「いなかったことにしない場所」
いないものにも、場所は作れる。
朝は、まだ冷えていた。
冬の名残が、土の中に残っている。
踏むと、少しだけ固い。
教会の裏庭。
端の方。
普段はあまり使わないその場所に、神父がいた。
しゃがんでいる。
手には、小さな石。
土を少し掘り、形を整えている。
クチナシは、それを少し離れたところから見ていた。
何をしているのか分からない。
ただ、見ている。
「……」
近づかない。
でも、離れない。
神父は気づいていた。
それでも、何も言わない。
そのまま作業を続ける。
小さな区画。
四角く、土をならす。
石を置く。
大きくはない。
けれど、丁寧だった。
何度も位置を確かめる。
少しずらす。
また置く。
その手つきには、急ぎがなかった。
クチナシは、それを見ていた。
ずっと。
やがて、ぽつりと聞く。
「……なに」
神父の手が、わずかに止まる。
それから、もう一度土を整えながら言う。
「場所です」
短く。
クチナシは、首を傾げる。
「……ばしょ」
神父は頷く。
それ以上は言わない。
クチナシは、また石を見る。
土を見る。
何も分からない。
でも、何かをしている。
それだけは分かる。
神父は、花を持ってくる。
庭の端に咲いていた、白いアザレアだった。
教会の近くには、その花がいくつか咲いている。
春が近づく頃になると、静かに色を開く花だった。
クチナシは、それを見たことがあった。
風のない日に、白さだけがやけに目に残る花。
神父は、その白いアザレアを小さな場所のそばに植える。
土に差し、少しだけ指で押さえる。
それから、水をかける。
その時だった。
神父が、ほんの一瞬だけ、その花を見たまま動かなくなる。
顔はいつもと同じように静かだった。
でも、少しだけ違う。
何かを見ているのに、同時に別の何かも見ているみたいに。
目の奥だけが、遠くなる。
淋しそうだ、とクチナシは思う。
その言葉をはっきり知っているわけではない。
でも、あの顔はいつもの神父の顔と少し違った。
怒っていない。
困ってもいない。
悲しいとも少し違う。
ただ、静かなまま、何かが足りないような顔。
クチナシは、その顔を見る。
何も言わない。
神父も、すぐに元に戻る。
立ち上がる。
土を払う。
「ここへ来なさい」
クチナシは、少しだけ迷う。
それでも近づく。
ゆっくりと。
その場所の前で止まる。
小さな石。
白いアザレア。
土。
それだけ。
「……」
何も言えない。
神父が、横に立つ。
「ここは」
少しだけ間を置く。
「お前の母のための場所です」
クチナシの目が、わずかに動く。
止まる。
「……おかあさん」
小さく言う。
神父は頷く。
「ええ」
クチナシは、その場所を見る。
もう一度。
石を見る。
花を見る。
白いアザレアが、風のない朝の中でじっとしている。
でも、そこに母はいない。
いないことは分かる。
「……いない」
そのまま言う。
神父は、否定しない。
「ええ」
同じように答える。
クチナシは、止まる。
理解できない。
「……じゃあ」
言葉が続かない。
神父は、少しだけ目を伏せる。
「いなかったことにしないための場所です」
静かに言う。
クチナシは、それを聞く。
分からない。
でも、覚える。
いなかったことにしない。
その言葉だけが、土の匂いと一緒に残る。
「……」
何も言わない。
ただ、その場所を見ている。
白い花と、小さな石と、土。
そして、さっき神父がその花を見た時だけ、少し違う顔をしたことも。
クチナシは、その違いの意味を知らない。
でも、なぜか忘れなかった。
その日は、それで終わる。
クチナシは、その場所に触れない。
ただ、通り過ぎる。
見ないようにするわけでもない。
でも、立ち止まらない。
それでいいと思っている。
まだ、何をしていい場所なのか分からないから。
次の日。
朝。
クチナシは、裏庭に出る。
理由はない。
ただ、外へ出た。
歩く。
いつもの場所。
その途中で、止まる。
あの場所の前。
小さな石。
白いアザレア。
そのまま、見ている。
「……」
何も思い浮かばない。
何をすればいいのか分からない。
でも、立っている。
少しだけ。
その白い花を見ると、昨日の神父の顔が一緒に浮かぶ。
花そのものよりも先に、あの一瞬の目を思い出す。
