「欲しいと言った日」
欲しいと言うことも、彼女には初めてだった。
昼の光は、少しだけ揺れていた。
町の端。
小さな露店が並ぶ場所。
布がかけられ、木箱が置かれ、色の違うものが並んでいる。
陽の光を受けて、金属やガラスの小さな欠片がときどき淡く光る。
クチナシは、神父の隣を歩いていた。
距離はいつも通り。
近すぎず、離れすぎない。
人の声がある。
物の音がある。
それでも、前よりは止まらない。
歩けている。
その中で――
クチナシの視線が、ひとつの場所で止まる。
小さな露店。
木の皿の上に、いくつかのものが置かれている。
石。
紐。
金属の小さな飾り。
色の薄い硝子玉。
その中に、ひとつ。
細い鎖に、小さな白い花をかたどった飾りがついたもの。
花弁はやわらかく開くような形で、中心に小さな赤い石が埋め込まれている。
白の中に、ほんのひとつだけ赤がある。
光を受けて、わずかに揺れる。
白いアザレアを思わせる、小さな形だった。
クチナシの足が、ほんの少しだけ遅くなる。
目が、そこに残る。
動かない。
でも、止まらない。
そのまま通り過ぎる。
⸻
数歩進む。
それでも――
振り返る。
ほんの一瞬だけ。
白い花の形。
小さな赤。
また、前を見る。
何も言わない。
歩く。
神父は、何も言わない。
ただ、歩く。
同じ速さで。
⸻
教会へ戻る。
扉をくぐる。
静かになる。
音が減る。
いつもの空気。
クチナシは、その中に入る。
歩く。
椅子に座る。
手を膝に置く。
何も持たない。
「……」
さっきのものが、残っている。
白い花。
細い鎖。
真ん中の赤い石。
揺れていた光。
「……」
目を閉じる。
思い出す。
すぐには消えない。
でも――
口には出ない。
⸻
神父が、机の向こうから言う。
「クチナシ」
クチナシは顔を上げる。
「先ほど、何を見ていましたか」
静かな声。
クチナシは、少しだけ止まる。
言葉を探す。
出てこない。
「……」
視線が揺れる。
逸らす。
また戻す。
「……なにも」
小さく言う。
神父は、それを聞く。
少しだけ間を置く。
それから、もう一度言う。
「もう一度聞きます」
同じ声で。
「何を見ていましたか」
クチナシは、動かない。
逃げない。
でも、言えない。
言い方が分からない。
言っていいか分からない。
「……」
しばらくして、やっと言う。
「……しろいの」
曖昧な言葉。
神父は、頷く。
「首にかけるものです」
クチナシは、少しだけ目を動かす。
当たっている。
それでいい。
それ以上は言わない。
神父は、しばらくクチナシを見る。
そのまま、続ける。
「欲しいのですか」
クチナシの身体が、ぴくりと動く。
止まる。
言葉が、出ない。
「……」
否定もしない。
肯定もしない。
ただ、沈黙する。
神父は、それを見ている。
逃がさないように。
でも、追い詰めないように。
「欲しいなら」
ゆっくりと言う。
「欲しいと言いなさい」
クチナシは、目を上げる。
神父を見る。
意味が分からない。
「……」
神父は続ける。
「お前は、欲しがっていい」
静かに。
揺れない声で。
クチナシは、それを聞く。
理解しきれない。
でも、胸の奥に引っかかる。
「……だめ」
小さく言う。
神父は、首を横に振る。
「だめではありません」
短く。
クチナシは、動かない。
「……ない」
言葉が足りない。
でも、続ける。
「……そういうの」
神父は、それを聞く。
「誰が決めましたか」
クチナシは、答えない。
分からない。
でも、ずっとそうだった。
欲しがると怒られる。
触ると叩かれる。
持つと取り上げられる。
それが、普通だった。
「……」
神父は、少しだけ間を置く。
それから、言う。
「ここでは違います」
