『覚えていない涙』
思い出せないものは、消えたものと同じだと思っていた。
名前もない。
形もない。
意味も分からない。
なら、もうそこには何もないはずだった。
けれど。
夢は、知らない痛みを連れてくる。
涙は、覚えていない理由でこぼれる。
忘れているのに、残っている。
これは、喪失が記憶より先に戻ってくる夜の話。
道は、乾いていた。
春の湿りは消え、土は軽く、踏むたびに細かな埃が舞う。草は濃く、背を伸ばし、陽は高く、影は短い。
夏に入っていた。
ネリネは歩きながら、空を見上げる。
青い。
どこまでも続くような、途切れのない青。
それを見て、なぜか少しだけ息苦しくなる。
「暑い」
短く吐き捨てる。
アスモデウスが隣で笑う。
「今さら?」
「今さらよ」
「夏だしね」
「知ってる」
軽口。
でも、どこか噛み合っていない。
ネリネはそれ以上続けない。
前を見る。
道はただ、前へ伸びている。
何もない。
敵も、追手も、目立った異変もない。
ただ歩く。
それが続いている。
ナベリウスだけが違った。
地面を嗅ぎ、時々足を止め、また進む。
「……薄いな」
低く言う。
「何が」
ネリネが聞く。
「死の匂いだ」
ナベリウスは鼻を鳴らす。
「フォルネウスの痕跡は、ほとんど残ってねぇ」
クチナシが少しだけ歩幅を緩める。
「消えてる?」
「いや」
ナベリウスは首を振る。
「消してる」
一拍。
「痕跡を残さねぇように動いてる」
ヘルハウンドが短く言う。
「厄介だな」
「最初からだろ」
ナベリウスは吐き捨てる。
そして、少しだけ顔を上げた。
「代わりに、別のが濃くなってる」
ネリネの足が、わずかに止まりかける。
「……終わらない死?」
「ああ」
ナベリウスは頷く。
「腐らねぇ。流れねぇ。残り続けてる死だ」
森でも、村でも、戦場でもない。
どこにも属さないまま、引っかかっている何か。
「こっちの方が近い」
クチナシが静かに言う。
「……追う」
「そうなるな」
ナベリウスが嫌そうに言う。
ヘルハウンドは何も言わない。
ただ、そのまま歩き続ける。
それが答えだった。
ネリネは、何も言わない。
胸の奥がざわつく。
理由は分からない。
けれど、“終わらない死”という言葉が、どこか引っかかる。
まるで、それが自分の中にもあるみたいに。
夜。
野営地は、開けた草地だった。
風がよく通る。
虫の声がうるさいくらいに鳴いている。
焚き火の火が、小さく揺れる。
ネリネは、火から少し離れた場所に座っていた。
暑い。
火の近くにいるのが嫌だった。
でも、完全に離れる気にもなれない。
中途半端な距離。
アスモデウスが隣に来る。
「寝ないの?」
「まだ」
「明日も歩くよ」
「分かってる」
それだけ。
それ以上は続かない。
アスモデウスはしばらくそこにいたが、やがて何も言わずに離れた。
ネリネは、火を見つめる。
ぱち、と音がする。
火の中で、木が弾ける。
その音に、ほんの少しだけ肩が揺れた。
「……」
嫌な感じがした。
理由は分からない。
ただ、火を見るのが少し怖い。
目を逸らす。
空を見る。
星が、少しだけ見える。
目を閉じる。
夢が来る。
炎。
それは焚き火ではない。
もっと強い。
もっと大きい。
逃げ場がない火。
森が燃えている。
木が崩れる音。
誰かの叫び。
でも、声がはっきりしない。
音としては聞こえるのに、意味にならない。
ネリネは走っている。
足が勝手に動く。
止まれない。
止まったら終わる気がする。
手が伸びる。
誰かの手。
自分のものではない。
誰かが、ネリネの手を掴む。
強くない。
でも、確実に引く。
その手は。
分からない。
大きさも。
温度も。
形も。
ただ、「そこにある」という感覚だけがある。
「……っ」
ネリネは目を開けた。
息が荒い。
胸が上下する。
汗が、額から落ちる。
周囲は静かだった。
虫の声。
焚き火の音。
仲間たちの気配。
全部、現実。
夢は終わっている。
「……最悪」
小さく呟く。
喉が乾いている。
手で顔を覆う。
その時、指先が濡れていることに気づく。
「……え」
頬を触る。
濡れている。
涙だった。
理由は分からない。
悲しい夢だったのかも分からない。
怖かったのか、苦しかったのか、それすらはっきりしない。