だから、少しだけ気になる。
それから、離れる。
また別の日。
クチナシは、そこへ行く。
前よりも自然に。
止まる。
しゃがむ。
土を見る。
花を見る。
白い花弁は、近くで見ると少しだけ薄く、やわらかそうに見えた。
手を伸ばす。
触れる。
冷たい。
それだけ。
でも、その冷たさの向こうに、何か別のものがある気がした。
神父が見た時にだけ、顔の奥へ落ちるもの。
あれが何なのかは分からない。
分からないから、花を見るたびに少しだけ胸のどこかが止まる。
「……」
何も言わない。
言葉がない。
でも、少しだけ長くいる。
前よりも。
ある日。
神父が、遠くからそれを見ていた。
クチナシは、石の前にいる。
何もしていない。
ただ、座っている。
動かない。
でも、離れない。
神父は近づかない。
そのままにする。
クチナシが、自分でそこにいる時間を。
自分でその場所の静けさに触れている時間を。
そのままにする。
クチナシは、白いアザレアを見ていた。
それから、少しだけ視線を上げて神父の方を見る。
遠くにいる。
こちらを見ている。
そして、花に目を落とした時だけ、また少しだけあの顔になる。
すぐに消える。
本当に、ほんの一瞬だけ。
でも、クチナシにはそれが分かるようになっていた。
どうしてそんな顔をするのかは分からない。
ただ、この花は神父を少しだけ変える。
それだけが、静かに残っていく。
夕方。
光が落ちる。
クチナシは、立ち上がる。
その場所を見る。
石。
白い花。
静かな土。
何も言わない。
でも、少しだけ違う。
口が、ほんの少しだけ動く。
声にはならない。
それでも、何かがそこにある。
言葉より前の、小さなかたちだけが。
それから、ゆっくりと教会へ戻る。
夜。
クチナシは、寝台の上にいた。
目を閉じる。
思い出す。
森。
冷たい土。
見えないもの。
それと、あの場所。
小さな石。
白いアザレア。
花を見た時の神父の顔まで、一緒に浮かぶ。
いつもの神父ではない。
でも、知らない顔でもない。
少しだけ遠くて、少しだけ寂しい顔。
「……」
胸の奥に、少しだけ何かが残る。
痛いわけではない。
でも、空でもない。
名前はない。
それでも、消えない。
クチナシは、小さく呟く。
「……おかあさん」
それだけ。
返事はない。
でも、いなかったことにはならなかった。
その場所が、そこにあるから。
白い花が、そこに咲いているから。
そして、その花を見るたびに、神父の中にも何かが残っているのだと、クチナシにも少しだけ分かるから。
その夜、窓の外で風が鳴った。
強くはない。
ただ、細く、硝子の端を撫でるような音だった。
クチナシは、目を閉じたまま、少しだけ耳を澄ます。
風の中に、花の匂いが混じっている気がした。
白いアザレアの匂い。
けれど――
ほんの一瞬だけ。
別の匂いがした。
白ではない花の匂い。
甘く、暗く、濡れた土の底に沈むような匂い。
クチナシは目を開ける。
部屋は暗い。
誰もいない。
窓の向こうにも、ただ夜があるだけだった。
「……?」
何もない。
それでも、胸の奥が少しだけざわつく。
その頃。
教会の外。
裏庭の片隅。
白いアザレアの植えられた小さな場所に、ひとひらの花びらが落ちていた。
白ではない。
黒に近い、深い色。
風もないのに、それはゆっくりと震えていた。
まるで、そこが誰のための場所なのかを知っているみたいに。
まるで、その花が、かつて誰のそばに咲いていたのかを覚えているみたいに。
夜の闇の中で、誰かがそこに立っていた。
姿は見えない。
ただ、気配だけがあった。
白いアザレアを見下ろす気配。
哀れむようでもなく。
懐かしむようでもなく。
それでも、忘れてはいない気配。
やがて、かすかな声が落ちる。
「……まだ、祈っているのね」
それは、クチナシへ向けたものではなかった。
神父へ向けたものでもなかった。
もっと遠い、もういない誰かへ向けた声だった。
「祈ったから、壊れたのに」
花びらが、ひとつ揺れる。
黒い色が、夜の中でわずかに濃くなる。
次の瞬間。
その気配は消えた。
残されたのは、白いアザレアと、小さな石と、黒い花びらだけ。
そして、まだ何も知らないクチナシの寝息だけだった。
白い花のそばに、黒い記憶が落ちていた。




