表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
祈りの残響  作者: ゴンザレス清盛


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

24/283

「消すものではありません」

怖いものが、自分の中から出てきた。

夕方は、少しだけ曇っていた。


光が薄い。

窓の外は、灰色に近い。


教会の中も、少しだけ暗い。


燭台の火が、ゆっくりと揺れている。

壁に落ちる影も、昼より淡く、頼りなかった。


クチナシは、机のそばに立っていた。


水を入れた器を持っている。

床を拭くためのもの。


いつもの仕事だった。


手を伸ばす。

布を濡らす。

絞る。


水面が、わずかに揺れる。


そのとき――


扉の外で、声がした。


通りの向こう。


人の声。


はっきりとは聞こえない。

けれど、断片だけが届く。


「……あの子だろ」


「気味が悪い」


「森の――」


クチナシの手が、止まる。


布が、水の中で動かない。


耳が、その声を拾う。


聞こうとしているわけではないのに、聞こえてしまう。


「母親もおかしかったって」


「やっぱり血だよ」


笑い声。


軽い。

遠い。


でも――


消えない。


「……」


クチナシの胸の奥で、何かが動く。


前にもあった。


嫌だ、と思った時。

自分の中で何かが揺れた時。


でも、今は少し違う。


もっと深い。

もっと重い。


息が、少しだけ浅くなる。


手が、わずかに震える。


水面が――


波打つ。


ほんの小さく。


風はない。

触れてもいない。


それでも、揺れる。


クチナシの目が、そこへ落ちる。


止まる。


「……?」


分からない。


自分でやったのかどうかも、分からない。


もう一度、息を吸う。


その瞬間――


燭台の火が、大きく揺れた。


ぱち、と音を立てる。


窓が、かすかに鳴る。


外の風ではない。


内側から押されたみたいに、木枠がわずかに軋む。


クチナシの指先に、熱が走る。


じん、と。


遅れて、痺れが来る。


「……っ」


思わず、手を引く。


器が揺れる。

水がこぼれる。

床に落ちる。


「……」


息が乱れる。


心臓が速い。


何かが起きている。


自分の周りで。

自分から。


「……やだ」


小さく言う。


後ずさる。


壁に背が当たる。

逃げる場所がない。


もう一度、手を見る。


震えている。


何も持っていないのに。


「……やっぱり」


言葉が、自然に出る。


「……ばけもの」


そのまま。


小さく。

でも、はっきりと。


クチナシの目が、揺れる。


怖い。


何かが出てきた。

自分の中から。

止められないものが。


「……」


息が乱れる。


もう一度、何かが動きかける。


そのとき――


「クチナシ」


声が落ちる。


神父だった。


静かに。

でも、はっきりと。


クチナシの動きが止まる。


振り返る。


神父が、そこにいる。


いつの間にか。


「……」


何も言えない。


神父は近づく。


急がない。

慌てない。


そのまま、クチナシの前で止まる。


床の水を見る。

揺れた火を見る。

クチナシを見る。


全部を見る。


「今のは」


ゆっくりと言う。


「お前の力です」


クチナシの目が、揺れる。


すぐに首を振る。


「……ちがう」


「……だめなやつ」


神父は、すぐには否定しない。


ほんの少しだけ間を置く。


それから、同じように言う。


「力です」


もう一度。

同じ言葉を。


クチナシは、震える。


「……ばけもの」


繰り返す。


神父の視線が、わずかに強くなる。


「違います」


はっきりと言う。


クチナシの動きが、止まる。


その声音には、逃がさない固さがあった。


神父は続ける。


「それを持っているからといって、お前がそうなるわけではない」


静かに。

でも、揺れない声で。


クチナシは、言葉を失う。


理解はできない。

すぐには、入ってこない。


でも――


否定された。


その言葉を。

自分に向けて、何度も浴びせられてきた名前を。


「……」


神父は、少しだけ近づく。


手を伸ばす。


触れる。


クチナシの手に。


さっきまで熱があった場所に。


逃げない。

痛くない。

