「戻ってくる音」
「戻ってくる音」
朝は、まだ冷えていた。
教会の裏庭。
小さな石と、白いアザレア。
その前に、クチナシがいた。
しゃがんでいる。
白い花を見ている。
手が、少しだけ伸びる。
触れようとして――
「触れてはいけません」
声が落ちる。
すぐ後ろから。
クチナシの手が、ぴたりと止まる。
ゆっくり振り返る。
神父が立っていた。
いつもの顔。
でも、少しだけ違う。
目だけが、わずかに硬い。
「……?」
クチナシは、何も分からないまま手を下ろす。
神父は、それ以上何も言わない。
ただ、その場所を見る。
白いアザレア。
小さな石。
そして――
ほんの一瞬だけ、地面へ視線が落ちる。
何かを確かめるように。
けれど、クチナシにはそれが何か分からない。
神父は、すぐに視線を戻す。
「中へ入りなさい」
短く言う。
クチナシは、少しだけ迷ってから頷く。
「……うん」
それだけ。
その場を離れる。
振り返らない。
けれど――
“触れてはいけないものがある”
それだけが、少しだけ残る。
⸻
昼の光は、いつもと同じだった。
教会の中も、変わらない。
机も、椅子も、窓も。
ただ一つだけ、違うものがあった。
「今夜は戻りません」
神父が言った。
短く。
いつもの調子で。
クチナシは、その言葉を聞いていた。
「……もどらない」
繰り返す。
神父は頷く。
「用事があります」
それ以上は言わない。
どこへ行くのかも。
何をするのかも。
クチナシは、聞かない。
聞き方が分からない。
ただ、頷く。
「……うん」
それだけ。
神父は、外套を整える。
戸口へ向かう。
「戸は閉めておきなさい」
振り返らずに言う。
クチナシは、また頷く。
「……うん」
扉が開く。
外の光が差し込む。
そして――
閉まる。
音が、ひとつ。
それで終わる。
⸻
昼は、静かだった。
いつもと同じ。
やることも、同じ。
水を汲む。
布を干す。
床を拭く。
身体は動く。
手も、足も。
いつも通りに。
何も変わらない。
「……」
でも、少しだけ違う。
音が少ない。
呼ばれない。
声がかからない。
それだけ。
やることはあっても、その終わりに誰の声も落ちてこない。
それが、妙に広かった。
⸻
昼のうち、一度だけ、クチナシは教会の奥へ続く廊下に立った。
そこには、まだ一度も入ったことのない部屋がある。
神父だけが入っていく部屋。
扉はいつも閉まっている。
開く時も、長くは開かない。
中はよく見えない。
暗くて、静かで、他の部屋より少しだけ空気が違う気がする。
クチナシは、その扉の前まで行く。
何も音はしない。
手を伸ばしかける。
止まる。
「……」
気になる。
何があるのかは知らない。
でも、入ってはいけないと思っている。
誰に言われたわけでもないのに、そう思う。
そこは、まだ自分の知らない神父の中と繋がっているみたいで、勝手に触れてはいけない気がした。
クチナシは、しばらくその扉を見ていた。
それから、手を下ろす。
そのまま、静かに離れる。
振り返らない。
⸻
夕方になる。
光が落ちる。
部屋が、少しずつ暗くなる。
クチナシは、灯りをつける。
火を点ける。
少しだけ揺れる光。
それを見ている。
神父は、まだ戻らない。
「……」
分かっている。
戻らないと聞いた。
それでも、目が扉へ向く。
一度。
それから、また。
落ち着かなくなって、クチナシは裏庭へ出る。
白い空の名残が、まだ少しだけ残っている時間だった。
あの場所へ行く。
小さな石。
白いアザレア。
母のための場所。
クチナシは、その前で止まる。
しゃがむ。
何も言わない。
ただ、じっと見ている。
白い花は、夕方の薄い光の中で昼より少しだけ冷たく見えた。
そこに母はいない。
それはもう分かっている。
でも、いなかったことにしないための場所だと、神父は言った。
クチナシは、石を見る。
花を見る。
土を見る。
そして、そこへ座る。
膝を抱えるでもなく、手をつくでもなく、ただ小さくそこにいる。
「……」
何をすればいいのかは分からない。
何を言えばいいのかも分からない。
でも、神父がいない夜に、ここへ来たくなった。
理由は分からない。
ただ、この場所もまた、神父と繋がっている気がしたからかもしれなかった。
白いアザレアを見ると、いつか見た神父の顔が浮かぶ。
ほんの一瞬だけ、淋しそうになる顔。
あの顔の意味は、まだ分からない。
でも、その顔を思い出すと、この花の前では少しだけ静かにしていなければいけない気がした。
しばらく座って、それから立つ。
暗くなる前に、教会へ戻る。
⸻
夜。
外は暗い。
風の音がする。
壁に当たる。
窓がわずかに鳴る。
クチナシは、寝台にいた。
横になっている。
目は閉じている。
でも、眠れない。
呼吸が浅い。
耳が、外の音を拾う。
風。
木。
遠くの何か。
全部が、大きく聞こえる。
「……」
身体を起こす。
静かに。
床に足をつける。
冷たい。
それでも、歩く。
扉の方へ。
開けない。
ただ、そこに立つ。
耳を澄ます。
何もない。
誰もいない。
分かっている。
でも――
そこにいる。
しばらくして、戻る。
寝台へ。
横になる。
目を閉じる。
また、開ける。
同じことを、繰り返す。
⸻
時間が過ぎる。
どれくらいかは分からない。
クチナシは、また立ち上がる。
今度は、部屋の隅へ行く。
壁に背をつける。
座る。
膝を抱える。
静か。
でも、落ち着かない。
胸の奥が、ざわつく。
理由は分からない。
「……」
