「おかえり」
帰る場所には、迎える言葉がある。
朝の光は、まっすぐだった。
窓から差し込むそれは、机の上を白く照らしている。
影は短い。
教会の中は、静かだった。
クチナシは、椅子に座っていた。
手は膝の上。
何も持っていない。
ただ、神父の動きを見ている。
神父は、外套を手に取る。
肩にかける。
いつもの準備。
扉の前へ行く。
その背を、クチナシは見ている。
「行ってきます」
神父が言う。
振り返らないまま。
自然に。
クチナシは、少しだけ首を傾げる。
「……」
言葉の意味は、まだ分からない。
でも、音は残る。
神父は、そのまま扉を開ける。
外の光が差し込む。
そして、出ていく。
扉が閉まる。
音がひとつ。
それで終わる。
「……いってきます」
クチナシは、小さく繰り返す。
誰に向けたものでもない。
ただ、音をなぞるように。
それから、また静かになる。
⸻
昼。
クチナシは、いつものことをする。
水を汲む。
布を干す。
床を拭く。
動きは同じ。
けれど、少しだけ違う。
言葉が残っている。
「いってきます」
頭の中で、何度か繰り返す。
意味は分からない。
でも、消えない。
その日の仕事がひと通り終わると、クチナシは裏庭へ出る。
もう、自然に足が向くようになっていた。
小さな石。
白いアザレア。
母のための場所。
クチナシは、その前で止まる。
しゃがむ。
何も言わない日もある。
ただ、じっと見ているだけの日もある。
でも、この頃には、そこへ行くこと自体が少しずつ当たり前になっていた。
その日、クチナシは小さく口を開く。
夜に思い出した言葉を、また辿るように。
「……ここにあるものは、つみをうけるもの」
たどたどしい声。
少し間があく。
それから、もう一つ。
「……ここにのこるものは、わすれられないもの」
そこまで。
その先は、まだ出てこない。
でも、それでいいと思っているわけではない。
ただ、そこまでしか持っていない。
クチナシは白いアザレアを見る。
風がない日は、花弁はじっとしている。
その静けさの中で、その二つの言葉だけがぽつりと残る。
何の意味かは、まだ全部は分からない。
けれど、この場所で言うと、少しだけ胸の奥が落ち着く。
だから、また言う。
言えるところまでだけ。
それが、少しずつ日常になっていく。
⸻
夕方。
扉の音がする。
開く。
神父が戻ってくる。
「ただいま」
言う。
短く。
いつもの声で。
クチナシは、その言葉を聞く。
また、意味は分からない。
でも、覚える。
神父は、靴を整え、外套を外す。
何も変わらない。
いつもの動き。
クチナシは、ただ見ている。
何も言わない。
言葉がない。
神父も、それ以上は言わない。
それで終わる。
⸻
それが、何度か繰り返される。
朝。
「行ってきます」
昼。
クチナシは、ひとり。
仕事をして、
時々、裏庭のあの場所へ行く。
小さな石の前でしゃがみ、
白いアザレアを見て、
覚えているところだけ信条を口にする。
「……ここにあるものは、つみをうけるもの」
「……ここにのこるものは、わすれられないもの」
何度も同じところで止まる。
それでも、少しずつその言葉はクチナシの中に馴染んでいった。
夕方。
「ただいま」
何度も。
同じように。
クチナシは、そのたびに聞く。
覚える。
でも、まだ使えない。
⸻
ある日。
神父が、また扉の前に立つ。
外套を羽織る。
準備を終える。
「行ってきます」
言う。
クチナシは、その背を見る。
少しだけ、口が動く。
でも、声は出ない。
神父は、そのまま出ていく。
扉が閉まる。
クチナシは、しばらくそこに立っていた。
それから、裏庭へ行く。
いつものように。
小さな石の前にしゃがむ。
白いアザレアを見る。
少しだけ考えてから、ぽつりと言う。
「……いってきます」
小さい声だった。
母に向けたのか、
神父の残した音をそこへ置いただけなのか、
クチナシ自身にもよく分からない。
ただ、その言葉は墓の前でも変な感じがしなかった。
続けて、覚えている信条を口にする。
「……ここにあるものは、つみをうけるもの」
「……ここにのこるものは、わすれられないもの」
そこまで言って、止まる。
白い花は何も答えない。
でも、前より少しだけ、この場所で黙ることが怖くなくなっていた。
立ち上がる前に、クチナシは小さくもう一度言う。
「……いってきます」
今度は、少しだけはっきりと。
でも、誰にも届かない。
⸻
夕方。
外が暗くなり始める。
クチナシは、扉の方を見る。
何度か。
理由は分からない。
ただ、見る。
その前に、一度だけまた裏庭へ行く。
小さな石。
白いアザレア。
夕方の冷えた土。
そこにしゃがみ、今日は何も長くは言わない。
ただ、覚えている二つだけを落とす。
「……ここにあるものは、つみをうけるもの」
「……ここにのこるものは、わすれられないもの」
それから立ち上がる。
教会へ戻る。