ただ、触れられる。


その手の中で、何も揺れない。


「怖いですか」


聞く。


クチナシは、少しだけ間を置く。


喉がつまる。


それでも、頷く。


「……こわい」


小さく。


神父は、頷く。


「そうでしょう」


否定しない。


そのまま受け取る。


怖がることまで、間違いだとは言わない。


「ですが」


少しだけ声が低くなる。


「それは、お前を否定する理由にはなりません」


クチナシは、止まる。


手を見ている。


触れられている手。


何も起きない。


もう、揺れない。


火も、水も、静かに戻っている。


「……」


ゆっくりと、息を吐く。


まだ怖い。


でも――


少しだけ、違う。


「……これ」


言葉を探す。


「……なくなる?」


神父は、首を横に振る。


「分かりません」


正直に言う。


「ですが」


続ける。


「消すものではありません」


クチナシは、それを聞く。


意味は分からない。


でも、残る。


消すものではない。

なくすものではない。


怖いのに。

それでも。


「……」


神父は、手を離す。


それでも、すぐには離れない。


そばにいる。


その距離で。


クチナシは、もう一度手を見る。


震えは、少しだけ収まっている。


何も起きない。


静かだった。


さっきまでのざわめきだけが、胸の奥に残っている。


「……」


小さく息を吐く。


まだ怖い。


でも――


さっきより、少しだけ違う。


自分の中にあるものを、全部“だめなもの”の方へ押しやれなくなっている。


その夜。


教会は、いつもより少し早く静かになった。


燭台の火は落ち着き、窓ももう鳴らない。

昼の揺れが嘘だったみたいに、空気は静かだった。


クチナシは、寝台の上にいた。


胸元へ手を持っていく。


白いアザレアの形をしたネックレスに触れる。


細い鎖。

小さな花。

中心の赤い石。


それを、そっと握る。


もう、それは夜ごとに繰り返すことになっていた。


祈る前に、そこへ触れること。

母の場所へ行った日も、行かなかった日も、眠る前には一度そうすること。


クチナシは、目を閉じる。


遠くの祭壇の前で、神父が祈る気配がある。

言葉はここまでは届かない。

それでも、同じ夜の中にその静けさがあるのが分かる。


クチナシは、覚えているところだけを小さく口にする。


「……ここにあるものは、つみをうけるもの」


その瞬間――


どこかで、音がした。


かすかな音。


触れたような、落ちたような。


とても小さい。


クチナシは、気づかない。


そのまま、少し間を置く。


「……ここにのこるものは、わすれられないもの」


また――


同じ音がする。


ひとつ。


さっきと同じくらい、小さく。


何かが、静かに落ちる音。



その音は、部屋の中ではない。


窓の外。


裏庭の方。


白いアザレアのそば。


黒い花びらが、一枚。


言葉の終わりと同時に、土の上へ落ちていた。


風はない。


揺れもない。


ただ、落ちる。


それだけ。



クチナシは、気づかない。


ネックレスを握ったまま、少しだけ息を整える。


「……」


その先の言葉は、まだ出てこない。


だから、そこで止まる。


でも――


止まったことで、もう一度、外で音がする。


落ちる音ではない。


“待っている”ような、静かな間。



クチナシは、何も知らないまま、花の形を指でなぞる。


白い花。

赤い石。


その感触に、少しだけ落ち着く。


昼のざわつきが、遠くなる。


自分の中のものも、まだ名前を持たないまま、そこにある。



外では。


黒い花びらが、もう一枚。


今度は、少し遅れて落ちる。


まるで――


“続きを待っていた”みたいに。



クチナシは、そのまま目を閉じる。


夜は深くなっていく。


祭壇の方から、神父の祈りの気配だけが、見えないまま残っている。


白いアザレアのネックレスを握る手は、眠りに落ちる直前までほどけなかった。



翌朝。


裏庭。


白いアザレアの根元に、黒い花びらが増えていた。


昨日よりも、わずかに。


二枚。

三枚。


位置は、少しだけ変わっている。


風はない。


それでも――


一枚だけ、ゆっくりと、土の上で向きを変える。


彼女が祈りを止めたあとも、黒い花びらは続きを待っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