クチナシは、止まる。
その言葉が、すぐには入らない。
「欲しいなら、言いなさい」
もう一度。
同じ言葉。
クチナシは、口を開く。
閉じる。
また開く。
声が出ない。
喉が、うまく動かない。
「……」
時間が、少しだけ流れる。
静かに。
やがて――
「……ほしい」
小さく。
ほとんど消えそうな声で。
でも、確かに。
神父は、それを聞く。
ほんの一瞬だけ、目を細める。
それから頷く。
「分かりました」
それだけ。
⸻
次の日。
神父は、外から戻ってくる。
手に、小さな包みを持っている。
クチナシは、それを見る。
何も言わない。
神父は、机の上に置く。
包みを開く。
中から、あの飾りが出てくる。
細い鎖。
小さな白い花。
中心に、ひとつだけ赤い石。
光の下で見ると、それは昨日よりもはっきりとアザレアの形をしていた。
白い花弁は、壊れそうなほど薄く作られている。
その真ん中の赤は、小さいのに妙に目に残る。
神父の手が、そのネックレスの上で一瞬だけ止まる。
ほんの一瞬。
視線が、白い花に落ちる。
その白の中に、赤がある。
その形を見た時だけ、神父の目が少しだけ遠くなる。
白い髪。
赤い目。
ひどく美しく、今にも壊れてしまいそうだった女。
もういない、その姿が、影のように過る。
クチナシは、その変化を見ている。
ほんの少しだけ。
いつも白いアザレアを見る時に似た、あの一瞬の顔。
淋しい、という言葉に近い顔。
でも、それはすぐに消える。
神父は、いつもの静かな顔に戻って言う。
「お前のものです」
クチナシは、近づかない。
ただ、見ている。
「……いいの」
小さく言う。
神父は頷く。
「ええ」
それ以上は言わない。
クチナシは、ゆっくりと手を伸ばす。
触れる。
冷たい。
持ち上げる。
軽い。
白い花が、指先でかすかに揺れる。
「……」
しばらく、それを見ている。
花の形。
真ん中の赤。
自分の目の色に少し似ているような気もした。
けれど、そんなことをうまく言葉にはできない。
それから、少しだけ首に当てる。
うまくつけられない。
神父が、静かに手を伸ばす。
後ろから留める。
触れ方は、いつもと同じ。
痛くないように。
ゆっくりと。
クチナシは、じっとしている。
やがて、花が胸元に落ちる。
小さく揺れる。
白い花が、赤い髪の上で静かに止まる。
その中心の赤だけが、わずかに光を返す。
神父は、それを見て、またほんの一瞬だけ目を伏せる。
クチナシの赤い髪、赤い目。
その赤い目は、別の誰かを思い出させる。
クチナシは、それには気づかない。
ただ、胸元の花を見下ろす。
何も言わない。
でも、少しだけ長く見ている。
⸻
夜。
神父が祈る。
いつもの場所で。
手を組み、目を閉じる。
クチナシは、それを少し離れて見ている。
いつもと同じ。
でも、今日は少し違う。
手が、胸元に触れる。
白い花の飾りに触れる。
小さく握る。
神父の真似をする。
目を閉じる。
何も思い浮かばない。
何も願えない。
でも――
同じ形をする。
それだけ。
「……」
すぐに目を開ける。
でも、花は離さない。
しばらく、そのまま。
やがて、手を下ろす。
何も言わない。
でも、その動きは残る。
白いアザレアの形が、胸の上で静かに揺れていた。
⸻
その夜。
クチナシは、寝台の上でネックレスを握っていた。
強くはない。
でも、離さない。
指先に触れる小さな花の形。
真ん中の小さな赤。
「……」
欲しいと言ったもの。
初めて。
それが、ここにある。
クチナシは、ゆっくりと目を閉じる。
白い花を握ったまま。
そのまま、眠る。
それはまだ、祈りではなかった。
けれど――
何かに触れるための、最初の形だった。
朝。
光は、変わらなかった。
