表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
祈りの残響  作者: ゴンザレス清盛


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

19/283

「いなかったことにしない場所」

いないものにも、場所は作れる。

朝は、まだ冷えていた。


冬の名残が、土の中に残っている。

踏むと、少しだけ固い。


教会の裏庭。


端の方。


普段はあまり使わないその場所に、神父がいた。


しゃがんでいる。

手には、小さな石。


土を少し掘り、形を整えている。


クチナシは、それを少し離れたところから見ていた。


何をしているのか分からない。


ただ、見ている。


「……」


近づかない。


でも、離れない。


神父は気づいていた。


それでも、何も言わない。


そのまま作業を続ける。


小さな区画。


四角く、土をならす。

石を置く。


大きくはない。


けれど、丁寧だった。


何度も位置を確かめる。

少しずらす。

また置く。


その手つきには、急ぎがなかった。


クチナシは、それを見ていた。


ずっと。


やがて、ぽつりと聞く。


「……なに」


神父の手が、わずかに止まる。


それから、もう一度土を整えながら言う。


「場所です」


短く。


クチナシは、首を傾げる。


「……ばしょ」


神父は頷く。


それ以上は言わない。


クチナシは、また石を見る。


土を見る。


何も分からない。


でも、何かをしている。


それだけは分かる。


神父は、花を持ってくる。


庭の端に咲いていた、白いアザレアだった。


教会の近くには、その花がいくつか咲いている。

春が近づく頃になると、静かに色を開く花だった。


クチナシは、それを見たことがあった。


風のない日に、白さだけがやけに目に残る花。


神父は、その白いアザレアを小さな場所のそばに植える。


土に差し、少しだけ指で押さえる。

それから、水をかける。


その時だった。


神父が、ほんの一瞬だけ、その花を見たまま動かなくなる。


顔はいつもと同じように静かだった。


でも、少しだけ違う。


何かを見ているのに、同時に別の何かも見ているみたいに。


目の奥だけが、遠くなる。


淋しそうだ、とクチナシは思う。


その言葉をはっきり知っているわけではない。

でも、あの顔はいつもの神父の顔と少し違った。


怒っていない。

困ってもいない。

悲しいとも少し違う。


ただ、静かなまま、何かが足りないような顔。


クチナシは、その顔を見る。


何も言わない。


神父も、すぐに元に戻る。


立ち上がる。

土を払う。


「ここへ来なさい」


クチナシは、少しだけ迷う。


それでも近づく。


ゆっくりと。


その場所の前で止まる。


小さな石。

白いアザレア。

土。


それだけ。


「……」


何も言えない。


神父が、横に立つ。


「ここは」


少しだけ間を置く。


「お前の母のための場所です」


クチナシの目が、わずかに動く。


止まる。


「……おかあさん」


小さく言う。


神父は頷く。


「ええ」


クチナシは、その場所を見る。


もう一度。


石を見る。

花を見る。


白いアザレアが、風のない朝の中でじっとしている。


でも、そこに母はいない。


いないことは分かる。


「……いない」


そのまま言う。


神父は、否定しない。


「ええ」


同じように答える。


クチナシは、止まる。


理解できない。


「……じゃあ」


言葉が続かない。


神父は、少しだけ目を伏せる。


「いなかったことにしないための場所です」


静かに言う。


クチナシは、それを聞く。


分からない。


でも、覚える。


いなかったことにしない。


その言葉だけが、土の匂いと一緒に残る。


「……」


何も言わない。


ただ、その場所を見ている。


白い花と、小さな石と、土。


そして、さっき神父がその花を見た時だけ、少し違う顔をしたことも。


クチナシは、その違いの意味を知らない。


でも、なぜか忘れなかった。


その日は、それで終わる。


クチナシは、その場所に触れない。


ただ、通り過ぎる。


見ないようにするわけでもない。


でも、立ち止まらない。


それでいいと思っている。


まだ、何をしていい場所なのか分からないから。


次の日。


朝。


クチナシは、裏庭に出る。


理由はない。


ただ、外へ出た。


歩く。


いつもの場所。


その途中で、止まる。


あの場所の前。


小さな石。

白いアザレア。


そのまま、見ている。


「……」


何も思い浮かばない。


何をすればいいのか分からない。


でも、立っている。


