『足りない祈り』
足りているはずなのに、足りない。
食べ物はある。
水もある。
壊れた跡もない。
それでも、満たされない。
何が欠けているのか分からないまま、
ただ欠乏だけが残り続けている。
それは飢えではない。
祈りでもない。
空っぽの場所に溜まった、
終わらない何かの残り香だった。
空気が変わったのは、村に入る前からだった。
風は吹いている。
空も曇っていない。
けれど、匂いが重い。
腐っているわけではない。
血の匂いでもない。
もっと曖昧で、粘つくような気配。
ナベリウスが足を止める。
「……なんだこれ」
低く呟く。
クチナシが隣に並ぶ。
「どうしたの」
「妙だ」
ナベリウスは鼻を鳴らす。
「死の匂いじゃねぇ」
一拍。
「でも、何もねぇわけでもねぇ」
ヘルハウンドが前を見る。
「中か」
「ああ」
短い会話。
そのまま、村へ入る。
道は普通だった。
畑がある。
井戸がある。
家が並んでいる。
壊れていない。
燃えてもいない。
戦った形跡もない。
なのに。
「……静かすぎる」
ネリネが言う。
生活の音がしない。
人の気配はあるのに、動きがない。
やがて、一人の男が見えた。
家の前に座っている。
生きている。
呼吸もしている。
でも。
目が、空っぽだった。
「……なにしてるの」
ネリネが声をかける。
男はゆっくりと顔を上げる。
焦点が合わないまま、口を開く。
「……足りない」
一言。
それだけ。
ネリネは眉を寄せる。
「何が」
男は答えない。
ただ、同じ言葉を繰り返す。
「足りない」
別の家の扉が開く。
女が出てくる。
同じ顔。
同じ目。
「……足りない」
声が重なる。
さらに、奥から子どもが出てくる。
やせてはいない。
むしろ、普通に健康そうだ。
なのに。
「足りない」
クチナシは一歩前に出る。
戸惑いながら、周囲を見る。
食料はある。
干し肉が吊るされている。
野菜も積まれている。
井戸の水も、濁っていない。
「……あるのに」
小さく呟く。
ネリネが低く言う。
「足りてるでしょ」
誰に言ったのかも分からない。
村人は聞いていない。
ただ同じ言葉を繰り返す。
「足りない」
「足りない」
「足りない」
声が、増えていく。
数が増えるたびに、意味が薄れていく。
ただの音のように、重なっていく。
ナベリウスが、顔をしかめる。
「……飢えの匂いだ」
クチナシが振り返る。
「でも」
「ああ」
一拍。
「腹の問題じゃねぇ」
ネリネが舌打ちする。
「どういうこと」
「中身だ」
ナベリウスは短く言う。
「内側が飢えてる」
ヘルハウンドが一歩前に出る。
村人の一人の腕を掴む。
抵抗はない。
力もない。
ただ、ぶら下がる。
「食ってるか」
短く問う。
村人は、ゆっくりと口を動かす。
「……食べた」
「いつだ」
「さっき」
嘘ではない。
匂いがそう言っている。
なのに。
「足りない」
繰り返す。
ヘルハウンドは手を離す。
興味を失ったように。
「壊れてるな」
ネリネが言う。
「でも、なんで」
クチナシは村人を見る。
苦しそうではない。
痛がってもいない。
ただ、足りないと言い続けている。
それが一番、不気味だった。
アスモデウスがゆっくりと口を開く。
「満たされないんだよ」
ネリネが振り向く。
「何が」
「本人にも分からないものが」
一拍。
「ずっと、満たされない」
ネリネは顔をしかめる。
「意味分かんない」
「だろうね」
軽く言う。
でも、目は笑っていない。
クチナシは村の奥を見る。
小さな祠がある。
その前に、人が集まっている。
同じ顔。
同じ目。
同じ言葉。
「……行ってみる」
クチナシが歩き出す。
誰も止めない。
止める理由がない。
祠の前に着く。
中には、何もない。
神もいない。
供え物もない。
ただ、空っぽの空間。
その前で、村人たちが膝をついている。
「足りない」
「足りない」
「足りない」
祈りのようで、祈りではない。
願いのようで、願いでもない。