窓から差し込むそれは、机を照らし、
床の上に短い影を落としている。
クチナシは、ゆっくりと目を開ける。
少しだけ、胸元に触れる。
白い花。
そこにある。
それを確かめる。
それから、起き上がる。
⸻
昼。
仕事が一通り終わると、クチナシは裏庭へ出る。
もう、自然に足が向く。
小さな石。
白いアザレア。
母のための場所。
クチナシは、その前で止まる。
しゃがむ。
「……」
何も言わない。
いつもなら、そのまま花を見る。
それだけ。
でも――
今日は、少し違った。
白い花のそばに、何かがある。
黒いもの。
小さい。
花弁のような形。
一枚ではない。
二枚。
三枚。
土の上に、静かに落ちている。
クチナシは、それを見る。
「……」
首を傾げる。
昨日は、なかった。
そう思う。
でも、はっきりとは言えない。
風で飛んできたのかもしれない。
どこかの花が落ちたのかもしれない。
そう考える。
そのまま、見ている。
⸻
ふと。
一枚だけ、動く。
ころり、と。
風はない。
木も揺れていない。
それでも、ほんの少しだけ位置が変わる。
クチナシは、それを見る。
瞬きをする。
「……」
もう一度見る。
動かない。
さっきのまま。
だから――
気のせいだと思う。
そういうことにする。
それ以上、考えない。
⸻
視線を上げる。
白いアザレア。
花弁は、いつもと同じ形。
やわらかく開いている。
でも――
ほんの少しだけ。
端の方に、色がある。
白ではない。
ほんの、わずかに。
にじんだような、黒。
汚れのようにも見える。
影のようにも見える。
クチナシは、それを見る。
「……」
何も言わない。
分からない。
でも、気になる。
手を伸ばしかける。
止まる。
触れてはいけない気がする。
理由は分からない。
でも――
そう思う。
だから、触れない。
そのまま、手を下ろす。
⸻
しばらく、そのままいる。
白い花。
黒い花弁。
小さな石。
全部を、ただ見る。
それから、ぽつりと口を開く。
「……ここにあるものは、つみをうけるもの」
たどたどしく。
続けて――
「……ここにのこるものは、わすれられないもの」
そこまで。
その先は出てこない。
でも、それでいい。
その言葉を置くと、この場所が少しだけ落ち着く。
理由は分からない。
⸻
立ち上がる。
もう一度だけ、黒い花弁を見る。
数は、変わっていない。
動いてもいない。
最初から、そこにあったみたいに。
クチナシは、それ以上見ない。
そのまま、教会へ戻る。
⸻
教会の中は、静かだった。
何も変わらない。
机も、椅子も、光も。
クチナシは、その中に入る。
歩く。
椅子に座る。
何も持たない。
でも――
胸元には、白い花がある。
手を少しだけ当てる。
確かめる。
「……」
裏庭の花とは、違う。
同じ形なのに、違う。
理由は分からない。
でも、分かる。
⸻
その日の夕方。
神父は、いつも通り戻ってくる。
「ただいま」
言う。
クチナシは、それを聞く。
少しだけ間を置いて――
「……おかえり」
言う。
小さく。
神父は、頷く。
それだけ。
⸻
夜。
クチナシは、寝台に横になる。
目を閉じる。
白い花を、少しだけ握る。
昼のことを思い出す。
黒い花弁。
動いたように見えたこと。
白い花の端にあった、ほんの少しの濁り。
「……」
言葉にはならない。
でも、消えない。
クチナシは、そのまま眠りに落ちる。
⸻
翌朝。
裏庭。
白いアザレアは、そこにある。
変わらない形で。
でも――
黒い花弁は、少しだけ増えていた。
昨日よりも、わずかに。
風はない。
それでも、ひとつだけ。
ゆっくりと、位置を変える。
誰も触れていないのに。
白い花を手にした日、黒い花びらは少しだけ増えた。




