「いや、でいい」
その感情は、初めて外へ出た。
昼は、少しだけ風が強かった。
教会の外。
石の壁に沿って、乾いた葉が転がっていく。
空は明るい。
けれど、どこか落ち着かない。
風が吹くたびに、光の色まで薄く揺れるようだった。
クチナシは、その前に立っていた。
扉のそば。
外には出ている。
けれど、離れすぎない距離。
何かあれば、すぐ中へ戻れる場所。
その境目だけは、もう身体が覚えていた。
視線は前。
道の先。
人が通る。
声がする。
ただ、それを見ている。
「……」
しばらく、何も起きない。
風だけが通る。
そのとき――
乾いた音がした。
ころり、と。
小さな石が、クチナシの足元に転がってくる。
止まる。
クチナシは、それを見る。
それから、ゆっくりと顔を上げる。
通りの向こう。
子どもが二人、立っていた。
こちらを見ている。
笑っている。
「ほら、やっぱりいる」
一人が言う。
「気味悪いよな」
もう一人が言う。
軽い声。
何でもないことみたいに。
クチナシは、何も言わない。
ただ、見ている。
動かない。
いつも通り。
見ない。
返さない。
やり過ごす。
それで終わるはずだった。
「森のやつだろ」
言葉が続く。
クチナシの目が、わずかに動く。
止まる。
「捨てられたやつ」
「母親も変だったってさ」
笑い声。
「悪魔に関わったとか」
軽く。
本当に軽く。
何の重みもないみたいに。
クチナシは、動かない。
何も言わない。
けれど――
胸の奥で、何かが動く。
小さく。
でも、確かに。
「……」
視線が、ゆっくりと上がる。
子どもたちを見る。
その瞬間。
空気が、変わる。
風が止まる。
さっきまで転がっていた葉が、途中で止まる。
ぴたりと。
音が消える。
遠くの声も、少しだけ遠のく。
子どもたちの笑いが、途切れる。
「……なんだよ」
一人が言う。
声が少しだけ硬い。
クチナシは、何もしていない。
手も上げていない。
声も出していない。
ただ、見ているだけ。
それだけなのに。
何かが、そこにある。
見えないもの。
けれど、確かにあるもの。
息が詰まるような重さ。
皮膚の上に薄く押し当てられる圧。
「や、やめろよ」
一人が後ずさる。
足元の石が、わずかに揺れる。
ほんの少し。
それでも、見間違いではない動き。
子どもたちの顔が変わる。
「いこう」
小さく言う。
もう一人も頷く。
そのまま、逃げるように走り去る。
振り返らない。
足音だけが遠ざかる。
⸻
静けさが戻る。
風が、遅れて動き出す。
止まっていた葉が、また転がる。
何もなかったみたいに。
クチナシは、そのまま立っていた。
動かない。
瞬きを一つ。
それだけ。
「……」
何も分からない。
今の感覚。
胸の奥で動いたもの。
外へ出たもの。
何をしたのかも、分からない。
ただ――
残っている。
少しだけ。
身体の奥に。
「……いや」
小さく言う。
それだけ。
何に対してかも、まだ曖昧なまま。
そのとき。
「クチナシ」
声がする。
振り返る。
神父が立っている。
少し離れた場所。
静かに、こちらを見ている。
クチナシは、何も言わない。
神父は、近づく。
その視線は、クチナシだけではない。
その周囲――空気ごと見ている。
わずかに残った“何か”を確かめるように。
「何かありましたか」
静かに問う。
クチナシは、少しだけ考える。
言葉を探す。
「……いし」
足元を見る。
小石。
神父も見る。
それから、またクチナシを見る。
「それから」
低く促す。
クチナシは、少し間を置く。
「……いった」
それだけ。
子どもたちのこと。
言われたこと。
全部は言わない。
でも、そこに含まれている。
神父は、それ以上は聞かない。
ただ、頷く。
「中へ入りなさい」
クチナシは頷く。
そのまま、教会の中へ入る。
神父は、その場に少しだけ残る。
外を見る。
何もない道。
風。
静けさ。
けれど――
わずかに残っている。
さっきの“圧”。
消えきっていない。
神父の目が、ほんのわずかに細くなる。
そして、小さく――
誰にも聞こえない声で呟く。
「……早い」
それだけ。
それ以上は言わない。
言えない。
その言葉は、評価でも、驚きでもない。
確認だった。
この子の中にあるものが、もう動き始めているという。
まだ名もないそれが、確かに“外へ出た”という。
神父は、目を伏せる。
ほんの一瞬。
その奥に沈むものは、表には出ない。
それから、何もなかったように踵を返す。
教会の中へ戻る。
⸻
夜。
静けさの中。
クチナシは、眠っていた。
けれど、呼吸が浅い。
指先が、かすかに動く。
「……いし」
小さく、呟く。
「……わらった」
昼の断片。
途切れたまま。
その奥で、別の気配が重なる。
音が流れる。
柔らかい三拍子。
クチナシの意識が、沈む。
⸻
紫の灯りの森。
音のない夜。
ダンタリオンが立っている。
「来たね」
いつも通りの声。
クチナシは、少しだけ近づく。
「……いし」
ぽつりと言う。
ダンタリオンは、静かに聞く。
「投げられたのか」
クチナシは、頷く。
「……わらった」
「……おかあさん、へんって」
言葉が途切れる。
それでも、意味は届く。
ダンタリオンは、少しだけ目を細める。
「それで?」
クチナシは、少しだけ間を置く。
胸の奥を探るように。
「……いや」
はっきりと。
ダンタリオンは、静かに頷く。
「そうだね」
それだけ。
否定しない。
軽くもしない。
ただ、受け取る。
「それでいい」
クチナシは、止まる。
その言葉を聞く。
「……いい」
小さく繰り返す。
ダンタリオンは、手を差し出す。
「踊ろうか」
クチナシは、その手を取る。
音楽が流れる。
回る。
揺れる。
その中で――
昼のざわつきが、少しずつほどけていく。
「……」
ダンタリオンは、何も言わない。
ただ、そばにいる。
逃げ場として。
でも、それだけじゃない。
クチナシの中で初めて生まれたものを、消さずに残すように。
静かに。
⸻
朝。
クチナシは、目を覚ます。
天井を見る。
しばらく、そのまま。
「……いや」
小さく言う。
それは、昨日の続きだった。
消えていない。
残っている。
そして――
それを否定するものは、どこにもなかった。
嫌だと思っていいことを、彼女は初めて知った。