少しだけ。


その白い花を見ると、昨日の神父の顔が一緒に浮かぶ。


花そのものよりも先に、あの一瞬の目を思い出す。


だから、少しだけ気になる。


それから、離れる。


また別の日。


クチナシは、そこへ行く。


前よりも自然に。


止まる。


しゃがむ。


土を見る。

花を見る。


白い花弁は、近くで見ると少しだけ薄く、やわらかそうに見えた。


手を伸ばす。


触れる。


冷たい。


それだけ。


でも、その冷たさの向こうに、何か別のものがある気がした。


神父が見た時にだけ、顔の奥へ落ちるもの。


あれが何なのかは分からない。


分からないから、花を見るたびに少しだけ胸のどこかが止まる。


「……」


何も言わない。


言葉がない。


でも、少しだけ長くいる。


前よりも。


ある日。


神父が、遠くからそれを見ていた。


クチナシは、石の前にいる。


何もしていない。


ただ、座っている。


動かない。


でも、離れない。


神父は近づかない。


そのままにする。


クチナシが、自分でそこにいる時間を。

自分でその場所の静けさに触れている時間を。


そのままにする。


クチナシは、白いアザレアを見ていた。


それから、少しだけ視線を上げて神父の方を見る。


遠くにいる。


こちらを見ている。


そして、花に目を落とした時だけ、また少しだけあの顔になる。


すぐに消える。


本当に、ほんの一瞬だけ。


でも、クチナシにはそれが分かるようになっていた。


どうしてそんな顔をするのかは分からない。


ただ、この花は神父を少しだけ変える。


それだけが、静かに残っていく。


夕方。


光が落ちる。


クチナシは、立ち上がる。


その場所を見る。


石。

白い花。

静かな土。


何も言わない。


でも、少しだけ違う。


口が、ほんの少しだけ動く。


声にはならない。


それでも、何かがそこにある。


言葉より前の、小さなかたちだけが。


それから、ゆっくりと教会へ戻る。


夜。


クチナシは、寝台の上にいた。


目を閉じる。


思い出す。


森。

冷たい土。

見えないもの。


それと、あの場所。


小さな石。

白いアザレア。


花を見た時の神父の顔まで、一緒に浮かぶ。


いつもの神父ではない。

でも、知らない顔でもない。


少しだけ遠くて、少しだけ寂しい顔。


「……」


胸の奥に、少しだけ何かが残る。


痛いわけではない。


でも、空でもない。


名前はない。


それでも、消えない。


クチナシは、小さく呟く。


「……おかあさん」


それだけ。


返事はない。


でも、いなかったことにはならなかった。


その場所が、そこにあるから。


白い花が、そこに咲いているから。


そして、その花を見るたびに、神父の中にも何かが残っているのだと、クチナシにも少しだけ分かるから。


その夜、窓の外で風が鳴った。


強くはない。


ただ、細く、硝子の端を撫でるような音だった。


クチナシは、目を閉じたまま、少しだけ耳を澄ます。


風の中に、花の匂いが混じっている気がした。


白いアザレアの匂い。


けれど――


ほんの一瞬だけ。


別の匂いがした。


白ではない花の匂い。


甘く、暗く、濡れた土の底に沈むような匂い。


クチナシは目を開ける。


部屋は暗い。


誰もいない。


窓の向こうにも、ただ夜があるだけだった。


「……?」


何もない。


それでも、胸の奥が少しだけざわつく。


その頃。


教会の外。


裏庭の片隅。


白いアザレアの植えられた小さな場所に、ひとひらの花びらが落ちていた。


白ではない。


黒に近い、深い色。


風もないのに、それはゆっくりと震えていた。


まるで、そこが誰のための場所なのかを知っているみたいに。


まるで、その花が、かつて誰のそばに咲いていたのかを覚えているみたいに。


夜の闇の中で、誰かがそこに立っていた。


姿は見えない。


ただ、気配だけがあった。


白いアザレアを見下ろす気配。


哀れむようでもなく。


懐かしむようでもなく。


それでも、忘れてはいない気配。


やがて、かすかな声が落ちる。


「……まだ、祈っているのね」


それは、クチナシへ向けたものではなかった。


神父へ向けたものでもなかった。


もっと遠い、もういない誰かへ向けた声だった。


「祈ったから、壊れたのに」


花びらが、ひとつ揺れる。


黒い色が、夜の中でわずかに濃くなる。


次の瞬間。


その気配は消えた。


残されたのは、白いアザレアと、小さな石と、黒い花びらだけ。


そして、まだ何も知らないクチナシの寝息だけだった。

白い花のそばに、黒い記憶が落ちていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