音がする。
足音。
近づく。
止まる。
扉が開く。
神父が入ってくる。
「ただいま」
言う。
いつものように。
クチナシは、その言葉を聞く。
胸の奥が、少しだけ動く。
理由は分からない。
でも、何かがある。
神父は、いつもの動きをする。
靴を整え、外套を外す。
その途中で――
クチナシが、言う。
「……」
止まる。
言葉が、うまく出てこない。
何度も頭の中で繰り返したもの。
墓の前でも、小さく置いてみたもの。
でも、口にすると違う。
「……おかえり」
小さく。
少しだけ、途切れそうに。
でも、はっきりと。
神父の手が、止まる。
ほんの一瞬。
外套を外す動きが止まる。
そのまま、動かない。
クチナシは、少しだけ不安になる。
間違えたかもしれない。
違う言葉だったかもしれない。
何も言わない方がよかったかもしれない。
「……」
視線が揺れる。
神父を見る。
神父は、ゆっくりと顔を上げる。
クチナシを見る。
何も言わない。
ただ、見ている。
それから――
「ええ」
短く答える。
いつもの声で。
でも、ほんのわずかに違う。
クチナシは、それを聞く。
胸の奥の動きが、少しだけ収まる。
間違っていなかった。
たぶん。
それだけ分かる。
神父は、また動き出す。
外套を掛ける。
いつも通りに。
クチナシも、それ以上は言わない。
ただ、そこに立っている。
⸻
夜。
クチナシは、寝台の上にいた。
目を閉じる前。
少しだけ思い出す。
「いってきます」
「ただいま」
「おかえり」
言葉。
音。
その並び。
それから、昼の裏庭。
白いアザレア。
小さな石。
「……ここにあるものは、つみをうけるもの」
「……ここにのこるものは、わすれられないもの」
そこまでしかまだ言えない。
でも、その言葉もまた、もう教会の日々の中へ入ってきていた。
朝に人を送り出す言葉。
夕方に人を迎える言葉。
いなくなったものを、いなかったことにしないための言葉。
クチナシには、まだ全部の意味は分からない。
でも――
戻る。
帰る。
残る。
忘れられない。
そのどれにも、自分が少しずつ触れている気がする。
「……」
小さく息を吐く。
意味は、まだ全部は分からない。
けれど、その中に自分がいる。
神父が戻る場所の中に。
母の場所を見に行く日々の中に。
覚えきれない祈りの途中に。
その感覚だけが、少しだけある。
クチナシは、ゆっくりと目を閉じる。
そのまま、静かに眠る。
その日から――
教会の中に、ひとつ言葉が増えた。
そして裏庭の小さな場所にも、
声になりきらない祈りのようなものが、少しずつ増えていった。
⸻
夕方。
裏庭は、静かだった。
白いアザレアは、昼と同じようにそこにある。
風はない。
それでも――
花弁が、一枚だけ揺れていた。
ほんのわずかに。
触れていないのに。
何も当たっていないのに。
静かに、震えるように。
クチナシは、それを見る。
「……」
不思議だと思う。
でも、理由は分からない。
しばらく見て――
やがて、目を離す。
それ以上、何もしない。
そのまま、教会へ戻る。
⸻
夜。
クチナシは、寝台にいた。
目を閉じている。
眠りは、浅い。
呼吸が、少しだけ揺れている。
「……」
夢ではない。
でも、完全に起きてもいない。
その境目で――
声がした。
「触れなかったのね」
クチナシの眉が、わずかに動く。
目は開かない。
身体も動かない。
でも、聞こえている。
「ちゃんと、止められた」
静かな声だった。
やさしいわけでもない。
怖いわけでもない。
ただ――
知っている声。
クチナシの知らない“何か”を。
「いい子」
その言葉に、胸の奥が、ほんの少しだけ揺れる。
意味は分からない。
でも、どこか引っかかる。
「……」
クチナシの指が、ほんの少しだけ動く。
布を掴む。
無意識に。
「でも」
少しだけ、声が近くなる。
耳元ではない。
もっと内側。
「遅かったわね」
呼吸が、わずかに乱れる。
「あなたのお母さんは――」
そこで、言葉が止まる。
一瞬だけ。
まるで、“見ている”みたいに。
「もっと、ちゃんと祈っていた」
その言葉だけが落ちる。
重くもなく、軽くもなく。
ただ、事実のように。
「……」
クチナシの指先が、布を強く掴む。
「まだ思い出さなくていい」
声が、少しずつ遠ざかる。
「そのうち、勝手に壊れるから」
静かに。
当たり前のことみたいに。
⸻
音が、消える。
風もない。
声もない。
クチナシは、そこで小さく息を吸う。
深く。
そのまま、眠りに落ちる。
⸻
翌朝。
裏庭。
白いアザレアは、昨日と同じように咲いている。
ただ――
根元に、黒い花びらが一枚落ちていた。
朝には、なかったもの。
クチナシは、それを見る。
少しだけ、首を傾げる。
触れない。
そのまま、立ち上がる。
⸻
少しして、もう一度見ると――
それは、もうなかった。
温かな言葉のあとに、黒い花びらだけが残った。




