『知らないと言った嘘』
忘れているなら、苦しくないはずだった。
顔も、声も、名前もない。
なら、何も残っていないはずだった。
けれど。
夢は来る。
涙は落ちる。
胸の奥だけが、理由もなく痛む。
知っている者は答えない。
それは優しさなのか。
残酷さなのか。
まだ、誰にも分からない。
ただ一つだけ確かなのは、
知らないふりをした言葉もまた、
確かに誰かを傷つけるということ。
朝は、妙に静かだった。
風は吹いている。
鳥も鳴いている。
なのに、どこか音が遠い。
ネリネは水で顔を洗い、濡れた手をそのまま額に当てた。
冷たい。
それで少しだけ、頭の中のざわつきが引く。
けれど、消えない。
胸の奥に残っている違和感だけが、はっきりしている。
理由は分からない。
でも、確実に“何かが足りない”。
それだけは分かる。
ネリネは振り返った。
少し離れた場所に、アスモデウスがいる。
いつも通りの姿。
いつも通りの顔。
軽く笑っている。
それが、逆に引っかかった。
「ねえ」
声をかける。
アスモデウスが振り向く。
「なに?」
「私」
一拍。
「何か忘れてる?」
空気が、ほんのわずかに止まった。
風は動いているのに、その場だけが切り取られたみたいに。
アスモデウスは少しだけ目を細める。
すぐに、いつもの笑みに戻す。
「みんな何かしら忘れてるよ」
軽い調子。
軽すぎるくらいの返し。
ネリネの眉が寄る。
「そういう話じゃない」
声が少し強くなる。
「……分かってるでしょ」
アスモデウスは答えない。
笑みだけが残る。
でも、その奥が動かない。
ネリネは一歩近づく。
「分かってる顔してる」
「そんな顔してる?」
「してる」
一拍。
「知ってるなら言いなさいよ」
沈黙。
アスモデウスは、少しだけ視線を逸らした。
ほんの一瞬。
それだけで、ネリネは確信する。
「……やっぱり」
怒りが混じる。
「知ってるじゃない」
アスモデウスは息を吐いた。
小さく。
誰にも聞こえないくらいの音で。
そして、いつもの調子で言う。
「知らないよ」
ネリネの表情が変わる。
「嘘つくな」
短く吐き捨てる。
「さっき、目逸らした」
「癖だよ」
「ふざけてる?」
「真面目だけど」
ネリネは、ぐっと歯を食いしばる。
「私の話、ちゃんと聞いて」
「聞いてるよ」
「聞いてない」
一歩、さらに踏み込む。
「私、夢を見るの」
アスモデウスの目が、わずかに動く。
ネリネは続ける。
「炎とか、森とか、誰かの手とか」
一拍。
「でも、顔がない」
「声もない」
「名前もない」
言葉が、少しずつ荒くなる。
「なのに、残ってるの」
「気持ちだけ」
「おかしいでしょ」
アスモデウスは答えない。
ネリネは、さらに言葉を重ねる。
「思い出せないなら、それでいいはずなのに」
「なんで残るのよ」
「なんで消えないのよ」
沈黙。
答えは返ってこない。
ネリネの拳が、わずかに震える。
「……ねえ」
声が少しだけ低くなる。
「それ、本当に知らないの?」
アスモデウスは、ネリネを見る。
まっすぐに。
逃げない視線。
そのまま、言う。
「知らないよ」
ネリネの中で、何かが切れる。
「……最低」
吐き捨てる。
「知ってて言わない方が、まだマシよ」
アスモデウスは何も言わない。
ネリネは視線を外す。
「もういい」
それ以上は聞かない。
聞いても無駄だと分かった。
分かりたくなかったけど、分かってしまった。
アスモデウスは答えない。
答えられるのに。
答えない。
その事実だけが残る。
ネリネは背を向けた。
「行く」
それだけ言って、歩き出す。
クチナシが少しだけ戸惑う。
「ネリネ?」
「なんでもない」
振り返らない。
そのまま前へ進む。
アスモデウスは、その背中を見ている。
何も言わない。
言えない。
ナベリウスが、ゆっくりと近づく。
「……おい」
低く言う。
アスモデウスは視線を動かさない。
「何?」
「言わねぇのか」
一拍。
「全部じゃなくても、何かは言えるだろ」
アスモデウスは、少しだけ笑う。
「言ったらどうなると思う?」
「楽になるんじゃねぇのか」
「誰が?」
「……」
ナベリウスは言葉に詰まる。
アスモデウスは続ける。
「ネリネが?」
一拍。
「それとも、ボクが?」
ナベリウスは黙る。
アスモデウスは、ゆっくりと目を細める。
「どっちも楽にならないよ」
「むしろ、壊れる」
その言葉は軽くない。
初めて、重さがある。
ナベリウスは低く唸る。
「じゃあ黙って壊すのか」
「違うよ」
すぐに返す。
「選ばせるんだよ」
「何をだ」
「残すか、消すか」
一拍。
「それとも、抱えたまま進むか」
ナベリウスは目を細める。
「そんなもん、選べる状態じゃねぇだろ」
「だからだよ」
アスモデウスは、ネリネの背中を見る。
遠くなっていく。
でも、確実に前へ進んでいる。
「選べるところまで、持っていく」
「そのために黙るのか」
「うん」
ナベリウスは鼻を鳴らす。
「性格悪ぃな」
「知ってる」
少しだけ、いつもの調子が戻る。
でも、目は笑っていない。
ナベリウスは言う。
「失敗したらどうする」
アスモデウスは少しだけ間を置く。
「その時は」
一拍。
「その時に考える」
「無責任だな」
「悪魔だからね」
軽く言う。
でも、それは逃げではない。
ただの事実だった。
クチナシが少し後ろを振り返る。
「……大丈夫?」
誰に向けた言葉かは、曖昧だった。
ネリネか。
アスモデウスか。
それとも、全員か。
ヘルハウンドが短く言う。
「進め」
それだけ。
止まらない。
立ち止まらない。
それが今の答えだった。
ネリネは前を歩く。
怒りは消えていない。
違和感も消えていない。
何かを忘れている感覚も、そのまま残っている。
でも、足は止まらない。
止めたくない。
止まったら、戻れなくなる気がする。
アスモデウスは後ろからその背中を見る。
手は伸ばさない。
声もかけない。
ただ、距離を保ったままついていく。
近すぎず、遠すぎない距離。
触れれば壊れそうな距離。
それが今の限界だった。
夏の道は続く。
熱は増す。
光は強くなる。
影は濃くなる。
そして、言葉にしないまま残ったものが、少しずつ形を持ち始めていた。
本当のことを言えば、楽になるとは限らない。
言えば壊れるものがある。
言わなければ傷つくものもある。
その間で、アスモデウスは黙ることを選んだ。
ネリネは怒る。
当然のように。
彼女には、何が欠けているのか分からない。
けれど、欠けていることだけは分かってしまった。
喪失は、思い出した瞬間に始まるのではない。
「何かが足りない」と気づいた時から、
もう始まっている。
そして、まだ名前のないそれは、
少しずつ形を持ち始めている。