小さく息を吐く。
何も言わない。
言葉がない。
ただ――
少しだけ、寒い。
その寒さのまま、ふと、夕方に見た母の場所を思い出す。
白い花。
小さな石。
それから、神父が夜に祭壇の前で立っていた時のことも。
目を閉じて、静かに言葉を落としていた時のこと。
全部は覚えていない。
長い言葉だった。
クチナシには、その全部はまだ入らない。
でも、最初だけ、少しだけ残っている。
口が、小さく動く。
「……ここにあるものは」
止まる。
その先が、遠い。
思い出せない。
クチナシは、少しだけ眉を寄せる。
もう一度。
たどたどしく。
「……ここにあるものは、つみをうけるもの」
小さな声。
それだけ。
自分でも、合っているのか分からない。
でも、それだけは耳の奥に残っていた。
少し間を置いて、もう一度思い出そうとする。
神父の低い声。
夜の祭壇。
静かな灯り。
「……ここに、のこるものは」
かすれる。
「……わすれられないもの」
そこまで言って、止まる。
その先はもう出てこない。
でも、言葉にすると、少しだけ胸のざわつきが形になる気がした。
何の意味かは分からない。
罪も、忘れられないものも、まだ全部は分からない。
それでも、その言葉は教会の中に似合っていた。
小さな石の前にも。
白い花の前にも。
神父が入っていくあの奥の部屋の前にも。
そんな気がした。
「……」
クチナシは、もうそれ以上は言わない。
言えない。
でも、その二つの言葉だけが、夜の中に小さく残る。
⸻
また扉を見る。
立つ。
歩く。
同じ場所へ。
手を伸ばす。
触れる。
開けない。
そのまま。
「……」
音がする。
遠くで。
足音。
小さく。
近づいてくる。
クチナシの身体が、ぴたりと止まる。
耳を澄ます。
確かに、ある。
近い。
扉の向こう。
「……」
動かない。
そのまま。
やがて――
扉の外で、足音が止まる。
一瞬の静けさ。
それから、開く音。
扉が開く。
外の空気が入る。
そこに、神父がいた。
いつもと同じ姿。
何も変わらない。
「起きていましたか」
静かな声。
クチナシは、何も言わない。
ただ、そこに立っている。
動かない。
神父は中に入る。
扉を閉める。
クチナシを見る。
何も聞かない。
何も言わない。
ただ、そこにいる。
「……」
クチナシは、少しだけ動く。
言葉を探す。
出てこない。
「……」
何も言えない。
ただ、息をする。
それだけ。
神父は、いつものように外套を脱ぐ。
椅子にかける。
火を少し整える。
灯りを確かめる。
すべて、いつも通り。
クチナシは、それを見ている。
ずっと。
その“いつも通り”が、今夜はひどくはっきり見えた。
⸻
やがて、神父は椅子に座る。
本を開く。
その紙の音さえ、今夜は少しだけ安心できる音だった。
クチナシは、少しだけ迷う。
それから――
ゆっくりと近づく。
椅子のそば。
少しだけ離れた場所。
床に座る。
いつもより、近い。
神父の影が、少しだけ重なる距離。
本の端が見える。
手元の灯りが見える。
神父は、それに気づいている。
でも、見ない。
何も言わない。
ただ、ページをめくる。
クチナシも、何も言わない。
言えない。
ただ、そこにいる。
近くに。
しばらくして、クチナシの視線がふと本から外れ、その向こうの廊下へ向く。
教会の奥。
あの、入ったことのない部屋の方。
扉は閉じている。
何も見えない。
神父しか入っていかない場所。
クチナシは、その方を少しだけ見て、また視線を戻す。
今夜、神父がいなかったあいだに、あそこへ近づいたことは言わない。
祈りの言葉を少しだけ口にしたことも言わない。
でも、神父が戻ってきた今、その扉の向こうにもまた“いつも通り”が戻っている気がした。
⸻
しばらくして、クチナシの呼吸が落ち着く。
肩の力が抜ける。
目が、少しずつ閉じる。
そのまま、座ったまま眠りに落ちる。
神父は、それを見ていた。
少しだけ。
それから、本を閉じる。
静かに。
クチナシに触れない。
起こさない。
ただ、そこにいる。
同じ空間に。
同じ夜に。
そのあと、神父は本を閉じたまま、誰にも聞こえないほどの低い声で、いつもの祈りを落とす。
長い、静かな言葉だった。
「ここにあるものは、罪を受けるもの
ここに残るものは、忘れられないもの
捨てられたものは、ここに集められ
名を持たぬものにも、場所は与えられる
我らの罪は消えず、ただ移される
それでもなお――
ここに在ることを、許される」
クチナシは、半分眠ったまま、その最初だけを聞いている。
聞き覚えのあるところだけが、夜の底に沈む。
⸻
その夜。
クチナシは、何も言わなかった。
神父も、何も聞かなかった。
それでも――
戻ってきたこと。
そこにいること。
近くで本の音がすること。
扉の向こうに、まだ自分の知らないものがあること。
それだけで、十分だった。
まだ言葉にならないものが、ひとつ。
静かに、そこに置かれていた。
⸻
夜は、深くなっていた。
灯りは小さい。
外は暗い。
教会の裏庭。
小さな石と、白いアザレア。
その足元に――
黒い花びらが、一枚落ちていた。
朝には、なかったもの。
風は、吹いていない。
それでも、それはわずかに揺れている。
まるで、そこに“触れている何か”があるみたいに。
白い花のすぐそばで。
黒い色だけが、沈まずに残っていた。
黒い花びらが、静かに揺れる。
まるで――
誰かがそこに立っているみたいに。
戻ってきた音だけで、その夜は少しだけ眠れた。




