなっている。
その夜。
教会は、いつもより少し早く静かになった。
燭台の火は落ち着き、窓ももう鳴らない。
昼の揺れが嘘だったみたいに、空気は静かだった。
クチナシは、寝台の上にいた。
胸元へ手を持っていく。
白いアザレアの形をしたネックレスに触れる。
細い鎖。
小さな花。
中心の赤い石。
それを、そっと握る。
もう、それは夜ごとに繰り返すことになっていた。
祈る前に、そこへ触れること。
母の場所へ行った日も、行かなかった日も、眠る前には一度そうすること。
クチナシは、目を閉じる。
遠くの祭壇の前で、神父が祈る気配がある。
言葉はここまでは届かない。
それでも、同じ夜の中にその静けさがあるのが分かる。
クチナシは、覚えているところだけを小さく口にする。
「……ここにあるものは、つみをうけるもの」
その瞬間――
どこかで、音がした。
かすかな音。
触れたような、落ちたような。
とても小さい。
クチナシは、気づかない。
そのまま、少し間を置く。
「……ここにのこるものは、わすれられないもの」
また――
同じ音がする。
ひとつ。
さっきと同じくらい、小さく。
何かが、静かに落ちる音。
⸻
その音は、部屋の中ではない。
窓の外。
裏庭の方。
白いアザレアのそば。
黒い花びらが、一枚。
言葉の終わりと同時に、土の上へ落ちていた。
風はない。
揺れもない。
ただ、落ちる。
それだけ。
⸻
クチナシは、気づかない。
ネックレスを握ったまま、少しだけ息を整える。
「……」
その先の言葉は、まだ出てこない。
だから、そこで止まる。
でも――
止まったことで、もう一度、外で音がする。
落ちる音ではない。
“待っている”ような、静かな間。
⸻
クチナシは、何も知らないまま、花の形を指でなぞる。
白い花。
赤い石。
その感触に、少しだけ落ち着く。
昼のざわつきが、遠くなる。
自分の中のものも、まだ名前を持たないまま、そこにある。
⸻
外では。
黒い花びらが、もう一枚。
今度は、少し遅れて落ちる。
まるで――
“続きを待っていた”みたいに。
⸻
クチナシは、そのまま目を閉じる。
夜は深くなっていく。
祭壇の方から、神父の祈りの気配だけが、見えないまま残っている。
白いアザレアのネックレスを握る手は、眠りに落ちる直前までほどけなかった。
⸻
翌朝。
裏庭。
白いアザレアの根元に、黒い花びらが増えていた。
昨日よりも、わずかに。
二枚。
三枚。
位置は、少しだけ変わっている。
風はない。
それでも――
一枚だけ、ゆっくりと、土の上で向きを変える。
彼女が祈りを止めたあとも、黒い花びらは続きを待っていた。




