『誰かのまま残るもの』
終わらなかったものは、消えない。
ただ、形を変える。
記憶として残るものもあれば、
感覚として残るものもある。
そして――
誰かの中に、別のものとして残ることもある。
それは自分のものではない。
けれど、確かにそこにある。
切り離すことも、捨てることもできないまま、
“他人のまま”居続ける。
これは、そんな残り方の話だ。
名前を持たないまま、
誰かの中で続いてしまったものの、はじまりの話。
村を抜けると、道はゆるやかに森へ入った。
春の匂いはまだ残っているが、木々が増えるにつれて、少しずつ土の湿りと影の気配が強くなる。遠くで鳥が鳴き、風が枝を揺らす。
さっきまでの喧騒が嘘みたいに、静かだった。
ネリネは前を歩いている。
振り返らない。
振り返ったら、さっきの“声”がまだそこにある気がした。
だから見ない。
見ないまま、歩く。
アスモデウスは少し後ろにいた。
いつもなら横に並んで、軽口を投げる距離。
けれど今は、ほんの少しだけ距離がある。
意図したわけではない。
でも、そうなっている。
ナベリウスが、その隣に並んだ。
地面を嗅ぐふりをしているが、視線は明らかにアスモデウスに向いている。
じっと。
露骨なほどに。
「……おい」
低く言う。
アスモデウスは横目で見る。
「何?」
軽い声。
けれど、ナベリウスはすぐには返さない。
もう一歩だけ近づく。
距離を詰める。
匂いを確かめるように。
「お前、やっぱり変だな」
アスモデウスは笑う。
「悪魔に向かって失礼じゃない?」
いつもの返し。
けれど、笑みは浅い。
ナベリウスは一切笑わない。
「前から思ってたが、今ははっきりしてる」
一拍。
「お前、“死の匂い”が薄い」
アスモデウスの目が、ほんのわずかに細くなる。
「いや、違ぇな」
ナベリウスは首を振る。
「薄いんじゃねぇ」
はっきりと言い切る。
「お前、誰かの死の匂いを着てる」
沈黙が落ちた。
風の音だけが通り過ぎる。
ネリネの背中が、わずかに強張る。
言葉は分からない。
でも、空気が変わったのは分かる。
クチナシも歩調を少しだけ落とす。
ヘルハウンドは何も言わない。
ただ、後ろのやり取りを拾っている。
アスモデウスは、指先で花を回した。
白い花。
さっき村で買ったもの。
「難しい言い方するね」
「誤魔化すな」
「誤魔化してないよ」
「じゃあ答えろ」
ナベリウスの声が低く沈む。
「その身体、元は誰だ」
アスモデウスは答えない。
笑みも消える。
風が吹く。
花が揺れる。
その揺れを見ながら、ようやく口を開く。
「……さあね」
ナベリウスが舌打ちする。
「ふざけてんのか」
「真面目だよ」
「嘘つけ」
さらに踏み込む。
「お前の中にあるのは、お前の死じゃねぇ」
一拍。
「誰かの死だ」
「しかも、まだ終わってねぇ」
その言葉で、アスモデウスの指が止まった。
ほんの一瞬。
それで十分だった。
「やっぱりな」
ナベリウスは確信する。
アスモデウスは、小さく息を吐いた。
「嗅ぎすぎだよ」
「嗅ぐのが仕事だ」
「厄介な特技だね」
「役に立ってるだろ」
短いやり取り。
でも軽くならない。
ナベリウスは視線を逸らさない。
「あいつに関係あるな」
名前は出さない。
けれど、互いに同じものを思い浮かべている。
ネリネの“欠けた何か”。
拾われなかった名前。
アスモデウスは、ほんの少しだけ目を伏せる。
「関係ない、とは言えないかな」
ナベリウスが鼻を鳴らす。
「ほらな」
「でも、全部がそうってわけでもない」
「意味分かんねぇ」
「分からなくていいよ」
ナベリウスは苛立つ。
「お前、何を抱えてる」
アスモデウスは答えない。
花をもう一度回す。
その動きは、癖のようだった。
「……面倒だな」
ぽつりと漏れる。
「何がだ」
「説明が」
「しろ」
「しない」
即答。
ナベリウスが本気で舌打ちする。
「ぶん殴るぞ」
「それ、効かないでしょ」
「気分の問題だ」
「じゃあやめて」
軽口。
でも温度は落ちない。
その空気を、クチナシがそっと割る。
「……喧嘩しないで」
振り返らずに言う。
少し間を置いて続ける。
「必要なら、あとで話せばいいと思う」
言い切らない。
でも、止める。
「してねぇ」
「してないよ」
二人同時に返す。
ネリネが小さく舌打ちする。
「してるじゃない」
「うるさい」
振り返らないまま言う。
それで、二人とも黙る。
足音だけが続く。
一定のリズムで、道を踏む音。
その中で、ナベリウスがもう一度だけ低く言う。
「……一つだけ聞く」
アスモデウスは答えない。
それでも続ける。
「そいつ、まだ残ってるのか」
アスモデウスの歩みが、ほんのわずかに遅れる。
気づかれない程度。
でも、見逃されない。
少しだけ空を見る。
木々の隙間から、春の光。
そして、静かに言う。
「残ってるよ」
一拍。
「全部じゃないけど」
ナベリウスは目を細める。
「厄介だな」
「うん」
「捨てねぇのか」
アスモデウスは、白い花を見る。
指の中で揺れる、小さな形。
ネリネが受け取らなかったもの。
それを見ながら言う。
「捨てたら」
一拍。
「何も残らない気がするからね」
ナベリウスは鼻を鳴らした。
「甘いな」
「そう?」
「悪魔のくせに」
「君もでしょ」
短いやり取りで終わる。
でも、その言葉は残る。
前を歩くネリネの背中。
さっきより、少し遠い。
それでも、目が離れない。
ネリネは無意識に胸元に手を当てる。
何もない場所。
でも、重い。
呼ばれた気がする。
名前はない。
アスモデウスはその背中を見る。
何も言わない。
言えない。
言えば壊れるかもしれない。
でも、もう始まっている。
残っているものが、形を持ち始めている。
ナベリウスはそれを嗅ぎ取っている。
ネリネは気づき始めている。
アスモデウスだけが、それを知っている。
だから、言わない。
森の奥へ、道は続く。
春の匂いの奥に、別の気配が混じる。
終わっていない死。
誰かのまま残っているもの。
それはまだ、名前を持たないまま、彼らの中にあった。
残ることは、救いとは限らない。
それが自分のものなら、まだいい。
けれど、そうでないものが残ったとき、
人はそれをどう扱えばいいのか分からなくなる。
捨てれば軽くなる。
けれど、同時に何かも消える。
残せば重くなる。
けれど、そこには確かに“意味”が残る。
そのどちらも選ばず、
ただ抱えたまま進むという選択もある。
それは弱さかもしれない。
あるいは、強さかもしれない。
森は深くなる。
春の匂いの奥で、
まだ終わっていないものが、静かに形を持ちはじめている。
それが何になるのかは、まだ分からない。
ただ一つ確かなのは――
それは、もう“なかったこと”にはならないということだ。




