『満たされない最期』
満たされないまま、生きることはある。
足りないと感じながら、
理由も分からず歩き続けることもある。
けれど――
満たされないまま、死ぬことはどうだろう。
何も埋まらないまま、
最後に残るのが“欲しい”という衝動だけだとしたら。
それは、本性なのか。
それとも、剥がされた結果なのか。
この村には、その答えが転がっている。
村に、時間の流れはあった。
朝が来て、昼が過ぎ、夕方へ落ちていく。
けれど、“変化”がない。
人は動いている。
水も汲む。
食料も口にする。
なのに、満たされない。
「足りない」
それだけが残る。
クチナシは、その声を何度も聞いた。
耳に残るというより、身体の奥に沈むような感覚だった。
理由は分からない。
でも、嫌な感じがする。
ネリネは村の外れにいた。
人のいない場所を選んでいる。
視界に入るのが、少しきついから。
「……どうなってんのよ、これ」
苛立ちが混じる。
アスモデウスが少し離れた場所で座っている。
何も言わない。
軽口もない。
珍しく、黙っている。
ネリネはそれも気に入らない。
「何か言いなさいよ」
「何を」
「分かんないなら、分かんないって言いなさい」
アスモデウスは肩をすくめる。
「分からないよ」
あっさりと返す。
ネリネは舌打ちする。
「……本当かどうか分かんないのが腹立つ」
「信用ないなぁ」
「当たり前でしょ」
短いやり取り。
でも、続かない。
その時だった。
村の中心で、音がした。
何かが倒れる音。
クチナシがすぐに走る。
ヘルハウンドも動く。
ネリネも舌打ちしてついていく。
中央に集まる。
一人の老人が、地面に倒れていた。
呼吸が浅い。
目は開いている。
でも、焦点が定まらない。
「……おい」
ヘルハウンドがしゃがむ。
肩を揺する。
反応はない。
ただ、震えている。
「足りない……」
かすれた声。
それだけは変わらない。
クチナシが膝をつく。
「何が足りないの」
問いかける。
答えは返ってこない。
ただ、同じ言葉が繰り返される。
「足りない……」
ナベリウスが近づく。
低く唸る。
「……来るぞ」
その言葉と同時に。
老人の身体が、大きく震えた。
「……っ」
呼吸が乱れる。
手が、空を掴むように動く。
何かを探している。
何もない場所を。
ネリネが一歩引く。
「……やばい」
直感で分かる。
これは、普通の死に方じゃない。
老人の目が、急に見開く。
焦点が、合う。
目の前の何かを、はっきりと“見る”。
その瞬間。
顔が、変わった。
さっきまでの虚ろな顔ではない。
怯えと、焦りと、欲が混じった顔。
人間らしい顔。
でも。
優しさが消えている。
理性も、遠い。
残っているのは。
“欲しい”という衝動だけ。
「……くれ」
初めて、違う言葉が出る。
かすれた声。
「くれ……」
何を。
誰に。
それは分からない。
でも。
次の瞬間。
老人の手が、横にあった袋を掴んだ。
食料袋。
中には干し肉が入っている。
それを、乱暴に引き裂く。
口に押し込む。
噛む。
飲み込む。
足りない。
まだ足りない。
目が、それを叫んでいる。
クチナシが息を呑む。
「……」
言葉が出ない。
ネリネも動けない。
アスモデウスは、その光景をじっと見ている。
表情が消えている。
ただ、見ている。
老人は食べ続ける。
無理やり。
喉に詰まっても。
咳き込んでも。
止まらない。
「くれ……」
繰り返す。
食べているのに。
手にあるのに。
口に入っているのに。
それでも。
“足りない”。
やがて。
動きが止まる。
手が、落ちる。
食料袋が転がる。
目は開いたまま。
呼吸が、消える。
静かに。
終わる。
誰も動かない。
風だけが通る。
さっきまでの音が、嘘みたいに消えている。
ナベリウスが、低く呟く。
「……死ぬ直前に、本性が出てやがる」