ただの欠乏。
ネリネが低く言う。
「……これ」
一拍。
「終わらないわね」
クチナシは頷く。
「……うん」
ナベリウスが鼻を鳴らす。
「流れてねぇ」
一拍。
「止まってる」
ヘルハウンドが短く言う。
「原因は」
ナベリウスは首を振る。
「ここじゃねぇ」
「匂いはあるが、元じゃねぇな」
アスモデウスが祠を見る。
少しだけ、目を細める。
「残り方が似てるね」
ネリネが聞く。
「何に」
アスモデウスは少しだけ間を置く。
「……さあ」
誤魔化す。
でも完全ではない。
ネリネはそれを見逃さない。
「またそれ」
「何が」
「知ってて言わないやつ」
アスモデウスは笑う。
「癖なんだ」
「最悪」
吐き捨てる。
でも、それ以上は追わない。
今はそれどころではない。
クチナシは、村人たちを見る。
助けられるかどうか。
分からない。
原因も分からない。
でも。
「……放っていけない」
小さく言う。
ヘルハウンドはすぐに返す。
「全部は拾えねぇ」
「分かってる」
一拍。
「でも、目の前なら見たい」
少しだけ言葉を探す。
「拾えるかどうかは、その後で決める」
一年前、辿り着いた答え。
それは、ここでも変わらない。
ネリネが言う。
「どうするの」
クチナシは祠を見る。
空っぽの場所。
何もないのに、何かがある場所。
「……少しだけ、見る」
ヘルハウンドは頷く。
「短時間だ」
「うん」
ナベリウスは低く唸る。
「長くいると引っ張られるぞ」
「分かってる」
アスモデウスは祠から目を離す。
その表情は、少しだけ硬い。
「……あんまり長く関わらない方がいい」
珍しく、はっきり言う。
ネリネが見る。
「珍しいこと言うじゃない」
「たまにはね」
軽く返す。
でも、冗談ではない。
それが分かる。
クチナシは一歩前に出る。
祠の中へ。
空っぽの空間に足を踏み入れる。
その瞬間。
ほんのわずかに、空気が歪んだ。
ネリネの背中に、冷たいものが走る。
「……クチナシ」
呼ぶ。
クチナシは振り返らない。
ただ、前を見る。
何もないはずの場所を。
その目が、わずかに揺れる。
何かを見ている。
でも、それが何かは分からない。
アスモデウスが低く呟く。
「……出てきてるね」
ナベリウスが答える。
「まだ薄いがな」
ヘルハウンドが一歩前に出る。
「引くぞ」
クチナシの腕を掴む。
強くない。
でも、確実に引く。
クチナシの視線が戻る。
現実に。
「……あ」
小さく声が出る。
そのまま、祠の外へ引き戻される。
空気が戻る。
歪みが消える。
ネリネは息を吐く。
「……何見たの」
クチナシは少しだけ黙る。
答えに迷うように。
「……分からない」
一拍。
「でも」
ネリネを見る。
「空っぽじゃなかった」
その言葉だけが残る。
ナベリウスが低く言う。
「原因は別だな」
「ここは、ただの残りカスだ」
ヘルハウンドが頷く。
「元を潰す」
「そうするしかねぇ」
ネリネはもう一度、村を見る。
生きているのに、満たされない人たち。
足りないと言い続ける声。
その奥にあるもの。
まだ見えないもの。
「……気持ち悪い」
小さく呟く。
それは、村に対してだけではなかった。
自分の中にも、似たものがある気がしたから。
足りないもの。
分からないまま残っているもの。
それが、同じ形でそこにあった。
秋の風が、わずかに吹いた。
夏の熱の中に、ほんの少しだけ冷たいものが混じり始めていた。
空っぽに見える場所ほど、何かが残っている。
祠には何もない。
神も、供え物も、答えもない。
けれど、そこには確かに歪みがあった。
足りないと繰り返す声。
満たされないまま止まった人々。
流れずに残った欠乏。
それは村だけのものではなかった。
ネリネの中にも、似たものがある。
何が足りないのか分からない。
それでも、足りないことだけは分かる。
だからこそ、この村は見過ごせない。
欠けたものは、名前を持たないまま、
少しずつ近づいてきている。