ただ、涙だけが残っている。
「……なんで」
自分でも分からない。
夢の中で何かを見た。
でも、何も思い出せない。
炎。
森。
手。
それだけ。
それなのに、胸の奥が締めつけられる。
ネリネはゆっくり息を吐く。
顔を上げる。
少し離れた場所に、アスモデウスがいた。
起きている。
こちらを見ている。
目が合う。
一瞬だけ。
ネリネはすぐに目を逸らす。
「……見てた?」
「少しね」
「最悪」
「泣いてたよ」
「言わなくていい」
アスモデウスは肩をすくめる。
「夢?」
ネリネは少しだけ黙る。
「……分からない」
「分からない夢?」
「覚えてない」
一拍。
「でも、嫌な感じだけ残ってる」
アスモデウスは何も言わない。
ただ、ネリネを見る。
その視線が少しだけ重い。
「……なによ」
「いや」
いつもの返し。
でも、続かない。
ネリネは舌打ちする。
「何か言いなさいよ」
「言っていいの?」
「どうせろくでもないんでしょ」
「たぶんね」
少しだけ間が空く。
それから、アスモデウスは静かに言う。
「残ってるんだよ」
ネリネは眉を寄せる。
「何が」
「夢じゃなくて」
一拍。
「その中身」
ネリネは黙る。
意味は分からない。
でも、完全に否定もできない。
「覚えてないのに?」
「覚えてなくても、残るものはある」
ネリネは顔をしかめる。
「……意味分かんない」
「だろうね」
「だったら言うな」
「ごめん」
素直な謝罪。
それが余計に腹立たしい。
ネリネは膝を抱える。
顔を埋める。
「……嫌なのよ」
「何が」
「分からないことがあるのが」
一拍。
「しかも、自分の中に」
アスモデウスは答えない。
ただ、その言葉を受け取る。
ネリネは続ける。
「思い出せないなら、それでいいはずでしょ」
「……」
「なのに、なんで残ってるのよ」
返事はない。
夜の音だけが続く。
ネリネは顔を上げない。
アスモデウスは少しだけ視線を外す。
火を見る。
ぱち、と音がする。
炎が揺れる。
その光が、彼の目に映る。
「……消えなかったからじゃない?」
小さく言う。
ネリネは顔を上げない。
「何が」
「それが何かは、まだ分からないけど」
一拍。
「消えなかったから、残ってる」
ネリネは何も言わない。
理解したわけではない。
納得もしていない。
でも、その言葉はどこか引っかかる。
消えなかった。
だから残っている。
それだけ。
「……意味分かんない」
もう一度言う。
「うん」
アスモデウスは頷く。
「分からなくていいと思うよ」
「クチナシみたいなこと言うな」
「影響受けてるのかもね」
「やめて」
ネリネは顔を上げた。
目は少しだけ赤い。
でも、涙はもう出ていない。
アスモデウスはそれを見る。
何も言わない。
言えない。
ネリネが夢で見たもの。
それが何か。
彼は知っている。
少なくとも、想像はついている。
けれど、それを口にすることはできない。
今はまだ。
ネリネは立ち上がる。
「寝る」
「うん」
「明日も歩くんでしょ」
「歩くよ」
それだけ言って、離れる。
アスモデウスはその背中を見送る。
少し離れたところで、ナベリウスが低く言う。
「……出てきてるな」
「うん」
「早ぇな」
「思ったよりね」
ナベリウスは鼻を鳴らす。
「壊れるぞ」
アスモデウスは少しだけ笑う。
今度は、ほんの少しだけ本物に近い笑みだった。
「壊れる前に、選ぶでしょ」
「何をだ」
「残すか、消すか」
一拍。
「それとも、そのまま抱えるか」
ナベリウスは何も言わない。
ただ、静かに目を閉じる。
夏の夜は長い。
虫の声は途切れない。
ネリネは眠る。
また夢を見るかもしれない。
思い出せない何かを。
それでも、残るものは消えない。
名前がなくても。
形がなくても。
それは確かに、彼女の中にあった。
覚えていないのに、涙だけが残る。
それは、記憶ではない。
けれど、嘘でもない。
炎。
森。
誰かの手。
意味にならない欠片だけが、胸の奥に残っている。
思い出せないなら楽なはずだった。
忘れてしまえば、苦しくないはずだった。
それでも、消えなかったものがある。
名前も形もないまま、
彼女の中で眠っていたものが、少しずつ目を覚まし始めている。
まだ壊れてはいない。
けれど、もう始まっている。