その言葉が、重く落ちる。
クチナシは、老人を見る。
最後の顔。
優しさが消えた顔。
何かを求めるだけの顔。
「……あれが、本性?」
小さく言う。
ナベリウスは首を振らない。
否定もしない。
「隠してたもんが、剥がれただけだ」
一拍。
「死ぬ直前は、誤魔化せねぇ」
ネリネが顔をしかめる。
「……最悪」
吐き捨てる。
でも、それ以上の言葉が出ない。
クチナシは動かない。
視線が、外せない。
あれが“本性”。
あれが“中身”。
そう言われてしまうと。
怖くなる。
自分も、そうなるのか。
誰もが、そうなるのか。
ヘルハウンドが立ち上がる。
「見るな」
短く言う。
クチナシの肩を軽く押す。
強くはない。
でも、視線を外させるには十分だった。
クチナシは、ゆっくり目を逸らす。
呼吸を整える。
少しだけ、震えている。
アスモデウスは、まだ老人を見ていた。
目が、わずかに細くなる。
一瞬だけ。
ほんの一瞬。
その変化は、誰にも気づかれない。
ナベリウス以外には。
ナベリウスが横目で見る。
「……思い出したか」
低く言う。
アスモデウスは答えない。
視線を外す。
空を見る。
「さあね」
いつもの言い方。
でも、軽くない。
ナベリウスは鼻を鳴らす。
「似てるだろ」
一拍。
「お前が知ってるやつに」
アスモデウスは、少しだけ笑う。
口元だけ。
「……似てるね」
それだけ言う。
それ以上は言わない。
ネリネが振り返る。
「何が」
「なんでもないよ」
即答。
でも、ネリネはそれを信じない。
「またそれ」
「癖なんだって」
「やめろって言ってるでしょ」
苛立ちが増す。
でも、それ以上は追えない。
今は、それどころじゃない。
クチナシが、小さく言う。
「……助けられたかな」
誰に向けた言葉でもない。
ただ、漏れた言葉。
ヘルハウンドは短く答える。
「無理だ」
一拍。
「原因が別にある」
ナベリウスが頷く。
「こいつは結果だ」
「原因じゃねぇ」
ネリネが歯を食いしばる。
「……じゃあ元を潰すしかないってことね」
「そうだな」
アスモデウスが静かに言う。
「これは“途中”だ」
ネリネが見る。
「途中?」
「そう」
一拍。
「もっとひどくなる前の段階」
その言葉に、空気が重くなる。
これで終わりじゃない。
まだ進む。
もっと壊れる。
その先にあるもの。
それを、全員がなんとなく感じ取る。
クチナシは拳を握る。
「……行こう」
小さく言う。
「ここじゃない」
原因は別にある。
ここに留まっても、変わらない。
だから。
進むしかない。
ヘルハウンドが頷く。
「動く」
ネリネも背を向ける。
「こんなの、見てられない」
アスモデウスは最後にもう一度だけ、老人を見る。
動かない身体。
開いたままの目。
最後の顔。
それを、静かに焼き付ける。
――知っている。
この顔を。
この瞬間を。
この“剥がれ方”を。
だから、何も言わない。
言えば、繋がる。
今はまだ、繋げない。
ナベリウスが低く言う。
「……来てるな」
「うん」
アスモデウスは短く返す。
それだけで十分だった。
秋の風が、少しだけ強く吹く。
夏の熱が、確実に抜け始めている。
そして、その隙間から。
別のものが入り込んできていた。
最後に残るものは、選べない。
理性も、優しさも、
守ってきた形も、すべて剥がれ落ちる。
その奥にあるものが、
本当に“本性”なのかどうかは分からない。
ただ一つ確かなのは、
満たされなかったものは、
最後まで満たされないまま残るということ。
そしてそれは、外の出来事では終わらない。
ネリネの中にも、同じ“足りなさ”がある。
アスモデウスは、それを知っている。
だから言わない。
だから繋げない。
まだ“途中”だからだ。
この欠乏は、ここで終わらない。
むしろ、ここからが本当の始まりになる。




